4月3日(日)受難節第5主日礼拝(10:30開始)
(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま
しょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。
(イザヤ書55:6,7a)
③ 讃美歌 17(聖なる主の美しさと)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-017.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編22編25-32節(讃美歌交読詩編24頁)
(当該箇所を黙読する)
⑥ 聖 書 ローマの信徒への手紙9章19-29節(新約287頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 297(栄の主イエスの)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-297.htm
⑨ 説 教 「憐れみの器として」 北村慈郎牧師
祈 祷
- 四月になりました。京急で横浜から来ますと、日ノ出町を出たところの辺から大岡川沿いの桜が見えます。今が見ごろで、屋台も出ていて、見に来ている人もそれなりにいるのが見えます。花冷えの日もありますが、いよいよ春到来です。今日もローマの信徒への手紙(以下ローマ書)の一節から、語りかけを聞きたいと思います。
- ≪神はあわれもうと欲する者をあわれみ、かたくなにしようと欲する者をかたくなにする≫。これが、今日の箇所(9:19-29)の直前の9章18節で、パウロが語ったことです。
- このこと、特に後半の≪神は、…かたくなにしようと欲する者をかたくなにする≫を受けて、19節で、≪ではあなたは私に言うだろうか。「それなら、(神は)なおも(我々に対して)いったい何を非難するのか。誰も神の意志に逆らうことなどなかったではないか」と≫(田川訳)、とパウロは言っているのであります。
- ここで「あなた」とは、誰のことを意味しているのでしょうか。パウロは、自分もその一人であったユダヤ教徒(会堂)の人たち、つまり神によって頑なにされている人たちのことを指して、ここで「あなた」と言っているのであります。≪ではあなたは私に言うだろうか≫と言って、「神がかたくなにしようと欲する者をかたくなにする」とすれば、≪「それなら、神はなおも我々に対していったい何を非難する(責める、咎めるとも訳されている)のか」と≫。
- この19節は、<神の意志が絶対であって、それに逆らうことはできない、というのなら、今まで誰も神に逆らう者などいなかったはずだ。それなのに、神に逆らう者は罰せられる、などというのは、おかしいじゃないか、と言っている>(田川)のです。
- それに対して、パウロは、20節前半でこのように語っています。≪おお、人よ。神に対して言い返そうなどとは、あなたはいったい何者なのだ≫(田川訳)。
- これは、パウロのがっかりした言葉ではないかと思います。「おお、人よ」がそれをよく示しているのではないでしょうか。パウロは言います。<あなたは実に神のあわれみの対象として、神に向かい、「神は自分に何か責むべき点があるのか」などという問いを向ける可能性さえ、いや、そうするための声や言葉さえ、まったく持ち合わせない人間ではないか>。
- <あなたは、その独り子さえ惜しまず、彼をわれわれすべてのために――あなたのためにも――任し渡してしまったような神の前に立っている人間なのだ(8:32「神は御自分の御子さえ惜しまず、我々皆のために(死へと)引き渡し給うたのであるから、どうして御子とともにあらゆるものを我々に恵みとして与えて下さらないなどということがあろうか」田川訳)>。
- <あなたは、神が人間に対して責むべきすべての点で、ご自身の御子に対し責めたゆえに、事実何も責むべき点のない人間であり、今や神がただご自身のいつくしみをもってしか、向いあおうとされない人間なのである>。
- <しかり、たとえ神が(エジプトの王)パロを用いたように、あなたとあなたの抵抗を用いようとしたにしても、あなたは神に逆らうことはできない。それなのに、どうしてあなたは、あなたの抵抗の弁解をしたり、それを正当化したりすることができるはずがあろうか>。
- <このような神の前におけるあなたが! 彼らは神がわれわれを護る盾で、われわれ自身を神から、神のいつくしみから、まもろうとする盾を造ろうとしている。それこそ、19節における問いの根本的な無意味さなのである>(バルト)。
- <神は、そのすべての道の根源と目標としてのイエス・キリストにおいて、人間にそのいつくしみ以外の何ものも差し向けようとはなさらない>方なのです。
- このことを、私たちは見失ってはならないと思います。聖書によれば、神の御業はイエス・キリストにおいて極まったのです。イエスの生と十字架死と復活において、神はわたしたちすべてに最後決定的に関わってくださっているのです。
- 20節後半―21節に記されています陶器造りの譬は、≪神はあわれもうと欲する者をあわれみ、かたくなにしようと欲する者をかたくなにする≫という18節の内容を繰り返し、確証しています。
- ≪彫刻の像が制作者に対して、「あなたは何故私をこういう風に作ったのですか」などと言えるだろうか。あるいは、陶工は同じに捏ねた粘土から、一部を貴重なことのための器に、他の一部をつまらぬことのための器に作り上げる権利がないとでも≫(20節後半―21節、田川訳)。
- 「何故私をこういう風に作ったのですか」という問いについて、ある人はこのように言っています。「でたらめな生活をしている子供が、そのことをたしなめられると、開き直って、なぜこんな子供に生んだのか、と言うのに似ているではありませんか」と。
- この陶器師が、どんな器をつくるかは、陶器師の自由に属するという陶工造りの譬は、エレミヤ書18章にでてきますが、これは、神は<全能なる神として自分に気にいることなら何でもやるような全能の神と言ったものでなく、イスラエルの神として、イスラエルを受け入れ、また棄てることにより、双方の性格を持った器により、正しいことをなすイスラエルの神である。なぜなら、そのことが彼のあわれみを現実化し、また啓示することに役立つからである。またこのような意図を持つイスラエルの神は、無頓着な中心から、このことあのこと〔受容と棄却〕をいっしょに並行してやるのではない。神にとって神の光の証人と、人間の闇の証人を登場させることは同じではないのである>ということを示しているのです。
- 22―24節は、この陶工造りの譬を、パウロが解釈しています。ここでは、「貴重なことのための器」が「憐れみの器」に、「つまらぬことのための器」が「怒りの器」になっています。そして、このように、パウロは語っているのです。
- 「しかし、神が怒りを顕わし、みずからの力を知らしめようと欲して、滅びへと整えられた怒りの器を非常に気長に(我慢して)下さったのだとすれば、またその結果として、みずからの栄光の豊かさを憐れみの器に対して知らしめようとして下さったのだとすれば! その憐れみの器が栄光へといたるようにと神は前もって定めて下さったのだ。神は我々をそういう者として呼び給うたのである。ユダヤ人からだけでなく、異邦人からも」(田川訳)。
(以下は竹森満佐一『ローマ書講解説教』当該箇所を参考にする)
- 神は、一方を尊い者に造り、他方を卑しい者に造る権利も能力も持っている方であると。そして、怒りの器に対しては、怒りを顕わされる。その点については何の容赦もない。けれども、神は、その怒りの器に対しても、それを滅びるままになさらなかったのであります。その怒りの器さえ大いなる寛容をもって忍ばれたのであります。もしもそうであるとすればどうでしょうか。怒りの器として、神の怒りを受けて滅びるような立場にある者も、忍び忍んで寛容をもって扱われるとすれば、それは、むしろ神の限りない恵みをあらわしたことになるのではないでしょうか。怒りの器にさえ示されたこの愛は、普通の場合より大きいのではないでしょうか。
- これに対して、栄光にあずからせるためにあらかじめ用意されていた憐れみの器にはご自身の栄光の富を知らせようとされたのであります。そうすると、この怒りの器とあわれみの器とは、どちらが多く神のあわれみを受けたことになるのでしょうか。それを誰が判断できるというのでしょうか。パウロは、用心深く、はっきりした結論を出しません。無論、彼には、神の憐みについての確信はあったでしょう。しかし、事実にあたって言う場合には、神のなさることについて、これはこういうことであると明言することは、はばかれたのでありましょう。彼は、その堅い信仰のゆえに、神の憐みを確信しながらも、なお、神の自由をおかしたくなかったに違いありません。信仰とは、ただ神の恵みを信じることでしかないからであります。
- 神の寛容とは、神のやさしいい気分のことではありません。神には動かし難い計画があるのです。ただ、神はその憐れみによって、それを猶予されるのであります。それがどうなるか、神以外には知りようがないのです。ただ、われわれは神に信頼しているのであります。
- 怒りの器にせよ、憐れみの器にせよ、神の憐みが顕われるためだけに用いられるのであります。そして、それによって、神の栄光がいかに大きくあるか、豊かであるか、深くあるかが示されるのであります。言い換えれば、この憐れみのゆえに、すべての者が、神の栄光を讃めたたえるようになるのであります。その時にはじめて、事柄が理解されます。
- ここまで話が進んで、にわかに話が具体的になってきました。それは、怒りの器とか憐れみの器とかというものが、現実の異邦人とイスラエルとの問題であることがはっきりしたからです。イスラエルの不平は、異邦人も救われることであり、彼らの悩みは、自分たちが、もしかしたら救われないかも知れないといおうことだったからです。それが、今は、聖書の証言によって明瞭にされるのです。
- ホセアの預言(2:25)は、旧約聖書で神の言われたことして、「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民でない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる」(新共同訳)と書いてあります。また、イザヤの二つの預言(10:22―23.1:9)は、いずれも、イスラエルにとっては、まことにきびしいことが記されています。「イザヤはイスラエルについて叫んでいる、『もしもイスラエルの子らの数が海の砂の(ように多く)なっても、残された者だけが救われることになる』。またイザヤが予告して言っているように、『もしも万軍の主が我々に種を残してくださらなかったら、我々はソドムのようになり、またゴモラと同じようになっていただろう』」。イスラエルの人々は思いとどまったことでしょう。彼らの考え方では割り切ることが難しいからです。
- ローマの教会は、異邦人が主になっている教会であると言われています。しかし、ローマ書の終わりの挨拶や使徒言行録28章にあるローマの信者たちの様子を見ますと、この教会にも、少なからずユダヤ人がいたころが分かります。ユダヤ人と異邦人、この相容れない二種の人々、しかも、もっとも根本的な救いの問題において対立している人々が、教会では、ひとつになって神を礼拝することができるのであります。ここでは、だれも憐れみの器とか怒りの器とか言いません。なぜなら、みんな神の憐れみによって生きていることを知っているからであります。
- 大きなことはとても言えませんが、本来、イエス・キリストの福音において教会は、現代のロシアによる軍事侵攻など必要としない人間の救いを指し示していくことが許されているし、指し示していく必要があるのではないでしょうか。つまり、イエス・キリストの福音においては、ウクライナ人もロシア人も、国家や民族の枠組みを超えた、神に造られたひとりひとりの人間として、また赦された罪びととして、共に神の憐みのもとに生きる仲間だからです。
- 残念ながら、現実の世界の教会は今も分裂していて、戦争など全く必要のない、国家や民族による分断を超えたすべての人の連帯と共生を指し示し得ていません。けれども、本来の新しいイスラエルとしてのユダヤ人と異邦人によって構成されている教会は、そのことを指し示しているのではないでしょうか。
- おそらく戦争の必要としない世界は、政治的な努力目標ではありますが、政治的に実現することはできないでしょう。一人一人の人間が自らの罪を悔改めて、神に信頼して幼な子として生きるようにならなければ…。
祈ります。
- 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
- 今日は、ローマ書から、私たちの中には、怒りの器として造られた者も、憐れみの器として造られた者も、神の憐れみの恵みのもとにあることを示されました。
- イエス・キリストの福音が示す人間の救い=解放に、どうぞすべての人が浴し、敵対と争いから解放されて、平和と和解によって生きていくことのできる世界が到来しますように、心から願います。
- 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン
⑩ 讃 美 歌 413(キリストの腕は)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-413.htm
⑪ 献 金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌 栄 28(各自歌う)
讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。