なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(40)

3月27日(日)受難節第3主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃美歌   12(とうときわが神よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-012.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編27編7-14節(讃美歌交読詩編28頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙9章14―18節(新約286頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌      298(ああ主は誰がため)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-298.htm

⑨ 説  教   「神の憐れみ」     北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • ウクライナの戦時下にあって生き延びようと必死にもがいている方々のことを思うと、いたたまれない気持ちにさせられます。早くこの戦争が終結するようにと祈っています。
  • そういう現在の状況にあって、私たちは忸怩たる思いをもって、日々生活していると思いますが、今日も、ローマの信徒への手紙(以下ローマ書)9章14節―18節から、語りかけを聞きたいと思います。

 

  • ここでパウロが問題にしていることは、私の生まれ育った家族のこととも、ある面で繋がっている問題ではないかと思われます。私の家族は、私だけがキリスト者になって、他の誰もキリスト者にはなりませんでした。神の選びということで言えば、なぜ神は私を招いて下さって、他の家族の者を招ねかれなかったのでしょうか。人間的に考えれば、私は他の家族の者より優れた人間だとはとても言えません。むしろ他の家族の者の方が人間としてみれば、私より優れているように思えてしまいます。

 

  • アブラハムの子孫で言えば、イシマエルではなくイサクを、エサウではなくヤコブを、今日の箇所で言えば、ファラオではなくモーセを、神は選ばれたのか。そして、人間の選びに神の招きが絶対であるとすれば、選ばれなかった者は神に棄てられたことになります。

 

  • 人間の側に神に選ばれる条件、例えばその人の意志や行っていることによって神の招きや選びが決まるとするならば、分からないこともありませんが、それでも、神に選ばれる条件を満たしている人間がいるとは思えません。事実、パウロも、旧約聖書の言葉を引用して、≪義人はいない。ひとりもいない。/悟りのある人はいない。/神を求める人はいない。/すべての人は迷い出て、/ことごとく無益なものになっている。/善を行う者はいない。/ひとりもいない≫(ローマ書3:10-12、口語訳)と言い切っています。

 

  • とするならば、神は気ままに人を選んだり、棄てたりするのか。そのような神は許し難い存在ではないか。≪では何と言おうか。神のもとに不正があるとでも?≫(14節。田川訳)と問われても仕方ありません。けれども、パウロは、その問いに対して、強く否定しています。≪まさか、そんなことはありえない≫(14節、田川訳)。このところは、口語訳では≪断じてそうではない≫です。

 

  • 前にも申し上げましたように、一つの問いを立て、それを否定するのは、当時のディアトリベーという弁論術と言われますが、この方法で語ることが、当時の人々には説得力があったということでしょうか。

 

  • 神が選びの自由によって、ある人を選び、ある人を棄てるのは、断じて不正でも何でもない。神の自由に属する事柄なのだというわけです。

 

  • このイサクを選び、イシマエルを棄てる、ヤコブを選び、エサウを棄てるという神の選びの教えは、予定論と言われてきたものです。ローマ書の講解説教を書いている人の中には、予定論は難しくて、よくわからないと、率直に述べている人もいます。

 

  • この予定論が示している神の選びの義(ただ)しさについて、「神はその至高性により、あらゆる事柄において、従ってあらゆる人間に対しても、神にのみ知られている理由からご自分の欲するままにふるまう権利をもっているからだと説明されることがあります。このようにただの神の至高性からの神の選びだとすると、暴君的権力者が人をえり好みするのと区別できないのではないでしょうか。予定論が難しくて、さっぱりわからないと、率直に述べる人は、神の選びが偏見に満ちた暴君的な選びだとすると、それを理解することはできないという思いがあるからではないでしょうか。

 

  • しかし、パウロは、15節で、モーセに語られた言葉を引用して答えています。≪モーセに対して神は言っている、「わが憐れむ者を憐れみ、わが慈しむ者を慈しまん」と≫(田川訳)。このことは、<人がすぐ問いたがる神の選びの義(ただ)しさは、実は神のあわれみの義しさであるという点に存するということである。神がなすこと――まさに、神がアブラハムの子たちに、さらにイサクの子たちに、かの受容と棄却(選んだり、棄てたりすること)によってなすこと――は、神のあわれみの業なのである。そして、この(選びの)業の土台は常に、神のあわれみにほかならない。あわれみも何も持たぬ、ただの至高性なら、選びをなす神と暴君的魔(デー)神(モン)とをもちろん区別できなくしてしまうであろう。しかし、神のあわれみは――そしてそれがイスラエルの歴史における問題であるのだが――神を、義にいまし給う神として示す。なぜなら、まさしく、あわれみとその行使こそが神の義であるからである>とバルトは述べています。

 

  • 16節には、そのことがはっきりと記されています。≪であるから、(それは)欲する者、走る者の(事柄)ではなく、憐れんでいる神の(事柄)である≫(田川訳)。バルトの訳ではこうなっています。≪したがって、こうなのである。すなわち問題なのは意志をもつ人間や立ちまわる人間なのではなくて、あわれむ神である≫。

 

  • 11-12節にもこのように述べられていました。≪まだ子らが生れる前に、つまり(その子らによって)何らかの善や悪がなされる前に、(すでに)選びによる神の予定が(定められていて、それが)実現するようにと、リベカに対して「長子が次子に仕えることになろう」と言われたのである。その選びは業績の結果生じることではなく(人を)召し給う神から生じる≫。
  • <神の御意(みこころ)に対しては、・・・人間の決定や行動のいかなる義〔権利〕もいかなる要求も存在しない。あわれみ給う神に対して、イサクとイシマエル、ヤコブエサウは、彼らの現在と未来のあり方すべてをもってしても、ただその支配のもとに立ちうるにすぎぬ。あわれみ給う神が啓示され、また御業をなし給う所、それは初めからイスラエルに起こった如く、いかなる人間も神の先に立ちえず、またあらゆる人間は、ただ神への奉仕の備えをなしうるのみであり、受け入れられた人間も要求を持ちえず、棄てられた人間も要求を持ちえないのである。両者が要求を持ちえないのは、両者共それぞれの仕方において神の良き御意に仕えることを許されているからであり、また神が両者をそれなりに必要とし、両者を用いることを欲し給うからである。それは実に憎まれたエサウにおいても言えることなのだ!>(バルト)。

 

  • パウロは、不従順な人間をユダヤ教の会堂の人々、つまり自分の同胞に見ていたのではないかと思われます。パウロは、彼ら・彼女らは神に棄てられているが、神に選ばれた者同様に、神のあわれみの中にあって、神に必要とされ、神の良き御意に仕えることを許され、神に用いられているのだと言うのです。

 

  • 17節には、モーセに対してファラオについて、このように述べられています。≪すなわち書物(聖書)はファラオに対して言っている、「まさにこのことのために汝を興したのだ。汝によって我が力を示し、我が名が全地において告げられるために」≫(田川訳)。エジプトの王ファラオは、モーセによってエジプトを脱出したイスラエルの民にとっては、最も悪しき迫害者であり、敵であります。現在のウクライナの人々にとってのプーチンのような存在です。そういうファラオも、神の力が示され、神の名が全地に告げられるために興されたのだと、聖書を引用してパウロは言っているのであります。

 

  • ただパウロは、この17節に続けて、18節で≪であるから、神はみずからが欲する者を憐れみ、みずからが欲する者を頑なにし給うのである≫と言って、ファラオは神によって頑なにされた者だと言っているのであります。

 

  • <神は、モーセに身を向け給うことによって、そのあわれみ自体を生かす力として啓示しようとされたのだとすれば、パロ(ファラオ)に身をそむけ、彼を神に対しかたくなにさせ、頑固にさせ、心をとざすようにさせることによって、神のあわれみが何人にも負っていない彼のあわれみであるという別の面、すなわち、人間の死――それなくしてあわれみは存在せず、それゆえ真実のあわれみともならないであろう――〔の面〕を啓示しようとされるのである(18節)>(バルト)。

 

  • つまり、バルトによれば、パウロは、ファラオによって、彼は確かに神によって命与えられた人間であり、神の憐れみの対象者であるが、ファラオは、神に対して頑なな者として神の憐れみの別の面、すなわち、人間の死を体現しているのだと言っているのです。

 

  • そしてバルトは、<神はかしこにおいて、パロ(ファラオ)と欲したように、今日、不従順な会堂を欲したもう。パロ(ファラオ)と同様、不従順な会堂もまた、神のあわれみの業として明らかにされねばならぬし、また事実、明らかにされるであろう。このあわれみの業はこの場合、従順な教会に少しも劣るものではない>と言っているのであります。

 

  • 確かに私たちの中には、イエス・キリストの福音を信じ、神に従順な者として生きていこうとしている者たちがいます。一方神など信じないで、自分の力を頼りに生きていこうとする人もいます。世俗的な現代の社会では、神を信じないで生きている人が、圧倒的に多くなっています。かつての宗教的な時代とは違った、現代は神無き時代です。しかし、聖書は人間の営みとこの世界を神の視線から見ている神の言葉です。

 

  • その意味で、今日のローマ書の個所を神の言葉として受け止めようとするならば、ファラオのような自己中心的な人間の不従順は、神によって人間の死の面が啓示されているのだという、バルトの解釈もなるほどと思えてくるのであります。私たち人間の営みの中に、神の救いと裁きの現れを読み取っていかなければならないということでしょうか。

 

  • ローマ書6章20節以下に、こう語られています。≪あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義に対して自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたは今は恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです≫(6:20-23,新共同訳)

 

  • 「罪の奴隷」は不従順な者、「神の奴隷」は従順な者を意味すると思われます。「罪の支払う報酬は死です」ということを、心に銘記したいと思います。私たちは神に招かれて、「神の奴隷」となった従順な者として、永遠の命に至る実りとしての愛と平和と和解に生きる者でありたいと切に願います。

 

  • 主が私たちに、その実りを結ぶことができるように、豊かな命の力を与えてくださいますように!

 

祈ります。

  • 神さま、まだ新型コロナウイルス感染が治まってはいませんが、今日は久しぶりに会堂での礼拝を再開することができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、たくさんの人の命を奪い、生活基盤を破壊する戦争から、私たちはまだ解放されていません。日々メディアを通して伝えられるウクライナの惨状に悲しみと怒りを覚えていますが、世界の現実はこの戦争を止めることができません。
  • 神さま、どうか戦争を止める力を私たちに与えてください。この戦争で苦しむ人々を支えてください。
  • 神さま、どうか私たちが軍事力に頼らない、人権と平和が大切にされる民主的な世界をつくり出すことができますように、知恵と力を与えてください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌      442(はかりも知れない)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-442.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。