なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(67)

10月23(日)降誕節前第9主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。」

詩編100:1-2)

③ 讃美歌  224(われらの神 くすしき主よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-224.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編148編1-6節(讃美歌交読文161頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙15章30-33節(新約296頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   58(み言葉をください)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-058.htm

⑨ 説  教    「共に祈って欲しい」          北村慈郎牧師

  祈  祷

 

今日のローマの信徒への手紙(以下ローマ書)の箇所(15:30-33)は、この手紙の本来の結尾の部分になります。16章はローマ書の付録になります。

 

30節で、パウロはローマの教会の人たちに向かって、「兄弟たちよ」と呼び掛けて、彼のための執り成しの祈りを切望しています。<我らの主キリストによって、また霊(聖霊)の愛によって、兄弟たちよ、あなた方に呼びかける。あなた方が私のために神に祈る祈りにおいて、(…31節…)私とともに競ってほしい>(田川訳)。田川さんは、新共同訳が「わたしと一緒に…熱心に祈ってください」と訳しているところを、原語に忠実に「私とともに競ってほしい」と訳しています。「競ってほしい」は、「スポーツ競技などで勝利を目指し競う、という意味の語」(田川)です。パウロは、「わたしと一緒に…熱心に祈ってください」とローマの教会の人々に切望しているのですが、それをスポーツ選手が勝利を目指して共に競うように「競ってほしい」という言い方で言っているのです。「競ってほしい」は、それだけ強くローマの教会の人々に自分と一緒に祈ってほしいと、パウロが願っていることを表している言葉だと思います。このところを、「わたしのために、神への祈りにおいてわたしと共に闘ってください」と訳している人もいます(川島)。そして「まさにパウロとの祈りの共闘が(ローマ教会の人々に)切実に求められている」と言うのです。「競ってほしい」にしろ、「共闘してください」にしろ、ローマの教会の人々に自分のために祈ってもらいたいというパウロの思いが、どんなに切実な願いであったのかを表していると思います。

 

その理由が31節に記されています。<私がユダヤにいる不従順の者たちから救われ、エルサレムに対する私の奉仕が聖者たちに喜んで受け入れられるものとなるようにと>(田川訳)。このところを読みますと、パウロ献金を届けるためのエルサレム教会訪問に当たって、二つのことを危惧していたことが分かります。一つは「ユダヤにいる不従順な者たちから救われる」ことです。「救われる」というのはおだやかな言葉ではありません。しかし、パウロが予感する限りでは、救われるという言葉が必要なほどに、切迫した事情があり、悲しいことが待ち受けていたのであります。「ユダヤにいる不従順な者たち」とは、エルサレムにいるユダヤ人のことを指しています。ユダヤ人にとってパウロは許すことが出来ない反逆者でありました。ご存じのようにキリスト教徒になる回心前のパウロは、熱心なファリサイ派の律法学者でした。そしてイエスの復活後誕生した教会の迫害者でした。パウロは自分で、「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(フィリピ3:6)と言っています。そのパウロが自分たちを裏切って、迫害していた教会側の伝道者となって福音宣教に励んでいるのですから、ユダヤ人にとっては頭にきたのではないかと思います。ですから、機会があればパウロを捕まえて、あわよくば殺してしまいたいと思っていたのです。エルサレムに行けば、そのようなユダヤ人によって捕らえられ、リンチにあうかも知れないと、パウロ自身よくわかっていたのです。使徒言行録20章17節以下でその著者ルカは、「パウロは、ミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した」と言って、そのパウロが話した内容の中で、このように記しています。「そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」(20:22,23、新共同訳)と。

 

パウロエルサレム訪問のもう一つの危惧は、エルサレム教会の人々が自分をどう受け入れてくれるかということでした。ですから、「エルサレムに対する私の奉仕が聖者たち(エルサレム教会の人たち)に喜んで受け入れられるものとなるように」と、わたしと一緒に祈って欲しいと、ローマの教会の人々に切望しているのです。パウロエルサレム教会の人々との間には、緊張関係があったと思われます。エルサレム教会の主な人々は、イエス・キリストの福音は信じていましたが、ユダヤ教以来の律法を守るとか割礼を重んじるということがやはり必要だと思っていました。ガラテヤの信徒への手紙には、ペテロさえ異邦人とは食事を共にしなかったということが記されています。「ケファ(ペテロ)は、ヤコブエルサレム教会の中心的な指導者で、イエスの弟)のもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうしたからです」(2:12)。ですから、パウロには、異邦人教会からの献金に対しても偏見を持つ者がエルサレム教会にはいるかもしれないし、そもそも異邦人に伝道することすら快く思わない人たちもいるかもしれないという心配があったのでしょう。

 

ローマへの手紙が、14章から、非常に多くの分量を、強い者と弱い者の問題に割いていた理由が、ここにいたると、よく分かるのではないかと思います。諸教会の中には、現実に、この種の争いがあったことは事実でありましょう。パウロは、それを非常に心配していたにちがいありません。また、それは、強者の立場にある異邦人教会、たとえば、ローマの教会などにこそ理解してもらいたいことであったでしょう。だからこそ、これを書いたのでしょう。この教会内にある強い者と弱い者の問題は、現在でも形を変えて存在していると思われます。わたしより前の世代では、禁酒禁煙の問題をめぐって、自由な考え方を持つ人とそれに囚われている人との間で何がしかの葛藤がありました。以前お話ししたかも知れませんが、私は1963年から1969年まで東京神学大学で学びましたが、学部3年か4年の時に、寮の中でお酒を飲む人と飲まない人の間で問題が起こり、それをめぐって全学集会のようなものが開かれたことがありました。その時、話をされた教授だった加藤常昭さんが、どちらがよいということではなく、確か「配慮の問題」ではないかと話されたのを覚えています。また、現在の日本基督教団におきましても、政治には関わらないという立場の福音理解をしているキリスト者や教会と、キリスト者の社会的責任が問われるという福音理解をしているキリスト者、教会との間での葛藤があります。教団における私の戒規免職処分は、直接的には聖餐が問題になっていますが、その背後にはこのような福音理解の違いがあると思います。どちらが強い者で、どちらが弱い者かは分かりませんが、今でも教会の中に深刻な対立があることは事実です。

 

パウロは、信仰によってのみ義とされるという福音理解に立つ自分と異邦人教会が絶対に正しく、まだ律法の義に拘(こだわ)っているユダヤ人教会であるエルサレム教会が絶対に間違っているという風には考えませんでした。ですからエルサレム教会を排除しなかっただけでなく、異邦人教会との交わりの実りとしての献金を自分がエルサレム教会へ、先ほど触れたような危惧を持ちながらも、何とか届けたいと思ったのです。そして実際にエルサレム教会に行って、献金を届けるのですが、エルサレムユダヤ人から襲われそうになったので、パウロが持っていたローマ市民権によって皇帝に上訴してローマ兵に守られて、ユダヤ人の襲撃から逃れることになるのです。

 

そういうわけですから、パウロとしては、自分の立場をよく理解して、心を合わせて一緒に祈ってくれることを、異邦人の教会であるローマ教会の人々に期待して、<我らの主キリストによって、また霊(聖霊)の愛によって、兄弟たちよ、あなた方に呼びかける。あなた方が私のために神に祈る祈りにおいて、(…31節…)私とともに競ってほしい>(30節、田川訳)と、手紙に書いたのです。そして、32節では、<また、神の御旨によって喜びをもってあなた方のところに行き、あなた方のところで共に休息をえられるように、と>(田川訳)と書いたのです。エルサレム教会との憂鬱な交渉、ユダヤ系信者との対立などから考えれば、それらが終わって、自分と同じ立場にある異邦人教会であるローマの教会に行くことは、どんなに嬉しいことであったか知れません。少なくとも、ここでは、戦いがひとつ少なくなるのです。それも、根本的な戦いがひとつ減るわけであります。ですから、すべてのことが終わって、ローマ教会に行く時には、喜びをもって行くことができると思ったでありましょう。「喜びをもってあなた方のところに行き」に、素直な気持ちをそのままに出したと言えるのであります。

 

「喜びをもってあなた方のところに行き」だけでなく、パウロはその後に「あなた方のところで共に休息をえられるように」とも書いています。あなたがたのところで休みたいと言うのです。エルサレムで予想される死闘は、今までにも何度も経験したことがあります。それを知り尽くしているパウロが、すべてのことが終わってから、晴れやかな気持ちでローマに行き、そで暫く休養したと思ったとしても、少しも不思議なことではありません。彼は、切に休みたいと思ったのでしょう。そして、そういう休みは、あの煩わしい問題が起こりそうもない異邦人教会であるローマがもっとも適当であったに違いありません。イスパニア伝道ということから考えても、彼は、英気を養う必要があったのでしょう。しかし、ただ休むことだけで、パウロは慰められ、力づけられたとは思えません。もちろん休むことは必要なのですが、異邦人伝道の立場から、パウロをもっともよく理解できる人々の、福音の理解から出てくる慰めこそ、パウロがもっとも求めていたことではないでしょうか。ローマに行って、ローマ書に書いたような福音を語り合うことによって、パウロは、すでに承知していることながら、とんなに励まされ、慰められることか分かりません。

 

喜びも同様であります。パウロエルサレム教会で出会う困難がどんなに大きくあっても、パウロは、ただそれを逃れることができたというだけで喜ぶことはないでしょう。彼が、そこから喜びをもってローマに行くことができるとすれば、それは、彼の信仰による喜びが増し、鍛えられたからでありましょう。それは、やはり、福音が正しかったということを確信させるものであります。それからのちどんな戦いにおいても、福音が最後の勝利であることが、力になるようなそんな戦いであります。それは、苦しみを戦って、もはや、困難がなくなったとうのではなく、どんな戦いの中でも、恵みを知って感謝することであります。それは、どんなことの中にも、神がついていて下さって、祝福して下さることを信じることができることであると思います。福音を純粋に守ることについての戦いは、パウロによっても、簡単に終わるものではなかったでありましょう。しかし、パウロは、その中にあって、いつも、神の祝福を信じることができたのであります。信仰の喜びはそこにあります。

 

神の祝福が中心であれば、「神の御旨により」ということは、言葉どおりに、神の御旨によると考えられねばならないと思います。われわれの苦しみも、それから脱け出ることができることも、すべては、神の御旨によることであります。事柄が難しければ難しいほど、それを深く思わないわけにはいかないのであります。

 

パウロは、最後に、いつものように、平和の神が、ローマ教会とともにあるようにと祈って終わっています。33節<平和の神があなた方すべてとともにあるように。アーメン>(田川訳)。自分の生命が危険にさらされているような教会の混乱が予想されている中にあって、パウロは、自分にも、他の人にも祈りたいのは、平和の神が一緒にいて下さるようにということです。そして、われわれの心の中に、平安を与え、信仰による確信を強めていただきたいと願うのであります。平安があるようにと、パウロは何度書いたことでしょう。しかし、今は、神からの平安だけでなく、その平和をもたらす神ご自身が、一緒にいて下さることを、切に祈るのであります。これは、激しい叫びにも似た信仰者の祈りであります。われわれが、自分のためにもひとのためにも、いつも祈らねばならない最大の祈りであります(竹森)。

 

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、パウロが未知の教会であるローマの教会の人々に、「平和の神があなた方はすべてとともにあるように」と祈りました。私たちも、この祈りを自分のためにもすべての他者のためにも祈りたいと思います。そしてこの祈りが私たちの中で現実となると共に、この世界の中で現実となるように求めていきたいと願います。そのあなたの平和は、イエス・キリストの十字架によって私たちにもたらされ、この世界にもたらされることを、あなたは私たちに示してくれています。私たちに与えられている、それぞれ自分の十字架を背負って、あなたに従って生きることができますように導いてください。
  • 今さまざまな苦しみの中にある人びとを助けてください。病を負って歩む方々の上にあなたの癒しの力が与えられますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     529(主よ、わが身を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-529.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。