なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(5)「この方こそ」ヨハネ1:29-34

2月5(日)降誕節第7主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。            (ヨハネ3:16)

③ 讃美歌   202(よろこびとさかえに満つ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-202.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編147編1-11節(讃美歌交読文160頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書1章29-34節(新約164頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   431(喜ばしい声ひびかせ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-431.htm

⑨ 説  教  「この方こそ」           北村慈郎牧師

  祈  祷

 

今日は、ヨハネによる福音書1章29-34節から語りかけを聞きたいと思います。

 

バプテスマのヨハネは、「ヨルダン川の向こう側」の「ベタニア」で人々にバプテスマを施していました。彼が人々に施していたバプテスマは、ヨルダン川の水にその人の全身を浸すものでした。この水のバプテスマは、全身を水の中に浸すことによって、その人がそれまでの自分に死んで、浸された全身を水から起こした時に、新しくなってこれから生きていくのだという象徴的な行為だったと思われます。その意味で、バプテスマのヨハネバプテスマは、生き方の180度の方向転換を表わす悔い改めのバプテスマでした。

 

ヨハネの所にエルサレムから派遣されたユダヤ人たちがやっていきて、旧約聖書で何時か必ずやって来ると約束されているメシア的人物(メシア、エリヤ、あの預言者)は、あなたなのかと問われ、ヨハネは、そうではないと答えました。更に、ではあなたは誰なのかと問われ、ヨハネは、イザヤ書の預言に記されている荒れ野で叫ぶ声だと、答えました。

 

「荒れ野で叫ぶ声」とは、今の私たちにとっても極めて象徴的な言い方ではないでしょうか。

 

「荒れ野」は、人々が日常生活している場所ではありません。【「荒れ野」とは、イスラエルにとって、出エジプト後の、目ざすカナンの地に入る前の、40年間の苦難に満ちた生活を思い起こさせる場所でした。彼ら・彼女らはそこで、一度ならず「エジプトの肉鍋」(出エジプト16:13)を思い出して、エジプトに戻りたいと思ったのです。彼ら・彼女らのエジプトでの奴隷の生活は、自由のない、しかし物質的にはある程度満たされた生活でした。そこに大きな誘惑があったのです。しかしエジプトを脱出したイスラエルの民は、シナイの荒野での苦しい放浪生活の中で、「天からのマナ」(出エジプト16章)によって養われ、神の恵みと導きの力によって支えられて生き続けることを学んだのです。物質的にはまことに乏しくありますが、しかし、神との契約に従って生きる神の民としては、前途への希望に満ちた生活がそこにはありました。彼ら・彼女らはやがて約束の地カナンに入ることができ、奴隷の生活から解放されることへの希望をもって、荒野の厳しい生活に耐え抜いたのです】(以上はほぼ森田『世の光キリスト』による)。

 

バプテスマのヨハネヨルダン川で洗礼運動を始めた時の、エルサレムを中心とするユダヤ人社会は、かつてイスラエルの民が奴隷であったエジプトに近かったのでしょう。神の御心よりもローマ皇帝(総督ピラト)やユダヤ自治機関であったサンヒドリンの長であった大祭司という権力者の支配が優ると共に、民衆もそれに抗うことが出来ないまま、従順に従って生きていたと思われます。そのようなユダヤ人社会は、人が生きていくのも大変厳しかったのではないでしょうか。安心して生きていくことができないで、いつも不安と恐れを抱えていなければならなかったに違いありません。混沌とした現代の社会も同じかも知れません。そのような社会では、人と人とは分断と差別によって隔てられてしまいます。たとえ貧しかったとしても、みんなでその貧しさを共有し、助け合って生きていくことが出来れば、その貧しさは、必ずしも分断と差別を生み出すものとはならないでしょう。しかし、貧しい者はますます貧しくなり、富める者はますます富んでいくという、不公平な社会は、人と人とを分断し、差別を生み出していくのです。そのような社会をつくり出すのは、自分さえよければという自己中心的に生きる人間、聖書の言う罪人です。その罪の支配がそのような分断と差別の社会を生み出すのです。

 

バプテスマのヨハネは、当時のユダヤ社会を見て、その深刻な罪の現実に恐れを憶えたのでしょう。このままでは人間(同胞イスラエル)は滅んでしまうのでは、という危機感を強く持つようになったに違いありません。そのことがヨハネを断食と祈りに向かわせ、そこで神の召命を受けて、荒野で叫ぶ声として、人々に罪を告白させ、悔い改めを迫り、ヨルダン川で水による洗礼を施すようになったのだと思われます。【「荒野」とは、目に見える、人間的、この世的、物質的な助けがすべて取り去られている場所です。しかしそこで初めて、真により頼むべきものが何であるのかが示される恵みの場所であり、解放への希望を持って生きる場所でもあるのです】(森野)。

 

けれども、ヨハネは、自分の水による洗礼によっては「『道』備え」はできても、神と人を結び付ける「道」にはなり得ないということを知っていました。人々に罪を告白させ、悔い改めを求めることはできても、その罪を赦し、罪人を神の子供に変えて新しい人にすることはできません。それができるのは、自分の後から来るお方であり、その人こそが人々を罪から解放し、救うことが出来ると、ヨハネは思っていました。そのことは、前回読んだところにありましたように、エルサレムユダヤ人から遣わされた祭司やレビ人が、ヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼(バプテスマ)を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えて、「わたしは水で洗礼(バプテスマ)を授けるが、あなた方の中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(25-27節)と言っていることからも分かります。

 

それがイエスだったのです。ヨハネエルサレムユダヤ人から遣わされた祭司やレビ人との問答が、ヨルダン川の向こう側のベタニヤであった、<その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」(29節)と言って、バプテスマのヨハネはイエスを指さしたのです。

 

この時、イエスが来られるのを見て、イエスを指さして「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と、ヨハネが言えたのは、既にヨハネはイエスと出会っていたからだと思われます。それは、「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼(バプテスマ)を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(33,34節)と言われているところから分かります。

 

ヨハネは、自分は土の器であってキリストではない、と否定的に告白すると共に、イエスが『神の子』であり、「神の(贖罪の)小羊」であることを大胆に証ししています。ここにヨハネの積極的な証しが示されています。『自分のようなつまらない者が』とただ卑下するだけでは、真の証しにはなりません。…ヨハネは、自分を否定することにおいて謙遜でありましたが、しかしキリストを指し示し、証しすることにおいては大胆でありました】(森野同上)。

 

バプテスマのヨハネは、イエスを指さして《見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ》と言いました。イエスを「神の子羊」とするのは、このヨハネ福音書の箇所だけです(29節と36節の2箇所)。子羊は過ぎ越しの祭りの時に捧げられる犠牲獣ですが、それは、かつて出エジプトの時に子羊の血を鴨居に塗り、神の怒りがイスラエルの先祖たちのテントを過ぎ越したところから、人間の罪を贖う象徴として考えられていました。ですから、イエスの十字架による罪の贖いによって世と世に属する人々が救われることが、初代教会の中でこの伝統的な小羊という語との関連で言い表されるようになったのだと考えられます。イエスを「世の罪を取り除く神の子羊」とするのは初代教会の信仰告白ですが、それをヨハネ福音書の著者は、この個所でバプテスマのヨハネに語らせているのです。

 

バプテスマのヨハネは、イスラエルの罪と激しく戦いました。かたくなな者に対しては、ヨハネは厳しくなり、多くの人に罪を告白させ、自分がバプテスマを与えるすべての者に、彼には神の赦しを告げることはできませんが、常に新たに神のゆるしを告げる用意を整えていたのです。今、ヨハネには、自分が確信している一人のお方が自分の前にいます。そのお方は、人間の罪を赦すことができる方です。イエスは十字架によって自らその罪を引き受け、担い、取り除かれた方だからです。シュラッターは、「このお方は、罪を取り去り、罪に罪を重ねて行く、暗い救いようもない歴史に、終止符を打たれる。なぜなら、そのお方は、完全に赦罪する神の全能の御力をもってゆるすことができ、清められた神の教会を備えるからである。それこそ何たる希望であろう! 誰もその時に、ヨハネの心に燃え上がる祝福を推しはかることはできない。世界をその罪から解放するお方が、そこにきているのである!」と言っています。シュラッターは、私たちの教会を、イエスの十字架による罪の贖いによって清められた教会と言っています。教会はエクレーシアであり、イエスを信じる者の集まりです。この教会というイエスを信じる人の集まりは、罪に罪を重ねていく、暗い救いようもない歴史に、終止符を打たれたイエスの十字架と復活によって生きる者の群れなのです。「罪を重ねて行く、暗い救いようもない歴史に、終止符を打たれた」、そのところから新しく始まる人間の歴史の担い手が私たち教会に属する者たちである、と言うのです。

 

森野善右衛門さんは、【ヨハネは、荒野で呼ばわる「声」です。その能力も、経歴も、いやその名前さえも問題ではないのです。ただ主の道を備え示すその呼び声であることによって、ヨハネは存在の意味を持つのです。キリストの証人は、ヨハネがそうであったように、荒野に呼ばわる声であります。世にある教会はすべて、約束の地を目ざして進む荒野の教会、途上にある教会であり、道なきところに道を切り開いて行く開拓教会であります。キリストの証人は、処女地にくわを入れ、荒地をたがやす開拓者です。「あなたがたの新田を耕せ」(エレミヤ4:3)と、預言者は私たちに今も呼びかけています荒野は、私たちの外にあるだけでなく、また内にもあります。キリスト者は開拓者であり、キリストの証人は、希望を持って荒野に挑む耕作者です】と言っています。

 

エスによって始まった罪人の歴史に代わって、罪赦された者の新しい人間の歴史を、この世において開拓する開拓者、荒野を変えて田畑にする耕作者、それが私たちキリスト者であると言うのです。その意味でイエスの証言者であったバプテスマのヨハネに見倣いたいと思います。「自分のようなつまらない者が」とただ卑下するだけでは、真の証しにはなりません。…ヨハネは、自分を否定することにおいて謙遜でありましたが、しかしキリストを指し示し、証しすることにおいては大胆であったのです。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝をおこなうことができ、また私たちがこの礼拝に連なることができ、ありがとうございました。
  • 今日もバプテスマのヨハネのキリスト証言をとうして、キリストを証言するエクレーシアである教会の群れが、罪と悪に支配されている私たちの中に、イエス・キリストによる神の赦しの下に、罪と悪から解放された新しい人間の歴史を担っていることを示されました。神さま、さまざまな破れの中で、人の命と生活が暴力で奪われていく現実を私たちは抱えて生きています。どうかその只中に立ち給うキリストによって、罪と悪からの解放へと私たちが導かれますように、心からお願いいたします。
  • 権力と富を動かしている人々が、あなたの光に照らされて、あなたの御心を行う人へと導いてください。
  • 今様々な苦しみの中にある方々を癒し、支えてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩   358(小羊をばほめたたえよ!)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-358.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                        

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。