なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(47)

5月22(日)復活節第6主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    205(今日は光が)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-205.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文    詩編15編1-5節(讃美歌交読詩編15頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙11章11-12節1(新約290頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     60(どんなにちいさいことりでも)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-060.htm

⑨ 説  教    「過ちが豊かさに」      北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • パウロは、ローマの信徒への手紙(以下ローマ書)9章から、これまでも何度となく、一つの問いを出し、それを否定してきました。

 

  • 新共同訳聖書では、10章18節、19節に「それでは、尋ねよう」と、11章1節に「では、尋ねよう」とあり、今日の11章11節でも「では、尋ねよう」とあります。これらのところでパウロが問うていることは、イスラエル人(=ユダヤ人)についてです。

 

  • 福音が宣べ伝えられたのに、イスラエルは聞いたことがなかったのだろうか(10:18)。イスラエルは福音を聞いたのに、分からなかったのだろうか(10:19)。神は御自分の民(イスラエル)を退けられたのだろうか(11:1)。「彼ら(イスラエル人)が転んだのは、倒れるためなのですか」(11:11、田川訳)と。

 

このパウロの同胞の民ユダヤ人に対する執拗な思いは、既に私たちがローマ書で学びましたように、ユダヤ人の救いを切実にパウロが願っていたこと、そのためならば、自分がキリストから離され、神から見捨てられても構わないとまで言っていることに見られると思われます(9:3)。また、自分はイスラエル人が救われることを心から願い、彼らのために神に祈っていますと明言しているのであります(10:1)。

 

  • 何故パウロはこれほどまでに同胞イスラエルの救いを強く願っているのでしょうか。そもそもユダヤ人は、自分たちは神に選ばれた特別な民であるという信仰によって、一つに強く結ばれていました。選民としての民族的一体性が強いという意味では、かつての戦前の日本人が天皇を神として、皇国の臣民として民族的な一体感を強制的に持たされていたのと同じかもしれません。そういうことがなかったとは言えないでしょうが、それ以上に、パウロが同胞のユダヤ人の救いを心から願い、そのために神に熱心に祈ったのは、救われたパウロ自身の喜びが大きかったからではないでしょうか。自分が復活の主イエスに出会って得た、イエス・キリストの福音によって生きることの素晴らしさ、その自由と喜びを持って、人間として本当の生き方に導かれているという、パウロの確信からではないでしょうか。

 

  • パウロは、フィリピの信徒への手紙で、ユダヤ教徒であった自分がキリストの使徒になったことを、このように記しています。<わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみなしています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです>(3:5-11,新共同訳)。

 

 

  • 11章11節の問い、「彼らが転んだのは、倒れるためなのですか」(田川訳)は、本田訳だと「イスラエルの人たちは、足を取られて倒れて終わり、ということですか」となっています。クランフィールド訳も「彼らは、〔最終的に〕倒れるために躓いたのか」と、<「最終的に」倒れる>と、「最終的に」を補って訳しています。この「終わり」とか「最終的に」という言葉は、原文にはありませんが、それを補って訳しているのは、「倒れる」ということが、イスラエル人が救われないで滅んでしますということを意味しているからです。「転んだ」(躓いた)とは、不従順という過ちを犯したということです。つまり、イエス・キリストの福音に対して不従順なユダヤ人は、神によって滅びに定められているのかと、パウロは問うているのです。 

 

  • それに対して、パウロは、「まさか、そんなことはありえない」(11節、田川訳)(「断じてそうではない」口語訳)と言って、このように言うのです。「そうではなく、彼らの過ちによって救いが異邦人に及び、その結果彼らを妬ませるためである」(11節、田川訳)と。

 

  • パウロが(11章)7節で「他の者たち」について、彼らはかたくなにされたと語っている場合、彼はそのことをまさに「書いてあるとおり」、すなわち聖書が語っているように語ったのである。しかし、彼がそのように語ったからと言って、神が、神の民の、この「他の者たち」だけは棄てたのだということを、決して語ろうとしたのではないことを、今明らかにする。神は昔も今も彼らについて何を欲しているのか。彼らの罪過によって救いは異邦人に及ぶはずであった(11節前半)。七千人(11:4)の選ばれた者ではなく、実に、イスラエルにおける大多数の棄てられた者は、イエス・キリストを(ローマ帝国政治犯に対する処刑である)異邦人の十字架に引きわたすことによって、異邦人への扉を開き、イスラエルと異邦世界の間の連帯性を、しかしまた恵みの連帯性をも樹立したのである。それはちょうど、パウロ自身も会堂から追い出されることにより、はっきりと異邦人に導かれたごとくである。かくして、これら不従順な者たちの非救済史は、実に異邦人にとって決定的な方法で救済史のうちに属するものとなる。しかし、この不従順な者自体に関しては何が起こるのか。パウロは答える。彼らはまさに救いが異邦人に及ぶことにより、嫉みにかりたてられるはずである。すなわち、彼らは、神がまさに外側の無知な者、失われた者に示されたあわれみにおいて、そもそも彼ら自身の神とは誰であり、神は実に彼らにとっても、否、第一に彼らにとってこそ何であるかを認識するようになるはずである。かくして神は、彼らをかたくなにすることにより、究極的には実に彼らを目ざしていたのであった!>(バルト)。

 

  • このようにパウロは、神は、かたくななユダヤ人、イエス・キリストの福音に不従順なユダヤ人が、「倒れる」ことを望んではいない。むしろ 彼らの不従順によって異邦人が救われるのを見て、彼らに妬みを起こさせて、彼らが神のもとに立ち帰ってくることを切望しているのだ、と言っているのであります。

 

  • ですから、12節で、パウロはこのように語るのであります。<しかしもし彼らの過ちが世界の富となり、彼らの欠けたことが異邦人の富となったのであるとすれば、ましてや彼らの満ちることが!>(田川訳)と。

 

  • ある人は、私たちの信仰生活について、このように述べています。<信仰の生活は、この世において夢を見ることではありません。それが、神の民の失敗であれ、何であれ、それをいい加減にしておくことは許されていないのであります。失敗は失敗でないように言ってみても、それでどうなるものではないからであります。信仰生活は、この暗い現実の中で、ありもしないばら色の夢をみることではありません。そういうことであれば、それは、むしろ、つぶしてしまった方がいいのかも知れません。なぜなら、それは、現実をほんとうに見ようとはしないからであります。しかし、現実を見るというのは、ただ、いたずらに暗い生活を見つめるということにはならないのであります。真実のことを見るとは、自分の罪を言いあらわし、神の救いを受けるということしかないのであります>(竹森)。

 

  • そして、神による救いは、人間に思いもかけない神のみ業を見せてくれるものであるが、この12節のパウロの言葉も、そのような思いもかけない神の御業への詩的な讃美であると言うのです。

 

  • 原文で見ますと、この12節は、「過ち」(新共同訳「罪」)(パラプトーマ)、「欠けたこと」(新共同訳「失敗」)(ヘーッテーマ)、「満ちること」(新共同訳「救われるということ」)(プレーローマ)となっていて、三つとも語尾が「マ」で、韻を踏んでいるのです。そして、それを「世界の富」と「異邦人の富」という二つの富という字で結んでいるのです。

 

  • ですから、12節は詩的な文章で、パウロが感動をもって記していることが分かるのです。「自分の同胞のユダヤ人の過ちが、異邦人の救いとなって世界の富となり、ユダヤ人の欠けたことが異邦人の富となったとすれば、ましてや彼らユダヤ人の満ちることが!(どんなにすばらしいことか)」と。このパウロの言葉は、神の恵みの優位性を感動をもって、大胆に語ったものと言えるでしょう。<イエス・キリストにおける神の恵みは、人間が背く時にも、人間が従順な時にも、同じように働き、どちらの場合にも、ユダヤ人も異邦人も、すなわち、あらゆる人を救って下さる>というのであります。そのことを、感動を持って語っているのが、12節のパウロの言葉なのです。

 

  • パウロは、この神の恵みの優位性への信仰・信頼において、おそらく私たちが思う以上に困難で、厳しかった彼の異邦人伝道に取り組んでいったに違いありません。

 

  • たまたま昨日5月21日のボンフェッファーの『主のよき力に守られて、一日一章』は「おぼれる者」という表題で、詩編42編7節<あなたの注ぐ激流のとどろきに、淵は淵に呼ばわり、あなたの波、あなたの大波は、ことごとくわたしの上を越えていった>の注釈でした。今日の説教と関わるところがあると思いましたので、最後にそれを紹介して終わりたいと思います。

 

  • 「激流、淵、波、大波。――この世という海が敬虔な信仰者の上に襲いかかっているのが、聞こえるであろうか。この海は敬虔な信仰者を飲み込もうとしている。波は、自分を支えるものを何も見いだせないまま、力が尽きて、おぼれてしまう者のようである。このように、この世はわれわれの上に力を奮うのである。だが、われわれは、このことと同時に、風も海も従わせることのできる方(マタイ8:23-27)、時がくれば立ち上がって海を叱り、海を完全に静める方を、知っているのであろうか。/主イエス・キリストよ。沈みそうな私を助けてください。あなたの力強いみ言葉を語って、私を救ってください。それができるのはあなただけです。アーメン。//わたしに最後の危機がおとずれようとも、/わたしを沈むにまかせないでください。/波、大波がわたしを襲い、/苦い死がおとすれようとも、/わたしを愛に燃え立たせてください。/主よ、信仰の守り手なる主よ、/救い主なるキリストよ、/海に漂うわたしたちのところへ来てください。」  

 

  • このように神への不信仰・不服従という人間の罪による圧倒的なこの世の闇の中で、自分自身の信仰もおぼつかない信仰者が、この世の闇の勝利者で、私たちすべての者に救いをもたらしてくださる救い主なるイエスよ、来てください、と祈ることができるのも、終末のキリストの王国=神の国の完成を信じる神の恵みの優位性への信頼があるからではないでしょうか。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 人間の高ぶりが、技術や制度を媒介として巨大化している現代世界において、戦争や抑圧によって、たくさんの人の命や生活が奪われている現実が、世界の各地で起こっています。そのようなあなたに逆らう人間のために、あなたはイエスを遣わし、そのような人間にイエスを引き渡し、十字架と復活を通して人間の高ぶりを裁き、私たちに救いの道を開いてくださいました。そのあなたの恵みはすべての人に注がれていることを信じます。
  • 私たちに、その信仰をもって、今この時代の世界の中で生きていく命の力を与えてください。また、どうか自分中心の人間の高ぶりに支配されている人びとにも、そのあなたの命の力の存在に気づかせてください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     412(昔主イエスの)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-412.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。