なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(66)

10月16(日)聖霊降臨節第20主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

③ 讃美歌  205(今日は光が)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-205.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編146編1-10節(讃美歌交読文159頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙15章22-29節(新約296頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   470(やさしい目が)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-470.htm

⑨ 説  教   「切望の実現を願う」            北村慈郎牧師

  祈  祷

 

パウロはローマの信徒への手紙(以下ローマ書)の今日の箇所の最初に、「ローマの教会に今まで何度も行こうとしたけれども妨げられてきた」と述べています。このことは、ローマ教会へ行くことが自分の思い通りにはならなかったことを意味しています。23節には、「あなた方のところに行こうと長年にわたって熱望していた」と言われていますから、パウロのローマ教会行きは、彼の長年の切望だったけれども、今までは何度も妨げられて行くことが出来なかったというのです。

 

これは、パウロの異邦人使徒としての伝道活動について言われていることです。自分が熱心に願っても、実際にはなかなか自分の願い通りには動いて行けなかったということを語っているのです。それが「妨げられた」ということではないかと思います。実際には、<「あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました」といっている事情は、この手紙をおそらく56年春に執筆しているとして、それに先立つ2年間、ガリラヤ教会やコリント教会など彼がその「土台を据えた」教会で福音の真理のために命をかけて敵対者と対決を繰り返さざるをえなかったことと、――その成果がなによりもガラテヤ書であり、Ⅰ、Ⅱコリント書である――そして後述する異邦人教会からエルサレム教会への交わり(コイノニア)のしるしとしての献金集めを、少なくとも中心課題の一つとする第三伝道旅行に従事したことを考えているのであろう>(川島)。

 

これは伝道活動だけではなく、私たち一人一人の人生についても言えるのではないでしょうか。おそらく皆さんの人生を振り返ってみても、自分の願望通りに生きてくることが出来ているかと言うと、そういう人は皆無に近いのではないでしょうか。ここでパウロが言っていますように、長年切望してきたことがなかなか実現せずに妨げられてきたという経験をしている人も多いのではないでしょうか。

 

人間の生活は、自分の思い通りにはいかないものです。誰の生活も、見えない手によって支配されているのを感じるのではないでしょうか。竹森さんは、「そのことは、伝道において最も著しいものであります。伝道には二つの要素があります」と言って、このように語っています。少し長くなりますが、紹介します。「ひとつは、神の熱心であり、もうひとつは、人間の熱心であります。われわれは、伝道を人間の熱心だけに考えがちであります。自分たちが計画をし、自分たちがそれを進めてゆかねばならないと思うのです。福音によって救われた者が、それを他の人に伝えるために、熱心をもって伝道するものであると考えるのであります。/しかし、それと共に、神の熱心のあることも考えねばなりません。神の熱心というと不思議に思われるかも知れませんが、福音をもって人間を救おうとされる神に、熱心がないわけはないのであります。したがって、伝道は、神の熱心によって導かれねばならないのであります。伝道のすべては、神に委ねるというのでなければ、正しいとは言えないのであります。/パウロは、いつも、それを経験していました。たとえば、使徒言行録には「それから彼らは、アジアで御言を語ることを聖霊に禁じられた」(16:6)と書いてあります。ここでも、パウロは、イスバニアに行き、その途中でローマに立ち寄りたいと思っていました。しかし、その計画は、今までに、何度も神に止められたのであります。こちらでの伝道のために変更させられたのであります。神の熱心が、人間の熱心を変えられたのであります。/箴言には、大変有名な言葉があります。「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である」(16:9)。人間は計画する、しかし、導くのは神である、というような意味の言葉は、ほかにもないわけではありません。しかし、それは、伝道において、もっともよく生かされるのであります」。

 

竹森さんはこのように語っているのであります。私たちは、私たちの切望が妨げられることの中に、見えない手である神の導きがあるということを、心に銘記しておきたいと思います。

 

しかし、パウロは今まで妨げられていたローマ教会行きが、いよいよ現実になっていると、23節以下で語っているのです。<だが今や、これらの地域ではもはや場所がなく、またあなた方のところに行こうと長年にわたって熱望しているので、途中であなた方に会い、まずあなた方のことを何ほどか享受できたら、あなた方によって更にスペインへと送り出してほしい、と期待している>(23節、24節、田川訳)。しかし、その前にパウロが設立した異邦人教会で集めた献金エルサレム教会に持って行かなければならないので、その仕事を終えて、<あなた方のところに行く時には、キリストの祝福に満ちて行くことになると思う>(29節、田川訳)と言っているのであります。

 

「だが今や(しかし今や)」は、今まではローマ教会行きは妨げられていたが、しかし、今は、神の許しを得て、自分の願い通りに進むことができると言うのであります。このところを読むと、いよいよその時が来たと感じ、パウロが期待に心躍らせている様子が伝わってきます。

 

パウロがローマ教会行きを熱望しているのは、1章15節で「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたい」(新共同訳)と言われていますように、ローマでも福音を告げ知らせることですが、最終的な目的であるイスバニア(スペイン)伝道を思い描いているからです。パウロにとって、イスパニアは未開の地であり、地の果てでありました。パウロの思い描いていた世界は、パレスチナを中心として現在のエジプト、イラクギリシャ、イタリア、スペイン(イスパニア)位までであって、スペインが地の果てであったと思われます。パウロパレスチナの一部シリアのアンテオケ教会を拠点にして西方に向かってローマ帝国の植民都市を中心に伝道を広げていきました。パウロは一つの大都市に教会を設立すると、その教会に周辺への伝道は委ねて、また別の大都市に拠点としての教会を設立するという形で伝道を展開しました。そしてパウロの考えでは全世界に伝道していくことを目標としていたと思われますパウロがいつも考えている伝道の相手は異邦人です。「すべての異邦人を信仰の従順に至らせる」(1:5)ことが、彼の目標でありました。パウロは「わたしには、ギリシャ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果たすべき責任がある」(1:14)と感じていたようです。その意味では、一人一人に福音を告げ知らせることですが、同時に全世界が信仰の従順によって福音に与ることを追い求めて伝道に熱心であったと思われます。イスパニア伝道を志したのは、トロアスで彼が幻を見たように、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けてください」(使徒6:9)という声を、彼は、イスパニアからも聞く思いがしたからかも知れません。パウロは、異邦人の一人一人から福音を希求する魂の叫びを聞いていたのかも知れません。福音によってしか、人間の救い(解放)はないという思いがパウロを強くとらえていたのでしょう。

 

ガラテヤの信徒への手紙3章26節以下に、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(3:26-28節、新共同訳)と言われていますが、このようにすべての人がキリスト・イエスにおいて一つであるというパウロの信仰が、彼の伝道への熱心さを生み出していたのではないでしょうか。

 

それと共に、パウロが全世界に福音を宣べ伝えるという世界伝道を熱心に希求したのは、復活された主イエスが、天に帰られる直前に弟子たちに与えられた「すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)という命令が、伝承となってパウロにも伝えられていたからかも知れません。

 

何れにしろパウロのような伝道に対する熱心さは、私たちには欠けているかも知れません。それは福音に出会い、回心し、バプテスマを受けてキリスト者になった私たちの中に、心の救済だけを求め、社会的責任を負おうとしないキリスト者が、残念ながらいるからです。ですから、信者を増やすだけの伝道では駄目なのではないかという思いがあるので、伝道ではなく、社会的責任を大切にする宣教が私たちの使命ではないかと考える人も多いのです。私たちもそうではないでしょうか。その宣教の働きにおいて、私たちも熱心でありたいと思います。

 

さて、ローマ教会行きの前にパウロにはなすべき仕事がありました。それは、異邦人が中心メンバーのパウロが設立した教会から集めた献金エルサレム教会へ届けることです。26節から28節のところに、そのことが記されています。田川訳で読んでみます。<マケドニアとアカヤ(の教会の人たち)がエルサレムにいる聖者たちのうち貧しい人たちのために何ほどかの交り(実質上「献金、募金」を指す)をなすことをよしとしたからである。彼らがこれをよしとしたのは、エルサレムの聖者たちに債務を負っているからである。すなわち異邦人が彼らの霊的なものの分け前にあずかったのであれば、肉的なものにおいて彼らに仕えるべき債務を負っているのである。私はこのことを完遂して、その果実を彼らに対して封印した(渡した)ら、あなた方のところを通ってスペインに行こうと思う>。

 

このところでは、エルサレム教会への献金は「エルサレムにいる聖者たちのうち貧しい人たちのため」の献金であると言われています。エルサレム教会には多くの文字通り貧しい人たちがいて、この異邦人の献金がその人たちの困窮に実際的な助けとなったこと否定できませんが、この異邦人の献金は文字通りの貧しい人のためというよりも、エルサレム教会への献金であったようです。エルサレム教会の人たちは自分たちのことを「貧しい者」と呼んでいました。これは経済的な貧しさの意味ではなく、神の前で謙虚な者という意味です。この「貧しい者」は、エルサレムキリスト教徒だけではなく、当時のユダヤ教の敬虔派全体に共通する言葉遣いだったと言われています。ですから、この献金に託された意味は、単なる物質的に貧しい人たちへの慈善行為ではなく、異邦人教会とエルサレム教会の連繋(交わり)の保持にあったのです。異邦人教会とエルサレム教会とが連帯協力して福音宣教に励んでいこうという思いのしるしが、この献金であったということです。ですからパウロは何としても自分でこの献金エルサレム教会に届けなければと思っていたのです。ローマの教会の人々には、その辺の微妙なニュアンスまで説明すると長くなるので、26節で「あの人たちの中の貧しい人たち」と言っておけば話が通じるだろう、とはしょった言い方をしたのでしょう(田川)。

 

この献金を持って行ったパウロのエルサエム教会訪問が、エルサレムパウロを憎むユダヤ人の反感・攻撃によって、パウロは、リンチにあいそになり、それから身を守るためにローマ市民権を利用してローマ皇帝に上訴します。そして、ローマ兵に守れた囚人として後日ローマに行き、そこで殉教したと言われています。ですから、実際にはこのローマ書で言われているような形でのローマ教会への訪問は実現しなかったのです。それだけ、パウロは異邦人教会とエルサレム教会(ユダヤ人の教会)との交わりを大切に考えていたということではないでしょうか。

 

私たちの日本基督教団はどうでしょうか。カナダ合同教会はその宣教理念に基づいて海外の教会、団体に献金を送っています。最近カナダ合同教会所有の日本の資産を現金化し、教団には総額7800万円を3年にわたり送金し、教団の宣教に役立てていただきたいとの連絡がカナダ合同教会の総主事の方からあり、その使い道を両者で協議することになっているようです。カナダ合同教会は多様性を重んじ、少数民族の人々を大切にしている教会です。日本基督教団は多様性を認めず、沖縄の人たちを大切にしているとは思えません。伝道か宣教かということで言えば、宣教を大切にしている教会です。それに対して、今の日本基督教団は全体として伝道に傾いています。聖餐についても、カナダ合同教会は誰にでも「開かれた聖餐」を行っており、日本基督教団は洗礼者だけが与かることのできる聖餐を主張しています。その意味で、その宣教理念に基づいて海外の教会、団体に献金しているカナダ合同教会の献金を、今の日本基督教団は受けるに値する教会であるか、はなはだ疑わしいとしか言えません。

 

福音であるイエスの出来事に根差した教会間の連携・交わりに耐えうる日本基督教団でありたいと願わずにはおれません。そのことも、この献金問題から問われているのではないでしょうか。

 

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、私たちの思いや願いがあなたの御心にふさわしいものであるかどうか、常に問いつつ私たちがこの日常を生きていけますように、私たちを導いてください。
  • 神さま、互いに競い合うのではなく、支え合い、分かち合う者へと、私たちを導いてください。国家や資本の横暴を許すことなく、国家や資本もあなたに仕える私たちに与えられている機能とさせてください。
  • 今さまざまな苦しみの中にある人びとを助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     405(すべての人に)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-405.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。