なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

クリスマス礼拝説教(「御心のままに」フィリピ2:1-13)

   「御心のままに」フィリピ2:1-13、2018年12月23日(日)船越教会クリスマス礼拝


・今年もクリスマスを迎え、イエスさまの誕生を祝い喜ぶことができますことを、心から感謝します。


・私たちは毎年こうして暖かな教会堂で礼拝を捧げ、クリスマスをお祝いします。このことは素直に喜ぶ

べきことではないかと思います。けれども、イエスさまの誕生という出来事は、大変厳しい状況の中で起

こったことを、私たちは福音書のイエス誕生物語を読む度に考えさせられるのであります。


・まず身重のマリアがヨセフと共に、ローマ皇帝アウグストの命令により、ヨセフの故郷ベツレヘムに住

民登録のために行かなければならなかったということです。マリアは、旅の途中でありました、住民登録

のために行ったベツレヘムで出産しなければなりませんでした。しかも、宿屋には二人のいる余地がな

く、馬小屋での出産でした。


福音書のイエス誕生物語では、その馬小屋でのマリアの出産をみ告げによって知った羊飼いたちや東方

の博士たちが馬小屋にやってきました。この場面には、イエスさまの誕生がただ厳しいだけではなく、神

さまによるもので、全世界の救いがここから始まるのだという、不思議な喜びが響きます。


・けれども、イエスの誕生を知ったヘロデ大王は、将来自分に代わってユダヤの王になるかもしれないイ

エスを殺そうとし、事実イエスと同じ頃生まれた男の子を沢山殺しました。イエスはヘロデの難を避けて

エジプトに逃げて、しばらくエジプトに滞在しました。ここにも、イエスの誕生の大変厳しい一面が示さ

れています。


・そもそも何故イエスの誕生を福音書の物語作者は、静かに家族の喜びの中で赤ちゃんが誕生するとい

う、私たちの多くが経験する赤ちゃんの誕生とは違って、このように厳しく描かなければならなかったの

でしょうか。


・それは、イエスの誕生に十字架に架けられて殺されたイエスの姿が反映されているからでしょう。イエ

スの誕生物語は十字架のイエスの誕生物語なのです。イエスの誕生を描こうとする時に、物語作者は十字

架を無視できなかったのです。それ故に、イエスの誕生が神の救いの出来事として、羊飼いたちや東方の

博士たちのように心から喜び祝った人々がいた反面、ヘロデのように祝うどころか、抹殺しようとした人

もいたことを描いているのだと思います。


・先ほど司会者に読んでいただきましたフィリピの信徒への手紙2章1節以下、特に6節以下は、「キリス

ト讃歌」と言われている箇所です。恐らく初代教会の中で生まれたもので、フィリピの信徒への手紙を書

いたパウロも言い伝えられていた伝承の一つとして受けたのでしょう。


パウロはこの「キリスト讃歌」を伝承として受けて、フィリピの教会に当てたこの手紙の中に取り入れ

たのです。そこにはこの「キリスト讃歌」をパウロがどう受け止めたのかが、自ずから手紙の文脈におい

て明らかになっています。


・キリスト讃歌の前の文脈では、「へりくだり」ということが強調されています。フィリピの教会の信徒

たちに向かって、パウロはキリストに結ばれて一つになったあなたがたは、「何事も利己心や虚栄心から

するのではなく、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、へりくだって、めいめい自分のことだけでは

なく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい」(3-5節)と勧めています。

その後に、「それはキリスト・イエスにもみられるものです」(5節)と言って、キリスト讃歌に続けて

いるのです。


・ですから、キリスト讃歌の前の文脈からすれば、お互いの関係における「へりくだり」がテーマとなっ

ていることが分かります。


・けれども、12節以下では「従順」がテーマになっています。「キリスト讃歌」を受けて、「だから、わ

たしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさ

ら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(12節)と勧められていま

す。


・その際、ここでの「従順」は神への従順です。パウロは13節で、「あなたがたの内に働いて、御心のま

まに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」と言っています。


・今日はお読みしませんでしたが、14節以下も読ませていただきます。「何事も、不平や理屈を言わずに

行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非

のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(14

-16節)。


・このように、パウロによれば、「(わたしたちの)内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられ

る神」への「従順」を貫くことによって、私たちは「よこしまな曲がった時代の中で、非の打ち所のない

神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ」ことができる、というのです。

(15節)


パウロによれば、「へりくだり」と「従順」はイエス御自身の生きざまであり、そのイエスの生きざま

こそが、イエスを信じる私たちにも求められているというのです。けれども、そのイエスの道をイエス

共に歩み者は、この世の生活においては苦難を負うことを覚悟しなければなりません。


パウロは「よこしまな曲がった時代」と言っていますが、それは今もおなじではないでしょうか。国際

ジャーナリストの堤美果が、『日本が売られる』という本で、安倍政権によって民営化が進められてい

て、いろいろな法律が作られて、水、土、森、海、農地というような日本の国の資産や、労働者、日本人

の仕事、ブラック企業対策、ギャンブル、学校、医療、老後、個人情報のような日本人の未来が、投資家

や企業に売られようとしていることを警告しています。そのような目先の利益だけでものを見る日本政府

の政策を批判して「今だけカネだけ自分だけ」の浅はかな政策と言っています。「今だけ、カネだけ、自

分だけ」は日本政府だけではなく、私たちの中にもある思いではないでしょうか。東京の港区が南青山に

児童相談所を建設する計画があり、地域住民への説明会が行われました。すると参加した住民から、「子

供を保護して連れて来ました。それで泣き叫ぶ。近所迷惑になると思う」「土地の価値を下げないでほし

いと思っております」というような、反対意見が相次いだというのです。要するに南青山という高級住宅

地に児童相談所を作られると、いろいろ問題が起きるから困るというのです。これも正にパウロの言って

いる「よこしまな曲がった時代」を表していると言えるのではないでしょうか。今日の船越通信にも転載

しておきましたが、ルポライター鎌田慧(さとし)は、東京新聞辺野古の土砂投入を批判するコラム

を書いています。その中で、「悪魔とは他の人間の犠牲の上に生きる人間のことである。そして殺し合

い、奪い合い、だまし合って生きる人間のことだ」という阿波根昌鴻さんの言葉を引用しています。現代

も、このような人間の悪魔が思うままのさばっている「よこしまな曲がった時代」と言えるのではないで

しょうか。


・そのような時代の中にあって、今年も私たちはイエスの誕生を祝うクリスマスを迎えています。パウロ

が、十字架のきわみ迄、己を空しくして生きたイエスをたたえるキリスト賛歌を通して、フィリピの教会

の信徒に勧めている他者に対する「へりくだり」と神への「信従」を、このクリスマスに当たって、私た

ちも己自身の生き様として、心に深くとどめたいと思います。そして、またこのクリスマスから始まる新

しい一年の歩みへと勇気と希望をもって歩んでいきたいと思います。そのイエスに倣って歩む私たちの歩

みの上に、神さまが共にいてくださるように祈ります。


・祈ります。

・神さま、今年もこのようにクリスマスの礼拝に共に集うことができ、感謝いたします。イエスさまの誕

生が十字架のイエスの誕生であることを覚え、十字架のきわみ迄あなたの御心のままに歩まれたイエス

まによって、勇気と希望を与えられて、これからの新しい一年に向かって、「へりくだり」と「信従」の

歩みを重ねていくことができますように、私たちを守り導いてください。今日礼拝に集うことができませ

んでした私たちの仲間の一人一人の上にも、あなたの導きと守りが豊かに与えられますように。今もさま

ざまな困難の中にある人々に助けのみ手が与えられますように。イエスさまのお名前によって祈ります。

 アーメン。