なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(58)「一粒の麦は、…」ヨハネ12:20-27

5月5(日)復活節第6主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽ユーチューブは今日はありません。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃 美 歌   351(聖なる聖なる)

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編8編1-10節(讃美歌交読文10頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書12章20-26節(新約192頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   510(主よ、終わりまで)

⑨ 説  教  「一粒の麦は、…」         北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

現在イスラエルハマスの軍事攻撃に対する報復という大義名分を掲げて、ガザのパレスチナ人の命を小さな子どもの命を含めて、虐殺ともいえる形で奪っています。そのようにイスラエルが戦争をしているので、コロナ感染の影響後にも拘わらず、イスラエルに来る外国人観光客が減っていて、今の状態が長引くと、イスラエル経済が厳しくなるのではと言われています。現在でもユダヤ教の過越祭には、世界の各地から沢山の人びとがエルサレムを訪れているに違いありません。

 

先程司会者に読んでいただいたヨハネ福音書12章20節に、<さて、祭のとき礼拝するためエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシャ人がいた>(新共同訳)とあります。ここで「祭の時」と言われているのは過越祭のことで、この一週間以上続く祭りの時期には、周辺諸国からも巡礼者が集まって、エルサレムの都は祭の群衆であふれかえったと言われます。

 

その過越祭に訪れた沢山の人びとの中に「何人かのギリシャ人がいた」というのです。新共同訳では、この「何人かのギリシャ人」も「祭のとき礼拝するためエルサレムに上って来た人々の中」の一員とされています。ですから、注解者の中にはこのギリシャ人は、単なるギリシャ人ではなく、ユダヤ教に改宗したギリシャ人であると言う人もいます。しかし、田川さんは、ここのギリシャ人は、常識的にはギリシャ語を第一言語とする非ユダヤ人を指すと言っています。ですから、ここのギリシャ人は、ユダヤ教に改宗したギリシャ人として過越祭の礼拝をするために神殿に来たというのではなく、ここは神殿見物の話だからと言って、20節を<神殿で参拝するために上って来る者の中に何人かのギリシャ人がいた>と訳しています。日本の場合でも、神社仏閣を外国人が参拝するという場合は、神仏を礼拝するというのではなく、神社仏閣の見物を参拝すると言っているのだと思います。ここでもそれと同じだと言うのです。

 

過越祭の群衆の中にユダヤ人だけでなく、「何人かのギリシャ人がいた」という記事はヨハネ独特で、このイエスギリシャ人との出会いは興味深いエピソードなっています。彼らは礼儀をつくしてまず弟子フィリポのところに行って、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」(21節、新共同訳)とフィリポに頼みます。

 

この「お願いです」と新共同訳で訳されている言葉は、原文ではキュリエ(主よ)です。ここを「主よ」と訳しているのは、後で帰ってから毎回説教配信の時に一緒に送っています6種類の日本訳を見ていただきますと分かりますように、シュラッター訳だけです。田川さんは「ご主人」と訳しています。他は「君よ」(口語訳)、「あの」(岩波訳)、「おそれいります」(本田訳)と訳されています。イエスの弟子にギリシャ人が「主よ」と呼びかけていることは、ヨハネ福音書では「主よ」という呼びかけの言葉が、宗教信仰の絶対的帰依の表現としてではなく、ごく普通の日常会話の呼びかけの言葉として用いられているということを示しています。

 

フィリポはアンデレのところに行ってそのことをはなし、アンデレとフィリポはイエスのもとに行って伝え、この二人の弟子の仲介で、イエスギリシャ人たちとの出会いが実現するという運びになっています。時は過越祭を前にしたエルサレム、場所は恐らく神殿の庭または廊下での出来事であったと思われます。

 

そして23節以下には、弟子のアンデレとフィリポの仲介を通してそれらのギリシャ人に対してのイエスの言葉が、記されることになります。

 

23節以下は、この数人のギリシャ人を含む祭りの群衆に対するイエスの最期の宣教の言葉として聞きとることができます。ここで語られていることは重要な内容を持っています。特にそれが、このヨハネ福音書ではギリシャ人たちとの出会いの場で語られたことになっているのです。この箇所について、シュラッターはこのように言っています。「新しい展開が開かれて来た。イエスの御名がギリシャ人にも行きわたり、その最初の者がイエスのもとに来たのである。エルサレムにおいてイエスを取り巻き、イエスに向かって傲慢と不信仰の壁を立てる重苦しい狭いグループから、今、希望にみちた突破口が示された。ギリシャ人までも弟子の仲間に入って来たなら、なんと弟子のサークルは広げられたことであろう」と。そしてこの記述には同時に、イエスの福音を狭いユダヤ民族だけの枠を破って、広くギリシャ世界に宣べ伝え証ししようとしたヨハネ福音書記者の熱い思いが込められていると思われます。

 

このギリシャ人たちがイエスに会って何を聞いたのかは分かりません。師として尊敬し、個人的に教えを受けようとしたのかも知れません。あるいは、ギリシャ人にも教えを伝えてほしいと頼んだのかも知れません。だがここでヨハネ福音書のイエスは、このギリシャ人の問いにも関連して、人びとに残す最後の言葉として、ご自身の死の意味について、その死に方について述べているのです。イエスの生涯の意味は、その最後に、その死に方に集中して示されていることが、いよいよ明らかになってくるのであります。

 

そこでイエスは先ず、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われます(23節)。私たちはこれまで、何度も、イエスが「わたしの時はまだきていない」と言われるのを聞いてきました(2:4,7:6等)。そして、イエスがそのように言われる場合、それは彼が十字架につくべき時を指していわれたのであることも、学んできました。しかしイエスは、この所で初めて、その時が来たことをはっきりと宣言しているのです。

 

そしてそれに続けてイエスは、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節、新共同訳)と語り、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(25節、同)と語り、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(26節、同)と語られます。

 

井上良雄さんは、「これらの言葉が語っている意味は、単純明瞭でありながら、そこに込められた内容がどれほど深淵であるかを、私たちはよく知っています。ここには私たち主に従って生きる者の生活の一切が語られていると、言うことができるでしょう」と言っています。

 

24節の一粒の麦の譬えは、種がまかれて、そこから芽が出て実を結ぶという、誰にでもよく知られている自然の現象にたとえて、ヨハネ福音書のイエスはご自分の死の意味を解き明かされているのであります。一粒の麦が地にまかれて、朽ちはて、その形を失うことによって、そこから新しい生命が発芽し、成長し、60倍、100倍の実を結ぶのであります。

 

私の小さい頃には、住んでいた近所にはまだ麦畑がありました。お百姓さんが畑に麦の種を蒔いて、一粒の麦が芽を出し成長し、何十倍にもなった麦粒の穂が茶色になると刈り入れます。お百姓さんが刈り入れる前に、その穂をつまんで盗み、手でもんでもみ殻を取ると茶色い麦粒が何粒も掌に残ります。それを口に含んで、かみ砕くとガムのようになります。小さな盗みをして、そんなことをして仲間と遊んだことがあります。ですから、このイエスの一粒の麦の譬えはよく分かります。

 

たった一粒の麦が地に蒔かれて、朽ちはて、その形を失うことによって、そこから新しい生命が発芽し、成長し、60倍、100倍の実を結ぶという植物の生命現象は、考えてみれば不思議で神秘的な出来事です。

 

一粒の麦を、もし地に蒔かないで一粒の麦のままで保存しておいたら、それはいつまでもひからびた、ただ一粒の麦のままにとどまるだけです。しかし、もしその一粒の麦の種を地に蒔いて、一粒の麦の種が朽ちて死ねば、その種から芽を出し麦が成長して、多くの実を結ぶのです。この一粒の麦の譬えをイエスに語らせることによって、ヨハネ福音書の記者は、イエスの十字架の死は文字通り地に落ちて死んだ一粒の麦だと語っているのです。ここに福音の生命力の根源、すなわち死を通して生命に至る福音、失うことによって得る逆説的真理の世界の秘密が語られているのであります(森田)。

 

(以下は森野善右衛門を参考にしています)

 

このイエスの最後の宣教の言葉の聞き手の中に、数人のギリシャ人がいたことは興味深いことです。ギリシャ人の人生観は(日本人のそれもそれと似ているところがありますが)、この世の生を単純に肯定して現生主義的な面が強く、生来の人間の可能性を無限に引きのばして行けば神に至ることができるという楽天主義人間主義があらわれています。しかし、ここでイエスギリシャ人たちに説かれたことは、それとはまったくちがう、十字架の死を通して、まことの生命に至る道、すなわち、一粒の麦が地に落ちて死ぬことによって、そこから多くの実を結ぶ道でした。それはギリシャ人の目には愚かな敗北の姿と見えたに違いありません。死を通して生命に至るという思想はギリシャにはなく、ギリシャ人の理想は永遠不死にありました。しかし一粒の麦のたとえは、真の生命はどのようにしてこの世に来たのかを教えています。人の目には愚かと見える姿と方法を通して、神による新しいいのちに至る道が示されたと言うのです。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(25節、新共同訳)。

 

「自分の命(プシュケー)」とは、生まれながらの人間の、自然的・肉体的生命のことで、「永遠の命(ゾーエー)」とは、上から与えられる新しい生命のことです。「この世で自分の命を憎む」とは強い表現ですが、自分だけのことを考えて、自己目的、自己実現を第一に考えて生きるような生き方に対する強い警告を表わす言葉として受けとけることができるのではないでしょうか。ただ自分の与えられた命をできるだけ引き延ばして生きることが、無条件によいことではないということです。人生の価値は、その長さではなくて、その内容、質によってきまるのです。何のため、誰のために何を第一義として生きるかということが問題なのです。イエスは他者に仕えるその生を徹底することによって、十字架の死を引き受けねばなりませんでした。イエスは、私たちにとっての真の命は、自分だけの自己実現ではなく、他者と共に生きる、互いに愛し合う中にこそあることを、ご自身の生きざま、死にざまで示されたのだと思います。

 

「一粒の麦」の言葉は、生きることの意味を教えるものです。ひとりの人イエスの死は、弟子たちに大きな衝撃と感動をよびおこし、その弟子たちの証しを通して、その後の歴史に大きな影響を与え続けることになりました。この一粒の麦に譬えで語っているヨハネ福音書のイエスの十字架理解は、パウロのような贖罪論ではありまません。一粒の麦としてのイエスの死は、私たちもまた、小さいながらも一粒の麦として、イエスに従って他者のために生きることへの呼びかけと招きなのではないでしょうか。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(26節、新共同訳)。

 

私たちはあえて一粒の麦となる決意と勇気を持ちたいと思います。そこにイエスに従う者の歩みがあり、真のいのちに至る道が開かれることを信じていきたいと思います。

 

主がそのように私たち一人ひとりを導いて下さいますように!

                          

祈ります。

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 今日は一粒の麦の譬えを通して、ヨハネ福音書のイエスが私たちに何を語りかけているのかを聞きました。一粒の麦の譬えは、自分を守り、自分の命を得ようとするのではなく、むしろ自分の命を差し出し、与え、他者に仕えることによって真の命に至ることを指し示しています。生来の自分では、とてもそんなことは不可能です。しかし、私たちがイエスを自分の心に迎え入れた時に、その不可能が可能になる不思議が起こることを信じることができますように。神さま、私たちを導いてください。
  • 今も奪い合いの世界の中で、苦しむ方々を助けてください。また、災害や病気で苦しむ人々を支えて下さり、その一人一人に希望をお与えください。
  • 他者のために働く人々を力づけ励ましてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 長澤三枝子さんが、この地上の生涯を終えて、正義さんのいるあなたのところに帰りました。三枝子さんの上に平安をお与えください。残されたご遺族の方々を慰めてください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌    575(球根の中には)

⑭ 献  金 

⑮ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑯ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。