なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(29)「荒れ狂う中でも」ヨハネ6:16-21

8月27(日)聖霊降臨節第14主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌     204(よろこびの日よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-204.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編92編8-16節(讃美歌交読文103頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書6章16-21節(新約174頁)

           (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    433(あるがままわれを)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-433.htm

⑨ 説  教     「荒れ狂う中でも」         北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

前回取り上げました四つの福音書すべてに記されています五千人の共食の奇跡物語の後に、湖の上を歩くイエスの奇跡物語が記されているのは、ヨハネ福音書の外にはマタイ福音書とマルコ福音書で、ルカ福音書にはありません。しかもマタイ福音書もマルコ福音書も、五千人の共食の奇跡の後、イエスが弟子たちを舟に乗りこませ、対岸に先に送り出し、ご自身は祈るために一人で山に登ったと記されているのであります。しかし、ヨハネ福音書では、6章14,15節になりますが、このように記されています。<それで人々は彼がなした徴を見て、本当にこの人こそ世に来たるべき預言者なのだ、と言った。それでイエスは、彼らが来て彼をつかまえ、王にしようとしている、ということを知って、再び自分一人で山へと去った>(田川訳、以下ヨハネ福音書の引用はすべて田川訳)。

 

ヨハネ福音書ではマタイ福音書やマルコ福音書とは違って、非常にはっきり人々が押し寄せて彼を王にしようとすることがイエスのしるしによって起こったとしています。人々はイエスを王としようとして殺到したのに、イエスご自身は山に退かれたということは、政治的・軍事的な王、すなわち「ユダヤ人の王」としての人々の期待はイエスによって退けられたということになります。それは、イエスの奇跡能力を見てローマ帝国に抵抗する政治的メシアとして彼を担ぎ上げようとした群集の意図が拒否されたことを意味します。

山に退くということが、なにを意味していたかは、特にヨハネ福音書からだけでは言うことが出来ません。共観福音書の方では、イエスがひとりで淋しい所へ出て行くのはいつも祈るためであると言われています。しかしヨハネ福音書においては、むしろ6章3節の《山に登り》という言葉との関連で、出エジプト記においてモーセが、シナイ山にひとりで登って神との出会いを経験し、人々は麓で待っていたという、故事が直接の背景になっていると考えられます。もちろん内容としてイエスが神との交わり、祈りをしたことを否定する必要はありません。

 

ヨハネ福音書のイエスは、そのような政治的メシアになることを全く望んでいません。イエスは≪仕えられるためではなく、かえって仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た≫(マルコ10:45新共同訳)と言われています。パウロはフィリピの信徒への手紙の中で、キリスト者の謙遜(へりくだり)を勧める文脈の中で有名なキリスト讃歌を語っています。そこにもイエスの謙遜(へりくだり)が明確に記されています。≪キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であられた≫(フィリピ2:6-8,新共同訳)と言われています。

 

エスの生涯の歩みは、その誕生から死まで謙遜(へりくだり)そのものだったと言えるでしょう。乙女マリアから生まれ、その生涯の最初の三十年を、ナザレの大工の家で過ごされました。公生涯になっても、イエスに従った者たちは貧しい者たちでした。その生活様式においても貧しくあられました。≪狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もない」(マタイ8:20、新共同訳)と言われているようにです。ガリラヤの湖に乗り出された時には、借物の舟に乗って行かれました。エルサレムには、借りたろばに乗って入って行かれました。葬られた時には、借物の墓に葬られました。パウロは≪主は豊であったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです≫(Ⅱコリント8:9、新共同訳)と言っています。

 

ライルは、「このイエスの模範は、いま覚えられているよりももっとしっかりと覚えられなくてはならない。誇りや野心や高慢が、なんとよく見られることだろう。謙遜と謙虚さが何と稀なことだろう。偉くなる機会が与えられて、それを拒むことがあるのはなんと少数なことか。なんと多くの者たちが、自分の為に大きなことを求め、「求めるな」(エレミヤ45:5)との戒めを忘れてしまっていることだろう。私たちの主が、弟子たちの足を洗われた後で、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです」(ヨハネ13:15)と言われたのは、確かに、無意味なことではなかった。キリスト者の間には、この足を洗う精神がほとんどないのではないかと、気にかかることもあるであろう。人が認めようと認めまいとにかかわらず、謙遜は恵みの女王なのである。「その人にどれほどの謙遜があるか教えてください。そうすれば、その人にどれほどの信仰があるか教えてあげましょう」と言われてきた。謙遜は天への第一歩であり、栄誉へのまことの道である。「自分を低くする者は高くされる」(ルカ18:14)」と言っています。

 

次に、ヨハネ福音書の今日の箇所では、イエスが山へ去ってしまったので、<夕方になった時、彼の弟子たちは海のところに下った。そして舟に乗り込み、海の向こう岸、カファルナウムへと行った。そしてすでに暗くなって、しかもイエスはまだ彼らのもとに来ていなかった。大きな風が吹き、海が目を覚ましていた(岩波訳「大風が吹いており、海は荒れていた」)。>(16―18節)と、マタイやマルコのように、イエスが弟子たちを船に乗り込ませたのではなく、弟子たちはイエスが山に去っていってしまったので、夕方になり、自分たちで海の所に下っていき、舟に乗り込み、向こう岸のカファルナウムへと行ったというのです。ところが「大きな風が吹き、海が目を覚ましていた(岩波訳「大風が吹いており、海は荒れていた」)ので、弟子たちの乗った舟は目的地に着くことができず苦労しています。おそらく弟子たちは不安に閉じ込められていたことでしょう。

 

これらの節において、私たちがこの箇所から注目すべきことは、「イエスの弟子たちが通らなければならなかった試練」であります。弟子たちは、自分たちの師であるイエスが後にとどまっている間に、自分たちだけで海(=湖)に出るように送り出されました。暗い夜に、弟子たちだけで船で湖に出ると、大風と荒れ狂う波にもてあそばれてしまったのです。最悪なことに、イエスは共にいません。これは意外な展開でした。

 

弟子たちは自分たちだけで船に乗って湖に出る前には、五千人の共食で、五つのパンと二匹の魚をイエスが祝福して分けて、みんなが腹いっぱい食べて、残りが12のかごに一杯だったという、イエスの奇跡の証人となり、用いられる器として、イエスの奇跡の働き手でもあったのです。ところが、今は自分たちだけで、孤立、暗闇、風、波、嵐、不安、危険と向かい合っています。弟子たちは本来このような恐れと不安を好みません。弟子たちは、本当は、穏やかな天気で、ほどよい風の下に、イエスがいつもそばにいてくださり、日差しが顔に当たるような状態で、湖を渡りたいのだと思います。しかし、そのようにはならないこともあるということです。つまり試練を経験すると言うのです。それは、私たちキリスト者も同じではないでしょうか。旧約の人々、アブラハムヤコブモーセダビデ、ヨブは、すべて多くの試練を経験した人々でありました。<彼らの足跡を踏み、彼らの杯を飲むことに甘んじようではないか。最も深い闇に閉ざされた時には、置き去りにされたように思われるかもしれない。しかし本当は、私たちは決してひとりぼっちではないのです>(ライル)。

 

19-21節<それで二十五ないし三十スタディオンほどのところに来た時、イエスが海の上を歩いて来て、舟の近くに来るのを見る。そして恐れた。彼が彼らに言う、「私だ。恐れるな」。それで彼らは彼を舟の中に入れようと欲した。そして直ちに舟は彼らが向っていた土地に着いていた>。

 

《私だ。恐れるな》 この事件のクライマックスはまさにイエスの、この発言にあります。「私だ」という言葉はエゴー・エミイという言葉です。この言い方は、出エジプト記において、モーセに対して神ヤーウェが自分の姿、自分の名前を明らかにした神顕現定式のギリシャ訳になります。ですから、ここでイエス御自身が神と等しい、あるいは自分は神であるという形で自己を顕現しているのは明らかです。

 

このイエスは、五千人の共食の奇跡の後、人々によって王にされそうになったのを拒絶し、≪仕えられるためではなく、かえって仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た≫(マルコ10:45新共同訳)方です。そのようなへりくだりにおいて、私たちの救い主である方です。このヨハネ福音書の箇所には、そのイエスが船に乗り込んだかどうかという点ははっきり書かれていませんが、弟子たちがイエスを迎え入れようとしたことは記されています。そして、弟子たちがイエスを船に受け入れることと、目指す地に着いたことが、明らかに意図されています。≪彼ら(弟子たち)は彼(イエス)を舟の中に入れようと欲した。そして直ちに舟は彼らが向っていた土地に着いていた≫(21節)。

 

ヨハネ福音書では、この後6章22節以下で、「イエスは命のパンである」ということが記されています。そのところで言及されていますように、出エジプトの荒れ野でイスラエルの先祖たちは飢えと渇きをしばしば訴えて、神に対する不信、ひいてはモーセに対する不信を示しました。神の言葉に従わないものは遂にヨルダン川を渡ることができず約束の地に入ることができなかったのです。そうした事柄を思い合わせて、この≪彼ら(弟子たち)は彼(イエス)を舟の中に入れようと欲した。そして直ちに舟は彼らが向っていた土地に着いていた≫という言葉を読むべきでしょう。

 

最後に、「私たちの救い主イエスの海の波に対する力」に注目したいと思います。イエスは、弟子たちが荒れ狂う湖で舟をこいでいる時に、水の上を「歩いて」弟子たちのところに来られました。自分たちの救い主イエスが、水や風、嵐や暴風の主であり、最も深い暗闇に包まれた時に、「湖の上を歩いて」自分たちのもとに来てくださることがおできになるという信仰によって、キリスト者は慰めを得ることができるのではないでしょうか。ガリラヤの湖の波のどれよりも、はるかに大きな問題の波があるのではないでしょうか。私たちキリスト者の信仰を試す、暗闇の日々があるのです。今日の世俗化した社会で、神なしに、高慢な人間が中心になって築いている現代社会は、私たちキリスト者にとっては、暗闇の日々ではないでしょうか。荒れ狂う海を子船で渡っていると言ってもよいかも知れません。私たちは、イエスの十字架によって贖われた一人一人の命と生活を大切にし、正義と平和が支配する社会を求めて、イエスに従って生きていこうとしながら、現実の世界は死と破壊に脅かされているのです。しかし、救い主イエスが私たちの友であるのであれば、決して絶望しないようにしたいと思います。救い主イエスは私たちの思いもよらない時に、私たちが予期していなかった方法で、私たちを助けるために来ることがおできになります。そして救い主イエスが来られたなら、荒れ狂った海は静かな海に治まるのです。その終末的な信仰をもって、私たちは現代社会の荒れ狂った海を子船に乗って、渡っていきたいと願います。救い主イエスの再来を信じて。

 

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 今日は湖の上を歩くイエスの物語から、あなたの語りかけを聞くことができ感謝いたします。弟子たちだけで荒れた湖を船で渡っている姿は、荒れ狂う現代社会を生きる私たちキリスト者の姿に通じるように思われます。けれども力を持つ王としてではなく、十字架に極まる、へりくだりにおける他者への愛によって、主イエスは私たち人間の救い主であります。そのイエスが私たちと共にいて下さるところに、愛と正義と平和による平安が生まれます。神さま、主イエスを私たちの中心に据えて生きていくことができますように、私たち一人一人をお導きください。
  • 様々な苦しみの中にある方々を助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

⑩     462(はてしも知れぬ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-462.htm

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。