5月29(日)復活節第7主日礼拝(10:30開始)
(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま
しょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。
この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から
解き放つ神」。 (詩編68:20-21)
③ 讃美歌 208(主なる神よ、夜は去りぬ)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-208.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編102編13-19節(讃美歌交読詩編110頁)
(当該箇所を黙読する)
⑥ 聖 書 ローマの信徒への手紙11章13-16節(新約290頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 529(主よ、わが身を)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-529.htm
⑨ 説 教 「根と枝」 北村慈郎牧師
祈 祷
- イエス・キリストを信じる信仰に喜びを私たちが感じているとすれば、その信仰を
身近な者に伝えて、その人も信じるようになることを心から願うに違いありません。信仰は、私たちの幸福に関わるだけでなく、救い(人間としての解放)に関わるわけですから、余計にそのようになるはずです。けれども、私たちはなかなか身近な者、特に一緒に住んでいる家族の者には、改めて信仰のことは言いづらいということもありますし、また、こちらの生活の裏の裏まで知っているので、そんな生活をしているくせに、と言われそうで、実際には信仰のことは触れないでいる場合が多いのではないでしょうか。
- パウロの同胞であるイスラエル、すなわち、ユダヤ人の救いを、本当に真剣に、熱心に願う姿を、このローマの信徒への手紙から知らされますと、そういう私たちの福音宣教(伝道)に対する中途半端な態度を反省させられます。
- 11章13節に「では、あなたがた異邦人に言います」とあります。ここからパウロは異邦人に向って語っているのです。具体的にはローマの教会の信徒たちに、です。
- パウロにとって、人間すべてはイスラエル人(ユダヤ人)と非ユダヤ人である異邦人でありました。パウロはローマ書を書いたのは、ローマの教会にパウロ自身が地の果てと考えていたイスパニア(スペイン)伝道をするために拠点となってもらうためでした。ですから、パウロにとって世界は、現在で言えばエジプト、中東諸国、ヨーロッパ諸国であって、アジアやエジプトエチオピア以外のアフリカ、アメリカ大陸、オセアニア大陸はパウロの世界には入っていませんでした。
- 同胞であるユダヤ人と非ユダヤ人である異邦人で、パウロにとっては全ての人間が包括されていたのです。神は自分の民としてユダヤ人を選んだが、一部のユダヤ人を除いて大多数のユダヤ人が頑ななので、イエス・キリストの救いは異邦人に与えられました。パウロも、異邦人の救いのために異邦人の使徒として熱心に宣教していたのであります。
- このローマの信徒への手紙(以下ローマ書)11章によりますと、パウロは、異邦人がイエス・キリストの救いに与かれば与かるほど、頑ななために神に棄てられたユダヤ人が妬みを起こして、再び神に従順になって、イエス・キリストの救いに異邦人と共に与かるようになるのではないか。それが神の計らいではないかと、信じ考えていたようです。ですから、パウロは、自分が異邦人の使徒として異邦人の救いのために熱心に働けることは、異邦人の使徒として光栄に思っているが、それは、自分の同胞であるユダヤ人が妬みを起こして、彼らの中から何人かでもイエス・キリストの救いに与かり、神の下に戻ってきてほしいからだと言っているのです。
- 13節、14節にこのように記されている通りであります。<そこであなた方に言う、あなた方異邦人に。私自身は、異邦人の使徒である限りは、私の務めを光栄としているが、それは私の肉(口語訳は「骨肉、他の訳の多くは「同胞」)を妬ませて、私が彼らの中から何人かでも救いたいと願ってのことである>(田川訳)と。
- ここでパウロが言っていることは、突き詰めて言えば、自分が異邦人の使徒になっているのも、何とかして異邦人だけでなく、ユダヤ人をも救いたいからなのだという意味です。それがパウロの言っていることの真意なのです。
- このようにパウロが言っているのは、同じユダヤ人として、同胞であるイスラエル、ユダヤ人に対する救いを強く願っていたからでしょうか。もちろん、その思いもあったに違いありませんが、それ以上に彼がキリストの使徒だったからではないでしょうか。彼はキリストの使徒として、異邦人を担当させられているだけなのです。<だから、彼が異邦人のために働けば働くほど、ユダヤ人の救いにも役に立つのです。それによって、救いが満たされること(11:12)になるからです。また、異邦人のために働きながら、ユダヤ人の救いが気になってしかたなかったパウロにも、真の慰めが与えられるのです。彼は自分の使命を果たせばいいのです。それによって、ユダヤ人が嫉妬に駆り立てられるように救いに熱心になるのです。そして、神の計画通りユダヤ人も異邦人も救われ、ユダヤ人についての神のみ業は、くずされることがないのであります。/まことに「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださる」(8:28)のであります>。
- 今ウクライナでロシアによる侵略戦争が続いています。この戦争はプーチンの世界観をはじめ、いろいろな原因・理由が考えられますが、その中の一つは、ロシア人とウクライナ人の民族間の葛藤にあると思われます。どの民族でもみな自分の誇りを持っています。しかし、その誇りは、やがて、自分たちだけが優れた民であるという抜きがたい優越感になるのであります。イスラエルがそうでありました。彼らは、自分たちこそ神の民であり、その他の者は異邦人であって、神には関わりのない者であると思っていました。しかし、この時代の異邦人の代表者のようなギリシャ人もまた、自分たちこそ文化人であると考え、そのほかの者はみな、未開の者だと思っていました。このような誇り高い者たちが、和解することは、ほとんど不可能に思われていたのです。
- <ところが、イスラエル、すなわち、ユダヤ人がキリストの救いから落ちるような立場になると、全く事情が変わってきました。イスラエルも、その巨大な誇りにもかかわらず、キリストの救いによらなければ、真のイスラエルになることができないことが明らかになりました。異邦人は、もちろん、キリストの救いがなければ、神の者となることができないことは、明瞭であります。こうして、イスラエルの不信仰によって、イスラエル自体が捨てられたような立場になった時、イスラエルも異邦人も、キリストによって和解させられることがはっきりしてきたのです。彼らの誇りの種類は違っているかもしれません。しかしそれが神に対する傲慢であることだけは、確かなことです。ところが、どちらも、キリストなくしては生きられないことが分かったのです。両方ともキリストによって救われて、はじめて和解ができ、ひとつになることができるのであります。「それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」(エフェソ2:15,16)という言葉のとおりです。キリストによる救いは、神との和解でありました(2コリント5:18,19)。その和解によって、はじめて、二つのものの教会における和解ができ上ったのであります。それが、イスラエルの不信仰からはじまったとは、まことに不思議なことであります>(竹森)。
- この驚くべき神のみ業は、さらに大きな神のみ業である「死人からの生命」(15節、田川訳、新共同訳「死者の中からの命」)に、私たちを導いていくと、パウロは語っているのです。それが15節です。<すなわち彼らの廃棄が世界の和解になったとすれば、彼らが積極的に受け入れられることは、死人からの生命以外の何であろうか>(田川訳)と。
- それを、16節で、パウロは、譬えでこのように語っているのです。<もしも最初のものが聖ければ、捏ね粉も聖い。もしも根が聖ければ、枝も聖いのである>(田川訳)と。
この譬えは良く分からないところがありますが、「最初のもの」や「根」で譬えられているのは、ユダヤ人でキリストの救いに入れられた者ということではないかと思われます。この人びとが救いを受けたことは、死人からの生命を確信させるよすがともなりましたが、また、旧約の信仰によっても、全イスラエルの救いを保証するものとなるというのであります。これを、さらによく説明すると、もし根がきよければ、その枝もきよい、ということになるでしょう。これは、大もとが神のものになれば、それに関係のあるひとつひとつのものが、やはり神のものとなる、と言いたかったのです。パウロは、救われたユダヤ人と全イスラエルの救いとの関係を説明しながら、それがどんなに密接なものであるかも言いたかったに違いありません。
- 「こうして全イスラエルが救われるといことです」(11:26)。これを言うことが、パウロの願いであったのです。イスラエルがいずれ救われる、ということは、イスラエルのひとりであったパウロの身びいきな願いではありません。あるいは、人間全体の運命について、信仰による見方が出て来たというのでもありません。もっとも大事なことは神の救いへの確信であります。
- <ここに、信仰生活に対して、新しい展望が開けたのであります。神の始めた業は、その選んだ器であるイスラエル人が期待にそぐわないで救いに洩れたように見えても、決してつぶれてしまったものではないのであります。神の計画は変わらないというのは、神の恵みが変化しないということです。何がどう変わろうが、神の恵みが動揺することがなければ、私たちは安心なのです。私たちは、いつも罪を犯す者であります。罪を犯しては、不安に駆られるのであります。こんなことで、救われたと言えるのであろうか。いや、自分の救いは、こうなっても、大丈夫なのだろうか、ということであります。神は恵み深い方であると聞いているが、こうなっては、もうダメだろうと思うのです。つまり、自分の気持ちだけで、神のみ心を計ろうとするわけです。パウロもまた、イスラエルの状態を見て、何度失望したことか分かりません。イスラエルの将来は絶望である、と思ったでありましょう。しかし、それがちがっていたのです。神の計画は動かないことが、かえって、ここから示されてきたのです。「たとい、わたしたちは不信実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」(2テモテ2:13)。これこそ、すべての慰めの源であります>(竹森)。
- <伝道は、いつも、困難であります。身内の者に対する伝道が難しいことも事実であるにちがいありません。そうかといって、他人に対する伝道がそれほど易しいわけではありません。/パウロは、異邦人に対する伝道者でありました。ただ、自分がユダヤ人であるために、異邦人に伝道しながら、ユダヤ人に対する伝道を忘れることがなかったのです。しかも、彼は、どちらに対する伝道も、決して易しくないことをよく知っていました。それがどのようなものであったか、彼は、コリントの信徒への手紙二の11章16節から33節の間に、事実をもって語っています。誰に対する伝道も、全く同じように困難であることを、パウロほどよく知っていた人はなかったことでしょう。そういう苦しみを語りながら、パウロが結論とし得たことは、何であったでしょう。彼は、それを、こう語っています。/「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。主イエスの父なる神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです」(Ⅱコリント11:29-31)。/自分の弱さを誇ることは、神の強さを誇ることです。神の恵みの変わらないことを確信することであります。したがって、みじめな失敗の連続に思われる伝道は、自分の弱さを思い知らされるのですが、それが、神の恵みの強さ、それによる神の計画の確かさに導かれなければ、悲惨であります。福音によって生きることの幸いは、その時はじめて、分かるのであります>(同)。
祈ります。
- 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
- 神さま、あなたは民族や国家を超えて、すべての人をあなたの救いに連ならせ、私たち人類に和解と死からの復活を与えようとされていることを信じます。どうか民族間、国家間の争いと憎しみから生まれる殺し合いから、私たちを解放して下さい。そして、友のために命を捨ててくださったイエスの愛に連なる人々が、その住民である神の国に、私たちすべてが与かる時を早く来たらせてください。
- 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン
⑩ 讃 美 歌 405(すべての人に)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-405.htm
⑪ 献 金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌 栄 28(各自歌う)
讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。