なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ガラテヤ人への手紙による説教(3)

   「人からではなく」ガラテヤ人への手紙1:10-12、2015年9月13日礼拝説教

・私たちはイエス・キリストの福音を信じるという時、多くの場合人の解き明かしを聞いたり、その人の生

き様に触れて影響されて、イエス・キリストを信じるようになるのではないでしょうか。私自身も高校3年生

の時に友人に誘われて、教会に行き、教会で聖書の解き明かしを聞き、交わりの中で、信仰を与えられて洗

礼を受け、キリスト者になりました。ですから、ある意味で、私の信仰は、人から伝えてもらったものであ

り、人から解き明かしてもらったものだと言うことが出来ます。

パウロも、コリントの教会の人々にこのように語っています。<兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知

らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている

福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがた

はこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょ

う>(15:1-2)と、このように言って、次に、<最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは

わたしも受けたものです>(15:3)と言っているのです。つまり初代教会の言い伝え、伝承をパウロは最も

大切なものとして受けたというのです。その内容は、<すなわち、キリストが、聖書に書いてある通りわた

したちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケ

ファに現れ、その後十二人に現れたことです。云々>(15:3,4)といわれているのです。

・このパウロが最も大切なものとして、自分も受け、コリントの教会の人たちに伝えたのは、キリストにつ

いての教え、つまり、キリストの贖罪死、葬り、復活、顕現という教義ということができます。しかし、パ

ウロがここで述べているのは、ただのキリストについての教えということではなく、「生けるキリスト」と

の出会いではないかと思うのです。先ほど読みましたところの後のところを読んでいきますと、こう言われ

ています。<次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについた

にしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、そして最後に、月足らずで生まれたよ

うなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな

者であり、使徒と呼ばれる値打ちもない者です>(15:6-9)。そのように言って、更にパウロは、<神の恵

みによって今日のわたしがあるのです>(15:10)と語り、<そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄に

ならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多くはたらきました。しかし、働いたのは、実はわたしでは

なく、わたしと共にある神の恵みなのです。とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝え

ているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした>(15:10-11)と言っているのであります。

・つまり、パウロは自分も受け、また人にも伝えているイエス・キリストへの信仰の伝承が行われているの

は、<わたしと共にある神の恵み>だと言っているのであります。そして<わたしにしても彼らにしても、

このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした>と言われていますように、

イエス・キリストを信じる信仰の伝承によって、信仰者が生まれるということそのものも、そこには神の恵

みの働きがあるということを述べているのであります。言葉を換えて言えば、この「神の恵み」は復活のキ

リスト、すなわち「活けるキリスト」と言ってもよいでしょう。神の恵みとしての「活けるキリスト」が、

かつてのユダヤ教徒としてのパウロキリスト教徒の迫害者からキリストを宣べ伝える者へと変えたのです。

・そのような福音の宣教者としてのパウロの背景からみますと、パウロが設立したガラテヤの教会に後から

やってきてガラテヤの教会の人たちに、「活けるキリスト」だけではなく、ユダヤ教の「割礼や律法」も必

要だと唱えたユダヤ主義者の福音は、パウロにとっては、「キリストの福音」ではなく、むしろ「キリスト

の福音」を覆えすもので、パウロがガラテヤ教会の人々に宣べ伝えた「キリストの福音」に反するものであ

りました。ですから、パウロは、今日読んでいただいた前の箇所で、「しかし、たとえわたしたち自身であ

れ、天使であれ、わたしがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪

われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたが

たが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい>とまで言っているのです。ここ

パウロユダヤ主義者の語る福音を「呪われよ」とまで言っているのは、それだけにパウロとしては、神

の恵みとしての「活けるキリスト」の他に何もわたしたちが宣べ伝えるものはないという、強い確信を持っ

ていたということではないかと思います。

ユダヤ主義者に対して呪われるがよいと言った後、パウロは、先ほど読んでいただいた箇所で、<こんな

ことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしている

のでしょか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか>と自問自答していま

す。この部分は本田さんの訳ですと、とこうなっています。<今わたしが信頼すべき相手は、人々でしょう

か、それとも神でしょうか。あるいは、わたしは人々におもねるようなことをしていますか。もし、わたし

が、今もって人々におもねっているとしたら、わたしはキリストの奉仕人とは言えません>。

パウロは、人におもねることによっては、その人も解放されないということを自覚していたと思われます。

人におもねられると、いい気持になる人がいるかもしれません。しかし、人からおもねられていい気持にな

っているその人自身が解放と自由から疎外されているのです。パウロはそのようなことはできませんでした。

「キリストの僕」「キリストの奉仕人」としてのパウロは、何よりも自分自身が一人の人間として神と隣人

とのかかわりの中で解放された者として生きることができるようになった「神の恵みとしての活けるキリス

ト」によって、他者である隣人も解放された者として共に生きることこそが、「キリストの僕」「キリスト

の奉仕人」としての自分の使命だと信じていたに違いないからです。

・かつてのユダヤ教徒としての自分は、自分が大切にしていた「割礼と律法」によって、キリスト者を捕え

て、迫害して、獄に入れ、抹殺することこそが正しいと信じて、行動し、キリスト者を無き者にしようとし

ていたのです。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という活けるキリストに出会って、パウロ

はそのような他者であるキリスト教徒を迫害して喜んでいる自分の過ちに気づき、回心して「キリストの僕」

「キリストの奉仕人」になったのです。この活けるキリストとの出会いによって、パウロは真に一人の人間

として解放されたからです。それだけにガラテヤの教会にパウロの後からやってきたユダヤ主義者の語る言

葉は、ガラテヤの教会の人々が「神の恵みとしての活けるキリスト」の福音によって解放されたのに、また

再び奴隷の軛に繋ぐことでしかないと、パウロには思えたのです。

・さて、パウロは、11節、12節でこのように言っています。<兄弟たち、あなたがたにはっきり言います>、

この言い回しは、「パウロが読者に非常に重要なことを告げる際に用いる導入句」だと言われています。そ

して<わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしは福音を人から受けたものでも

教えられたものでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです>と語っているのです。ここ

には、「わたし」という主語がはっきりと明示されていて、パウロの強い語調が感じられます。

・ここで「わたしが告げられた福音」とは、「「律法から自由な福音」です。「ただ人はイエス・キリスト

を信じる信仰によってのみ義とされる」というパウロの「信仰によってのみ」という福音です。パウロは、

このパウロの語った福音は、初代教会の言い伝え、伝承から与えられたものではありません。先ほどコリン

ト第一15章でみましたように、これはパウロが受けたものではありません。ですから、パウロはここで、直

イエス・キリストの啓示によると語っているのです。これは明らかにあのダマスコ途上でのパウロの個人

的体験です。この個人的体験がパウロの説く福音の神的期限を示す根拠とされているのであります。しかし、

このようなパウロの個人的体験の真偽を、第三者がどうこういうことはできません。パウロがそう言ってい

るのですから、それを信じるか、疑うか、それは受け手の問題になります。読者であるガラテヤの人たちは

それを信じるか信じないかという二者択一の前に立たされていることになります。

・さて、ここでパウロが問題としていることは何かというと、こういうことではないかと思います。<パウ

ロにとって福音より人を説得することは、それ自体が最終目的ではありません。神のみ旨に従って託された

福音宣教の務めを果たし、神に仕えることこそが宣教の究極的目的です。パウロは、自分を「父なる神によ

使徒」(ガラ1:1ロマ1:1)、「キリストの僕」(ガラ1:10、ロマ1:1)と理解しています。これに対して、

彼の理解するところによれば、ガラテヤにやってきた論敵たちの宣教は言葉によって説得すること、即ち、

信徒獲得自体を目的とし、神から託された福音を宣教することによって神に仕えるという次元を欠いている

のです。その意味で、彼らの「説得」は人間的業であって、人々を信仰へと召し出す神の業ではないのであ

ります>。パウロはガラ4章8節以下で、その論敵たちのことを、<ところで、あなたがたはかつて、神を知

らずに、もともと神でない神々の奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っているのに、いや、む

しろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊のもとに逆戻りし、もう一度

改めて奴隷をして仕えようとしえいるのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守って

います。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配で

す>(4:8-11)で述べています。

・それは活けるキリストとの出会いによる自由、解放、ひとりの人間として神と他者である隣人の前にどう

生きるかという、神のみ旨にしたがって生きる信仰、希望、愛による生活、諸霊による奴隷かあらの解放こ

そが、神の喜びたもうことだからです。私たちも、この人間としての自由と解放を自分の生活の中で大切に

していきたいと思います。