なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(3)

6月13日(日)聖霊降臨節第4主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌    6(つくりぬしを賛美します)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-006.htm
④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編67編2-6節(讃美歌交読詩編70頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   ローマの信徒への手紙1章5-7節(新約273頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  288(恵みにかがやき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-288.htm

説教      挨拶―その3「ローマの人たち一同へ」    北村慈郎牧師

 

  • ロマ書はパウロがローマの教会の人たちに宛てて書いた手紙です。手紙には当然書き手と受け手との間に何らかの関係があります。ロマ書の場合は、パウロが未知の教会であるローマの教会の人たちに書いた手紙ですから、この手紙を書く前に、パウロとローマの教会の人たちとの間に、直接的に出会うということはありませんでした。しかし、ローマの教会の人たちは、パウロの名前をこの手紙を受け取る前にも聞いていた可能性は否定できません。私たちが想像する以上にローマ時代の交易による人の行き来は頻繁に行われていたからです。

 

  • 実際に会ったこともない人たちに手紙を書くのですから、宛名を書くつもりで、自分の名を書きはじめたパウロは、自分がどういう人間であるかを未知の教会の人たちに知ってもらいたいと思い、特にイエス・キリストとの関係において自分がどういう人間であるのかを書こうとしたのではないかと思います。そこで先ずロマ書1章1節で、≪パウロ、キリスト・イエスの僕、召された使徒。神の福音のために選び分かたれた者。≫(田川訳)と自分自身を言い表したわけです。

 

  • そのように書いて、パウロは「神の福音」とは何かについて、説明を加える必要を感じ、「この福音は、・・・わたしたちの主イエス・キリストです」と書き加えました。それが2-4節です。この個所については、前回の説教で取り上げました。

 

  • ロマ書は手紙ですから宛先である相手があります。その相手に対して、この自分が何を語ろうというのか、何をしようというのか、どういう関係に立っているのであろうか。それをパウロが語るには、相手と自分を繋ぐキリストとの関係から語るしかありませんでした。そこで、パウロは、「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました」(5節、新共同訳)と言ったわけです。この新共同訳の「御名を広めて」は意訳し過ぎという批判があります。原文では「彼の名のために」です。「わたしたち」は執筆者を指す複数の類いで、1人称複数形ですが、パウロ自身を指していると解し得るであろうと言われています。

 

  • 自分が使徒であるということは、既に1節でパウロは語っています。ここでもう一度自らを使徒と言うのは、ローマの教会の人たちに自分はあなた方もその中に含まれる「すべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされ」遣わされた者であると言うためです。パウロの意識からしますと、パウロとローマの教会の人たちとの関係は、使徒と信仰の従順に導かれる人ということになります。

 

  • ご存じのように、パウロが神に召されて使徒となったと自覚したのは、ダマスコ途上における回心の時でした。そのことを自ら振り返って、ガラテヤの信徒への手紙1章13節以下にパウロはこのように記しています。少し長くなりますが、引用します。「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分かち、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示し、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしよりも先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした」(ガラ1:13-17)。

 

  • この回心についてのパウロの述懐の記事を読みますと、彼に御子(イエス・キリスト)が啓示されたことと、異邦人の使徒となることとは同時であり同一であったと言えます。そのことを言い表しているのが、5節の「恵みと使徒職を受けた」(新共同訳は「恵みを受けて使徒とされた」)です。この「恵みと使徒職」というように、恵みと使徒職という二つを同時に言わなければ、恵みだけ、使徒職だけでは、パウロは自分に与えられたものを十分に言う表すことが出来ないと考えていたのではないかと思われます。この言い方は、ここだけではなく、いろいろな機会に形を変えて、パウロの手紙の中に出てきます。復活について語られています、コリントの信徒への手紙一、15章の10節もその一つです。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」と。

 

  • 神の恵みを受けて、自分は生命に入れられた、そのことが、彼に使徒としての生涯の使命を与えてくれた。彼にとっては、この二つは、どうしても切り離して考えることはできなかったのです。

 

  • バルトは、この「恵みと使徒職を受けた」というパウロにおいて生起している信仰の出来事について、「パウロと他のキリスト者との相違は、程度の差しかない」と言っています。つまり、パウロが回心を通してキリストから受けた恵みと使徒職は、程度の違いはあっても、私たちキリスト者すべてに当てはまると言うのです。私たちはこのことを見失ってはなりません。

 

  • キリスト者とは、イエスの出来事(生涯と十字架死と復活)を通して私たちに与えられた神の恵みによって生きる者のことです。この神の恵みは、私たちのそれまでの生が罪と死の支配の中にあったことに気づかせてくれました。私たちは回心して、本当の命であるキリストの復活の命の中に入れられたのです。その時から私たちはその神の真実に、自分の真実をもって応えて生きる者に変えられたのではないでしょうか。それがパウロにとっては使徒職でしたが、私たちの中にもそれぞれに程度の差はあっても神の真実に自分の真実をもって応えて生きる務めが与えられているのではないでしょうか。

 

  • バルトは続けて、「キリストの恵みのあるところでは人間はどれほどためらいと懐疑をもっていたとしても、あらゆる時代の事物の転回点の、すなわち復活の宣教に参与する。かれにとって、世界の存在は、かれがそれととりくまなければならない問題となり、神の存在は、かれがそのためにたたかわねばならない希望となる」と言うのです。

 

  • イエス・キリストと出会って信仰に導かれた者はすべて、「復活の宣教に参与する」ことになるのだと言うのです。そして「復活の宣教に参与する」者にとっては、「世界の存在は、かれがそれととりくまなければならない問題となり」また、「神の存在は、かれがそのためにたたかわなければならぬ希望となる」と言うのです。神の恵みによって生きるキリスト者とはそういう者なのだと言うのです。

 

  • このようなキリスト者としての実存に、私たちは信仰者としてどこまで深く目覚めて、世界の存在、この破れに満ちた世界の現実を、私たち信仰者がとりくまなければならない問題として、神の存在をそのためにたたかわなければならぬ希望として、日々生きているでしょうか。

 

  • バルトは更に続けてこのように語っているのです。「かれ(パウロであり、他のキリスト者でもある)の確信をつらぬき、ひろめることが問題なのではなく、かれがキリストにおいて出会った神の真実、かれがその真実を知ったことにより、応答真実をささげる責任を負ったその神の真実を証言することが問題なのである。このような人間の応答真実、すなわち恵みをうけとめる信仰は、当然従順への要求でもあり、その要求はまた他の人間にも向けられるものである。この要求は、呼びかけ、照明をあたえ、ゆり起こす。このような要求こそが宣教であって、それ以外に別の宣教が存在するわけではない」と。

 

  • 今日もまた、バルトの引用が長くなってしまいました。今日のロマ書のテキストを繰り返し、繰り返し読んで、ここで何か私たちに語られているのだろうかと耳を傾けていると、バルトの言葉に心動かされてしまうのです。ですから、みなさんと共有したいと思ってしまうのです。お許しください。

 

  • さてパウロはこのようにロマ書の手紙の挨拶の部分(1:1-7)を語って来て、やっと宛先のローマの教会の人たちのことを書いています。「この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」(6節、7節a)。

 

  • パウロはローマの人たちのことを、「イエス・キリストのものとなるように召された」、また「神に愛され、召されて聖なる者となった」と言っているのです。自分を使徒に召した同じ神が、ローマの人たちをも召しているのだと、パウロは言っているのです。そこに自分とローマの人たちを一つにするものがあると言うのです。

 

  • 昨日私の支援会でZOOM懇談会を行いました。参加者は全国から40人ほどでしたが、そこで関田先生が挨拶してくださいました。先生はその挨拶の中で、私を戒規にかけた教団中枢の人たちは私を排除しようとして無理やり規則を変えてまで私を免職にしたことは許しがたいが、そういう人たちも同じ教団に属することにおいては、キリストによって一つにされているのだから忍耐強く取り組んでいきたいという主旨のことを仰いました。

 

  • パウロとローマの人たちとの関係と、私と私を免職にした人たちとの関係は全く異なりますが、その両者に働きかけてくださる方によって、両者が良好な関係にあろうが、敵対的な関係にあろうが、一つにされていることには変わらない。そいうことではないでしょうか。

 

  • パウロを異邦人たちの使徒たらしめたその同じ神は(1:1)は、ローマの教会の人たちをも、「イエス・キリストのものとなるように召され」また「神に愛され、召されて聖なる者となった」のだと言うのです。だから、「かれらはもはやかれら自身のものでも、古い過ぎ行く世界のものでもなく、かれらを召した方のものである。かれらのためにもまた、人の子は復活の力により神の子と定められたのである。かれらもまた今ここにおいて偉大な危急と希望の認識の中にとらえられている。かれらもまたかれらの仕方で、神のために選びわかたれ単独者となったのである。かれらの新しい前提もまた、「われらの父なる神および主イエス・キリストからの恵みと平安」である。この前提がいつも新しい出来事として生起するように! かれらの平安がかれらの不安となり、かれらの不安がかれらの平安となるように! それがロマ書のはじめであり、おわりであり、内容である」。

 

  • 当時のギリシャ人やローマ人は「喜び」や「繁栄」を願ったと言われます。手紙の挨拶にそれを書いたかどうかは分かりませんが、それに対して、パウロは「恵み」と「平安」を願うのです。「これらの言葉は、教会を教会たらしめ、キリスト者キリスト者たらしめるもの――人間に対する神の助けと、この助けに基づく人間生活の秩序――を、いわば上から、また下から指し示している。イエス・キリストにおいてこのふたつのことが出来事になっている。しかし、それはまた常に新しく期待され、従って両者の源泉である方に願い求められるべきものでもある。すなわち、われらの主イエス・キリストによって父として認識される、われらの父なる神に――またそのような方として、われらの父なる神への道である、主イエス・キリストに願い求められるべきものである。これらの形式の二つの面を分離することが少なければ少ないほど、一方が他方によって解明されうることがいっそうはっきりわかるようになり、かくして両者をいっそう正しく理解するようになる」。

 

  • 「恵みと平安」。これは「人間に対する神の助けと、この助けに基づく人間生活の秩序」であると言われます。私たちも、現実がどんなに厳しくとも、「恵みと平安」の日々へと招かれていることを覚えたいと思います。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 神さま、パウロは、イエス・キリストの福音という出来事によって、あなたが私たち人間にあなたの恵みを与えてくださっているということから、すべてを見ているように思われます。自分もローマの教会の人たちも、そしてすべての人を、です。
  • 神さま、今日のロマ書の個所から、私たちがあなたの真実に自らの真実をもって応えて生きていくことこそが、キリスト者の生きざまであることを教えられました。ありがとうございます。私たちが日々新たに聖書を通してあなたの真実に触れることができますように、お導きください。そのあなたの命によって、私たちが、日々新たに私たちの真実をもって応えて生きていけますように、お導きください。
  • 神さま、この1年数か月に及ぶ新たなウイルスの脅威の中で、改めて国家をはじめ権力者の頼りなさを痛感させられています。誰かに委ねて政治を行うシステムでは、一人一人の命と生活が守られないことがはっきりしたように思われます。神さま、私たちの中に共助の精神と行動をもって、新たな社会をつくり出す動きを起こしてください。すでにいろいろな所でそのような試みが始まっていると思われます。どうぞその試みが実りあるものとなっていきますようにお導きください。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   481(救いの主イエスの)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-481.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。