なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

待降節の説教(マタイ福音書11章2-19節)

    「準備する」マタイによる福音書11:2-19
         
                   2016年12月18日(日)船越教会礼拝説教

・今日は待降節の第4主日です。ローソクの灯が4本灯っています。年によってはこの日がクリスマス礼拝

になります。むしろそのような年の方が多いのです。降誕日は曜日に関係なく12月25日ですが、たまたま

12月25日が日曜日になった時だけ、アドベントの日曜日を4回過ごして、25日の日曜日がクリスマス礼拝

になります。今年がその事例になります。

・そこで今日は待降節の最後の日曜日ですので、待降節=待ち望むこと、備えることの意義について、獄中

から弟子をイエスのもとに送って、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなけれ

ばなりませんか」(11:3)と問わせたバプテスマのヨハネの問いとその問いに対するイエスの答から考え

てみたいと思います。

・マタイによる福音書によれば、バプテスマのヨハネとイエスの宣教の言葉、人々に宣べ伝えた言葉は全

く同じです。それは「悔い改めよ。天の国は近づいた」(3:2、4:17)です。ただマタイ福音書の著者は、

その福音書旧約聖書の預言の成就として記していますが、バプテスマのヨハネとイエスについての旧約

聖書の預言の内容は異なっています。

バプテスマのヨハネについては、「預言者イザヤによってこう言われている人である」と言って、イザ

ヤ書40章2節の「荒れ野で叫ぶ者の声がする。/『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ』」という

言葉が記されています。このイザヤ書の預言の言葉は、明らかに「主の道を整え、その道筋をまっすぐに

せよ」ということからして、「悔い改め」に強調点があると言ってよいでしょう。

・他方イエスの場合には、バプテスマのヨハネガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスによって捕えられた

と聞いて、イエスはナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわ

れたと記されていて、「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」と言わ

れています。そしてイザヤ書8章24節、9章1節の預言が引用されています。「ゼブルンの地とナフタリの地、

/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、/暗黒に住む民は大きな光を見/死の陰の

地に住む者に光が射し込んだ」です。このイザヤの預言の言葉は、明らかに、悔い改めに強調点があるので

はなく、「暗黒に住む民は大きな光を見/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」という事実、つまり「天

の国は近づいた」こと、神の国の到来に強調点がある、と言えるのであります。

・ですから、「天の国が近づいた」という神の国の到来からしますと、バプテスマのヨハネはその備えをし

た人、イエスは成就した人、神の国をもたらした人ということが出来るのであります。その違いは大きいの

です。天と地ほどの違いがあると言ってもよいでしょう。

・そこで今日のマタイによる福音書の箇所に戻って、獄中から弟子を遣わして、イエスに問わせたバプテ

スマのヨハネの問い、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりません

か」(11:3)に対するイエスの答を見たいと思います。「イエスはお答えになった。「行って、見聞きし

ていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っ

ている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされてい

る。わたしにつまずかない人は幸いである」(11:4-6)です。そして、イエス自身が、ヨハネの弟子たちが

帰った後、群衆にヨハネについて話して、こう言われているのです。「・・・はっきり言っておく。およ

そ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者

でも、彼よりは偉大である」(11:11)と。

・ここにはバプテスマのヨハネまでの時代とイエスが現れてからの時代とでは、私たち人間が生きること

のできる基盤が根本的に変わっていることが示されているのであります。女から生まれた者としてこの世

を生きる。これが私たち人間すべての女から生まれた者の生来の現実です。けれどもイエスを主として、

信じて生きる者は、神から生まれた者、天の国(神の国)の住人である神の子どもとして、この世にあっ

ても天の国(神の国)を生きるのです。

・「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえ

ない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と言われていますが、ここに

記されています様々なハンディを負っている人が、その負い目から解放されて「目の見えない人は見え、

足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き

返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」とはどのようなことなのでしょうか。

福音書ではイエスの奇跡によって、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患

っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされて

いる」と言われているのであります。ですから、イエスの奇跡行為によって、視覚障がい者が晴眼者(目

が見える人)になるというように、この聖書の記述を私たちは理解しているのではないでしょうか。

・けれども、このバプテスマのヨハネの問い対するイエスの答は、「天の国は近づいた」=「神の国の到

来」と密接不可分な関係にあるとすれば、このようにも理解できるのではないでしょうか。つまり、「目

の見えない人はそのままで、目の見える人と同じように生きることが出来る、足の不自由な人はそのまま

で歩くことが出来る人と同じように生きることができる、・・・・と。もしそのように読むことが出来る

とすれば、神の国ではハンディを持っている人でも、そのハンディが負い目になることはないのです。神

の国においてはハンディも、一人一人の個性の違いに過ぎないのであって、それぞれの個性を持った一人

一人の存在と生活が大切にされて、神に造られた被造者としての人間が、互に愛し合い、支え合い、助け

合って、神の栄光を表わすことになるからです。その人は個性を持った他者とは異質な存在のままで、全

体とつながっていて、分離、差別されることがない世界が神の国なのです。その神の国では、格差はあり

ません。聖霊が降ることによって誕生した最初の教会では、「信者たちは皆一つになって、すべての物を

共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(使徒2:44,45)と

記されています。これは原始共産制の社会というよりも、聖霊によって誕生した教会に見られる神の国

の現実として描かれているように思われます。神の国には国家も民族もありません。人はすべて神の造

られた被造物であり、神の子どもで、神の下にあって違いをもった個性的な一人として、上も下もなく

対等同等であるに違いありません。また、神の国には愛による仕え合いはあっても、暴力による支配被

支配、抑圧被抑圧もありません。

バプテスマのヨハネは獄中から弟子をイエスに遣わして、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、

ほかの方を待たなければなりませんか」(11:3)と問わせました。彼はメシヤ、救い主の到来、つまり神

の国の到来を待ち望み、そのために準備をしていたのです。ヘロデ・アンティパスの不正を厳しく糾弾し

たために、彼は獄中の人となっていました。それもバプテスマのヨハネが何よりも神の国の到来を待ち望

み、それに備えて生きていたからです。

・今日はアドベントの最後の日曜日で、後はクリスマス、イエスの誕生を待ち望むだけです。今日の説教

題は端的に「準備する」とつけました。イエスの誕生のクリスマスに備えるということです。最後に、使

徒言行録の聖霊降臨の聖書の箇所の説教ですが、バルトの説教の一節を紹介して終わります。

・<だから愛する皆さん、もしわれわれがまだその準備ができていないのならば、それはつまりまさに準

備ができるようになるということである。それはつまり、まさにわれわれが持っていない聖霊を請い願う

ということである。もしわれわれがいつかそうしなければならなくなるなら、心の底からそうしなければ

ならなくなるなら、それは実際にも起こるであろう。だから、もしわれわれが別の生とよりよい世界に対

してあこがれを感じるならば、この「われわれはしなければならない」へと自分たちを内的に全力で差し

伸べることが大切である。じっと静かにして、神の明るさをわれわれの中に輝かせなさい、そうすれば神

の明るさは、かの人々が勇敢にも行ったように、そのような解放の行為においても輝き出すであろう。こ

れが、神が人間たちと共に歩まれる道なのである。まず彼を待ち、彼を見、彼を楽しみ、彼を信頼し、彼

から贈り物をもらいなさい、そののち古い世界に打ち勝つ行為を彼の力と喜ばしさとにおいて行いなさい。

どうやってとかどこでとかじっくり検討することはすべてやめなさい。その代わり、神の偉大さと、そし

てわれわれが無限なるもの、この上なく偉大なるものを彼に期待しなければならない、という確信とで自

分たちの中を満たしなさい。われわれは聖霊降臨節以前のキリスト者たちと同様なのだ。いつかもし神の

深みからあの聖なる「われわれはしなければならない!」がわれわれの上に訪れるならば、われわれは彼

らが聖霊降臨節以後に行なった行為をも行うであろう、そればかりかもっと大きなわざを行うであろう

ヨハネ14:12参照)!(バルト説教集14、123-124頁)。

・祈ります。