なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ガラテヤの信徒への手紙による説教(20)

  「誇るものは何か」ガラテヤの信徒への手紙6:11-18、2017年6月11日(日)船越教会礼拝説教

・今日の聖書箇所はガラテヤの信徒へ手紙の最後、「結びの言葉」(新共同訳)になります。11節に、

《このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています》とあります。

・ここには、パウロが自筆で手紙を書いていることが強調されていますが、自筆で書いているのは、こ

の11節だけなのか、この結びの言葉全体なのかはよくわかりません。ただ自筆で書いていることを強調

しているのは、このガラテヤの信徒への手紙が、まさしくパウロ自身の手紙であることを証ししている

ものと思われます。そして今まで書いてきたことの要点をまとめて、ガラテヤの教会の信徒たちに、パ

ウロが心をこめて言いたいことを改めて告げようとしているのです。その意味で、この箇所にはキリス

ト者とは何に基づいて生きるのかが、明確に語られていますので、私たちもここからキリスト者として

の自らのあり様を、しっかりと確認したいと思うのであります。

・その前に、ここでパウロが批判しています、ガラテヤの教会にあって異邦人信徒にも割礼を受け、律

法を守ることを勧めている「ユダヤ主義者」のことを、もう一度思い起こしておきたいと思います。パ

ウロはそのような「ユダヤ主義者」のことを、《肉において人からよく思われたがっている者たちが、

ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせよう

としています》(12節)と語っているのであります。

・ここにはユダヤ主義者の問題としてパウロによって三つの事が言われています。➀番目は、彼らが

《肉において人からよく思われたがっている者たち》であるということです。ガラテヤの教会にいたユ

ダヤ主義者(ユダヤキリスト者)は、かつてはユダヤ教徒でした。いわばユダヤ教からキリスト教

転向した人たちです。その人たちが《肉において人からよく思われたがっている》というのは、ユダヤ

教徒からキリスト教徒に変った彼らが、以前自分たちも同じ仲間であったユダヤ教徒から良く思われた

がっているというのです。

・先週の日曜日の説教で、イエスは人間としての軸をしっかり持って生きたので、ぶれなかった。その

エスの人間としての軸は、神との絶対的な関係からイエスに与えられたものである。だから、ファリ

サイ人と論争して、ファリサイ人がイエスを殺そうと相談しても、逃げ隠れせず、神の国の福音を語り、

病者や悪霊に憑りつかれている人を癒すことを止めようとはしなかった、ということをお話ししました。

そういうイエスからしますと、ガラテヤ教会のユダヤ主義者は、神よりも人を怖れたと言えるのでは

ないでしょうか。

・番目は、ガラテヤのユダヤ主義者がユダヤ教徒から良く思われたいと考えたのは、《ただキリストの

十字架のゆえに迫害されたくないばかりに》と言われているように、《キリストの十字架のゆえに迫害さ

れたく》ないからだと言うのです。

・H嵬椶蓮◆圓△覆燭たに無理やり割礼を受けさせようとしています》。律法遵守を異邦人キリスト者

にもきちっと守らせている事実を示して、ユダヤ教徒の手前を取り繕うためだというのです。

・このようなガラテヤ教会におけるユダヤ主義者であるキリスト者の態度は、パウロにはとても受け入れ

ることはできませんでした。しかし、私たちの中にも、このユダヤ主義者のような自分を誇る思いが完全

に払しょくされているとは思えません。

パウロ自身はキリスト者となって自分の過去ときっぱり断絶していました。パウロユダヤ主義者と同

じようにかつてはユダヤ教徒でした。しかも誰よりも熱心なユダヤ教徒だったと、パウロ自身が語ってお

ります。《わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤ民族の出身で、ヘブラ

イ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の

義については非の打ちどころのない者でした》(フィリピ3:3-6)と。《しかし、わたしにとって有利であ

ったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キ

リスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆ

えに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています》(フィリピ3:7-8)と語っ

ているのです。そのパウロの言葉には、パウロが主イエス・キリストを知って、過去の自分を捨てて、全

く新しくなったことが述べられているのです。

・ガラテヤの教会のユダヤ主義者とパウロとの違いは明らかです。14節でパウロはこのように語っていま

す。《しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るべきものが決

してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対して、わたしは世に対してはりつけにさ

れているのです》と。ここでパウロは、「このわたしには」と限定して、《わたしたちの主イエス・キリ

ストの十字架のほかに、誇るべきものが決してあってはなりません》と語っているのです。《・・・十字

架のほかに、誇るべきものは決してあってはなりません》と、イエス・キリストの十字架のほかに、それ

と並べて同じように誇るべきものは、「このわたしには=わたしにとっては」決してあってはならないと、

パウロは自らの信仰を告白しているのです。
イエス・キリストを信じる信仰は、他者に強いることはできません。その人が自分から告白する

以外に、人がイエス・キリストを信じることはあり得ないのです。ですから、ガラテヤの信徒への手紙でも、

パウロユダヤ主義者の批判と共に、自らの信仰を告白し、ユダヤ主義者がその過ちから立ち返って、《わ

たしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るべきものが決してあってはならない》ことに気づい

てくれるようにと期待して、ユダヤ主義者に語りかけているのです。

・ここでパウロが、続けてこのように語っていることに注目したいと思います。《この十字架によって、

世はわたしに対して、わたしは世に対してはりつけにされているのです》と。パウロはこれと同じこと

を洗礼に結び付けて、ローマの信徒への手紙6章で語っています。少し長くなりますがそのところを引

用いたします。

・《わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、

キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちにも新しい命に生きる

ためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の

姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支

配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解

放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると

信じます。・・・このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結

ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい》(ロマ6:4-11)。

・このイエス・キリストの十字架による新しい創造こそが、このガラテヤの信徒への手紙の「結びの言

葉」における結論でもあります。《イエス・キリストの十字架のほかに、誇るべきものが決してあって

はなりません》に続いて、《割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです》と、

15節でパウロは語っている通りです。

・そして16節でパウロは、《このような原理に従って生きていく人の上に、つまり神のイスラエルに平

和と憐れみがあるように》と、祝福の言葉を述べているのであります。このガラテヤの信徒への手紙の

「結びの言葉」を、少し丁寧に考えてみましたが、パウロはここで、イエス・キリストの十字架とその

十字架による新しい創造を、原理として生きる者がキリスト者であると語っているのです。イエス・キ

リストの十字架もその十字架による新しい創造も、生まれながらの私たちの存在から生み出されたもの

ではありません。生まれながらの私たちの中には、イエス・キリストの十字架も、その十字架による新

しい創造の出来事もないのです。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙2章で、《わたしは、キリストと共

に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内

に生きておられるのです》(2:19,20)と語っています。このようなイエス・キリストにある自己意識を、

私たちはパウロと共に共有することができるでしょうか。そこに私たちにとってのはじめと終わりがあ

るのではないかと思います。

・最後にもう一つパウロの汽灰螢鵐硲云18節以下の言葉を引用させていただきたいと思います。これ

も少し長い引用になりますが、お許しください。《十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなも

のですが、わたしたち救われる者には神の力です。・・・/知恵のある人はどこにいるか。学者はどこ

にいるか。この世の論客はどこにいるか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは

神の知恵にかなっています。そこで神は宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えに

なったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につ

けられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かな

ものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキ

リストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。/兄

弟たち、あなたがたが召されたときのkとを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多

かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は

知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるために、世の無力な者

を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者

や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするため

です。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の

知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためで

す》(汽灰1:18~31)。

・「誇る者は主を誇れ」。死に向かって激流しているようなこの時代と社会の中で、キリスト者として

アイデンティティーを失わずに、キリストを指し示す「世の光、地の塩」としての役割を担い続けた

いと願います。