なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(50)

6月19(日)聖霊降臨節第3主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

③ 讃美歌  351(聖なる聖なる)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-351.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編69編17-22節(讃美歌交読文74頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙11章25-32節(新約291頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  355(主をほめよ わが心)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-355.htm

⑨ 説  教   「すべての人を」     北村慈郎牧師

  祈  祷

                                                               

  • 私たちイエス・キリストを信じる者は、自分の考えや判断によって生きるのではなく、イエス・キリストに従って神の考えと判断によって生きようとしているのではないでしょうか。しかし、私たちは自分の思いが優るという不信仰に陥ることもしばしばであります。ですから、このローマの信徒への手紙(以下ローマ書)で、パウロがローマの教会のメンバーに勧めている言葉は、私たちに向けられたものでもあります。

 

  • 25節に、<兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい>(新共同訳)と、パウロはこの手紙の宛先であるローマの教会のメンバーに向って語っています。

 

  • 新共同訳の<秘められた計画>は、原文には「計画」という言葉はありませんので、訳としてはよくないものです。この言葉はミュステーリオンで、「奥義」とか「秘儀」と訳されています。田川さんはこのミュステーリオンという語は、「奥」というよりは「秘密」という意味であるから、<ふつう「秘儀」という日本語は用いないそうな>と言いながら、この言葉を「秘儀」と訳しています。25節の田川訳は、<あなた方は、兄弟たちよ、この秘儀を知らずにいてほしくない。そうすればあなた方は自称の賢い人ではなくなるだろう>です。

 

  • この25節は、パウロがローマの教会のメンバーに注意を促している言葉ですが、言わんとしていることは、<なぜなら、兄弟たちよ、あなたがたがこの奥義(秘儀)を無視し、それについてあなたがたのいいかげんな考えをめぐらしてもらいたくない>(25節、バルト訳)ということではないかと思います。

 

  • 「神の秘儀=奥義」について、<自分で、自分は何でも分かっていると思われると困るから、というのであります。われわれは、自分が世界でもっとも優れた知者であるなどとは思わないかも知れません。しかし、どんなことでも、自分の立場から考えて、それで十分であると思いがちなものであります。…事は神に関することなのに、われわれは、自分たちの知恵であれこれ想像しては、それで分かったと思うものであります。しかし、これほど、神の前に傲慢なことはありません。だから、神の奥義(秘儀)を知ってもらいたいのであります。そこから、考えてほしいのであります。そうでないと、この深い恵みのみ業が分からなくなってしまうからであります>(竹森)。それが、パウロの思いではなかったかと思います。

 

  • 知ってもらいたい神の秘儀=奥義の内容について、パウロは、「すなわち(ホッティ)」と受けて25節後半から26節前半でこのように記されているのであります。<すなわち、イスラエルの一部に頑なさが生じているのは、異邦人が十分に満ちる時までのことである。そうして、イスラエルのすべてが救われるようになろう>(25節後半―26節前半、田川訳)と。

 

  • 一部のイスラエルがかたくなになって、イエス・キリストの救いから落ちたように見えるのは、実は「異邦人が十分に満ちる時までのことである」というのであります。「そうして、イスラエルのすべてが救われるようになろう」と。神が契約の民イスラエルをすべて救われるということは、少しも変っていない。それが神の計画であるというのです。まずイスラエルのうちの残された者たちが救われ、次に、異邦人が救われたのですが、それは、神の救いの計画が変わったわけでもないし、イスラエルの運命が狂って来たというのとでもないのです。さらに言えば、神の恵みは、われわれの目に映ることがどうであっても、変わることはない、ということになるのです。

 

  • 私たち人間の知恵は、浅はかなものであります。目先のことからだけしか判断できないからであります。しかし、神のなさることについても正しい判断をしたいと思うなら、神が何を考えており、計画しているかということ、すなわち、神の奥義(秘儀)から見なければ、とうてい分かるはずがないのです。この決まりきったことを見逃しているということは、まことに愚かしことですが、私たちは自分を誇り、自負することによってその愚かしさに陥っていることが多いのではないでしょうか。

 

  • それならば、その奥義(秘儀)はどこにあるのでしょうか。コロサイの信徒への手紙1章27節に、<この秘儀とは、あなた方の中にいますキリストであり、すなわち栄光の希望である>(田川訳)と言われていて、「秘儀とは、私たちの中にいるキリスト」であると言われているのであります。それは、ローマ書11章26節後半~27節の旧約聖書の言葉も示すとおりであります。

 

  • <「救う者シオンより来たりて、/ヤコブより不信心を払い去らん。/これぞ、彼らの罪を取り去る時に、彼らにわが与える契約である」と書かれてあるように>(田川訳)。

 

  • この言葉は、イザヤ書59章20節と21節の前半であります。それを、多少、説明を加えて引用したものです。それによると、まず事情が変わるのは、救う者がシオンからきたことによることが分かります。救い主、すなわち、キリストが来て、ヤコブ、すなわち、イスラエルの不信心も追い払われるようになる。つまり、救い主によって、イスラエルも救われるということになるのです。イスラエルの救いもまた、イエス・キリストによるのであることは、これで明らかであります。それはまた、神のイスラエルに対する救いの計画が、イエス・キリストによって、はじめて理解されることを意味しています。

 

  • ですから、これが彼らに対して立てられた神の契約なのであります。「彼らの罪を取り去る時」という句は、旧約の方にはありません。罪を取り去るのは、神である、ということになっています。「(わたしが)彼らの罪を取り去る時に」という言葉です。しかし、神が罪を取り去ってくださるのは、イエス・キリストによることも明らかなことです。この契約によって、神はまことにイスラエルの神となってくださるし、イスラエルはまた、神のまことの民となるのであります(エレミヤ31:33)。ここに、彼らの救い、また、神の救いの計画は、確立したと言えるのであります。イザヤ書59章21節は、この句につづいて、こう言っています。

 

  • 「あなたの上にあるわたしの霊/あなたの口においたわたしの言葉は/あなたの口からも、あなたの子孫の口からも/あなたの子孫の子孫の口からも/今も、そしてとこしえに/離れることはない、と主は言われる」(新共同訳)と。

 

  • このように読んできますと、問題がようやく明らかになってきます。それは、イスラエルの問題を考えるのには、彼らが受けた選びと、異邦人もイスラエルもともに救われる根拠になっている福音であります。この二つのことが問題であることが、明らかになってくるのであります。ですから、28節で、<福音に関しては、彼らはあなた方の故に敵となったが、選びに関しては、父祖たちの故に、(神に)愛された者なのだ>(田川訳)と言われているのであります。

 

  • 福音、すなわち、イエス・キリストによって救われるということから言えば、彼ら、イスラエルは、神の敵となったのであります。しかし、実は、異邦人が救われるようになるためなのであります。ところが、神の選びということから言えば、彼らは、父祖たちと連なっているのですから、その子孫として、当然、選ばれるということになるのであります。ここで、パウロの言いたいことは、神の選びと福音とは矛盾しないということであります。

 

  • イスラエルが、神の敵になったり、神に愛される者であったりするのは、神の側のイスラエルに対する態度に一貫性がないということではありません。人間の状態が混乱しているからなのであって、神のイスラエルに対する態度には、変わりありません。しかし、どちらであっても、神がイスラエルを救おうとされることには、変化はないのです。そのことは、またすべての人間についても言えるのであります。人間は、神に対して、信仰深い異邦人のようであったり、信仰を失ったイスラエルのようになることがあるのではないでしょうか。しかし、神は、イスラエルに対する時のように、そのお与えになる賜物と召しとについては、いつも同じでいらっしゃるのであります。

 

  • ですから、パウロイスラエルに対する望みは、非常に強いのです。イスラエルに対する神の愛を確信していたからです。30節、31節にこのように記されています。

 

  • <あなた方がかつては神に対して不従順であったのに、今では彼らの不従順の故に憐れみを受けているのと同じで、彼らが今あなた方の(受けている)憐れみの故に不従順になったのは、(いずれ)彼ら自身が憐れみを受けるためである>(田川訳)。

 

  • 異邦人が神の憐れみを受けたのは、異邦人が不従順であったのが従順になったからである、とは言われていません。そうは言わないで、それは、イスラエルが不従順であったためである、と言うのであります。それは、イスラエルのお陰で、異邦人が救われたというのではなく、結局は、イスラエルにも向けられている神の憐れみのためであるということであります。そのイスラエルも今は不従順であるが、異邦人が受けた憐れみ、すなわち、はじめからイスラエルに向けられていた憐れみによって、いずれ彼ら自身も憐れみを受けるのである、と言っているのであります。

 

  • ここには、神の憐れみに対するパウロの絶大な信頼が記されています。それが、イスラエルの運命についてのパウロの変わらざる確信になっているのではないでしょうか。

 

  • 問題は、イスラエルの場合も、異邦人の場合も、不従順であります。それを認めることです。そこから、神の憐れみへの道が開けるのではないでしょうか。パウロは、32節でこのように述べています。<神はすべての者を憐れむために、すべての者を不従順に閉じこめたのである>(田川訳)と。

 

  • 不従順は、私たち人間の責任です。罪を犯すのは、私たちであって、神が私たちに罪を犯させているのではありません。ただ神の憐れみの深さ、その大きさからすると、32節のようにしが言いようがないということなのではないでしょうか。神の憐れみは、ローマ書の9章から11章の異邦人とイスラエルの救いについての議論でも明らかなように、一時の気まぐれではなく、どんなことにも優先するほど大きな、力強いものであります。神は、その憐れみの全力をもって、私たちを救ってくださるのです。<神は、決して、小指一本だけを動かして人間を救おうとなさるのではないのです。あらゆることを尽くして、私たちを憐れんでくださるのです。そうであれば、救われたものから言えば、私たちの不従順さえも、神の憐れみのみ業による、と言うほかないのであります>(竹森)。

 

  • <神はすべての者を憐れむために、すべての者を不従順に閉じこめたのである>。なお不従順な人間の目に余る罪が繰り返されているこの世界の現実において、私たちは、神の秘儀(奥義)である、イエス・キリストにおける神の憐れみの大きさ、その確かさを知って、ただ知識ではなく、その神の憐れみを受けて、神の憐れみによって生きていく者でありたいと思います。そのために、私たちの信仰が確かなものとなりますように。主がそのことをかなえてくださいますように!

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、イエス・キリストにおける、あなたの憐れみの大きさ、確かさへの信頼を、私たちはしばしば現実の私たち人間の罪と悪の深さに目を奪われ、失いかけてしまいがちです。<神はすべての者を憐れむために、すべての者を不従順に閉じこめたのである>。このパウロの言葉を深く心にとめることができますように。そして、あなたの憐れみの大きさ、確かさを信頼して、私たちを、あなたの憐れみに生きる者へとお導きください。
  • ウクライナでの戦争が長くなっています。速やかに停戦が実現し、ウクライナに平和が来ますようにお導きください。ロシアのウクライナへの軍事侵攻によって、日本をはじめ世界の多くの国々は軍備増強に向かおうとしています。その危険性を知らしめ、そのような国々も、軍事力によらない平和な世界の構築に力を注ぐようにお導きください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     10(今こそ人みな)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-010.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。