なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ガラテヤの信徒への手紙による説教(14)

 以下の説教原稿は、この日の礼拝に聴覚に障がいのある方が出席しましたので、その方のために

差し上げた原稿です。その方は私が話をしている原稿の個所を隣にいる人に方から指示してもらい

ながら、この原稿によって私の説教を受け取っておおられました。


    「途方に暮れる」ガラテヤの信徒への手紙4章8-20節
    
                     2016年10月9日(日)船越教会礼拝説教

・「来る者はこばまず、去る者は追わず」という格言のような言葉があります。

・この言葉は、自分の所に来る者は歓迎するけれども、意見や考え方が違って、自分とは一緒に行動を

共にできないということで、自分の下を去って行く者については、わざわざ追いかけて引き止めること

はしないということです。

・私も基本的には他者に対してこの姿勢を大切にしている者の一人です。

紅葉坂教会時代にもそういうことがありました。1995年に私が紅葉坂教会の牧師になってから、

1999年3月の教会総会で、紅葉坂教会の規則から「洗礼を受けた者が聖餐式に与かる」という8条

を削除することを決議して、その年のイースター聖餐式から、洗礼を受けていなくても、希望すれば

聖餐式に与かることができるということを、はっきり言って聖餐式を行うようになりました。それまで

の約3年間、役員会でも教会員全体でも、聖餐式の在り方について学びと議論を深めました。その結果

が1999年3月の教会総会での、教会規則8条削除になったのであります。

・しかし、その聖餐式に関する学びと議論の過程で、はっきりと洗礼を受けない人にも希望すれば与か

ることのできる聖餐式には反対であるという意見の人が、二人、他教会に転会していきました。一人の方

は、聖餐式のことだけではなく、家庭の事情があって他の教会に転会しました。もう一人の人は、紅葉坂

教会が進めている洗礼を受けない人にも希望すれば聖餐に与かれる聖餐式は、日本基督教団の規則違反だ

から認められないという考え方を持っている人でした。教会で聖餐式の学びや議論が続けられていること

も、その人には受け入れ難かったのではないかと思いますが、私に他教会への転出を申し出て来ました。

私自身は、その方と一度よく話し合おうと話し合いの機会を求めたのですが、十分な話し合いの時間をと

ることができずに、その人から自分の意志は固いのでと言われて、仕方なく私はその人の意志を尊重し、

役員会にかけて、その人の転出の手続きをとりました。

・この人に対して、最初に申し上げた言葉からしますと、私は「去る者は追わず」という態度を貫いたこ

とになります。一方紅葉坂教会が洗礼を受けていない人でも希望すれば誰でも与かれる聖餐式をしている

というので、他の教会から紅葉坂教会に転入を希望する人もいました。そういう人は紅葉坂教会に迎え入

れました。「来る者はこばます」です。

・今挙げた事例は、転出した人も、キリスト教を捨てて、例えば統一教会に入ってしまったというわけで

はありません。聖餐理解の違いであって、その聖餐理解の違いは、聖書や教会の伝統からすれば、両方あ

り得るものですから、洗礼を受けていない人にも希望すれば与かれる聖餐式を、どうしても認めることは

出来ないという人を、無理に引き止めることはできないと、私は思っていたからです。ただその人の転出

が聖餐についての議論がはじまったばかりでしたので、その議論には参加してもらいたいと思い、そのた

めに話し合いの機会を求めたのですが、その人の方から自分の考えは変わらないと強く言われたので、そ

の人の転出を役員会に諮って認めたわけであります。

・さて、「来る者はこばまず、去る者は追わず」ということからしますと、今日のガラテヤの信徒への手

紙の箇所におけるパウロの姿勢・態度は、去る者を、何としてでも去らせてはならない。自分の下にとい

うか、自分が宣べ伝えた福音の真実の下に、何としてでも引きとどめておきたいという、非常に強いパウ

ロの思いが、感情的にと思えるくらいに吐露されているのであります。

・少しガラテヤの信徒への手紙の今日の箇所から、その辺のパウロの強い思いを、もう一度見ておきたい

と思います。

パウロは自分の伝道活動によって設立されたガラテヤの教会の信徒が、パウロの後にガラテヤにやって

きたユダヤ主義者にユダヤ化されたことを嘆いています。このように言っています。<ところで、あなた

がたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知

っている。いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に

逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、

時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あ

なたがたのことが心配です>(8~11節)と。

・ガラテヤ教会の信徒たちは、パウロによれば、一度パウロの福音宣教によって、「無力で頼りにならな

い諸霊の支配」から解放さがれて、神を信じて自由に生きることができるようになったのです。それがユ

ダヤ主義者の影響を受けて、ガラテヤ教会の信徒たちは、ユダヤ教新月祭や過越祭、五旬節などの祝日

や断食に関する規定などを守り始めるようになって、「あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆

戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしている」と、パウロには思えたのです。パウロにとって

は、イエス・キリストにより神を知り、諸霊の支配から自由に生きることは、人間の解放にとって根本的

な事でしでした。人間としての救済=自由があるとすれば、それをおいて他にはあり得ないと、パウロ

確信していたのです。折角その自由を得て、諸霊の支配から解放されて生きはじめたガラテヤ教会の信徒

たちが、再び元の状態である諸霊の支配下に戻って奴隷のように生きることは、パウロには耐えられない

ほど悲しいことでした。ガラテヤの人々に対する自分の福音宣教が無駄であったのではないかと、パウロ

はがっかりした面もありましたが、それ以上にパウロは、「あなたがたのことが心配です」と、ガラテヤ

の教会の信徒たちのことを心から心配していたのです。

・他者に対するその人の心配が、場合によっては他者を支配し、圧迫するという事も起こり得ます。特に

子供に対する過剰な親の心配にはそのような面が付きまといやすいのではないかと思われます。パウロは、

自分とガラテヤ教会の信徒たちとの関係を、親と子、特に母親と子に譬えて語っています。19節に<わた

しの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もう

と苦しんでいます>と言われていますが、この言葉は、正に母親が子を産む陣痛の苦しみに譬えて、ガラ

テヤの信徒たちに対するパウロの働きかけが語られているのであります。「キリストがあなたがた(ガラ

テヤ教会の信徒たち)の内に形づくられる」こと、これこそがパウロの願いでありました。

・そのためには、「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐりだしてわたしに与えようとしたの

です」と、かつて自分がガラテヤ教会の信徒たちに福音宣教をしたときに、目の病を患っていた自分に対

してガラテヤの教会の信徒たちがもっていた、親密さ以上の熱い思いを思い出させようとしてもいます。

また、パウロは、ユダヤ主義者に対する誹謗とも言える言葉、「あの者たちがあなたがに対して熱心にな

るのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなた方を引

き離したいのです」とも語っているのです。

・このガラテヤの信徒への手紙の箇所は、そういう意味で、何が何でも、ガラテヤの教会の信徒たちをイ

エス・キリストの福音の真実に引きもどそうとしたいのだという、ある面で他者であるガラテヤ教会の信

徒たちへの圧迫にもなり兼ねない、パウロの強烈な思いがよく現れているところでありす。パウロはその

ように手紙で書きながら、<できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話

したい>と記して、手紙での説得では歯がゆい思いでいることを告白しているのです。そして、<あなた

がたのことで途方に暮れているからです>と、正直なパウロの思いを吐露しているのであります。

・<わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがた

を産もうと苦しんでいます>(19節)。これがパウロの心からの願いでした。

・「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」とは、「ガラテヤの信徒たちがキリストと結ばれ、

完全にキリストのものとなるまで」という意味であります。「あなたがたの内に」を「あなたがたにおい

て」つまり「あなたがたの間に」の意味にとれば、この発言はキリストと個々のキリスト者との関わりに

ついてではなく、ガラテヤの信徒の間でキリストの「真の福音」が完全に根を下ろすことについてである

と、解することも可能です。しかし、キリストと個々人との関わりがあればこそ、「キリストの福音」は

人々の間に根付くと言えるのであって、その逆は必ずしも言えないことを見失ってはなりません。そして、

ここで、「キリストが形づくられる」が「キリストが生まれる」という考え方に通じていることは、<わ

たしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます>と言われていることからも推し量ることができ

ます。ここには、「(人々の内での)キリストの誕生が真のキリスト者の誕生である」という思想が見ら

れます。そして、真のキリスト者の誕生はそう簡単なことではないということが、「産もうと苦しんでい

ます」というパウロの言葉によって明らかに示されています。

・フィリピの信徒の手紙でも、パウロはフィリピの教会の信徒にこのように勧めを語っています。<だか

ら、わたしの愛する者たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今は

なおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分救いを達成するように努めなさい。・・・そうすれば、とが

められることのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、

世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう>(2:12-15)と。

・そして、自分自身についても、<わたしは、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、

その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを

得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようとし努め

ているのです。自分がキリスト・イエスによって捕えられているからです>(3:10-12)

・これらのパウロの言葉は、人間の側からのイエス・キリストへの応答です。そのような応答をパウロ

促しているのは、私たちの好ましい現実においても、好ましくない現実においても、それを信じる人にも

信じない人にも、イエス・キリストの存在が太陽の光のように全ての現実に、すべての人に注がれている

からです。現代という時代においても、そのことは真実です。イエス・キリストの生涯と十字架と復活の

出来事は、今も命の光として、私たち信仰者の歩む、道しるべとして、灯として輝き続けているのです。

そのことを見失うことなく、私たちもまた、わたしたちの内にキリストが形づくられるために、イエス

キリストを追い求めて歩み続けたいと願います。