なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(14)「イエスと洗礼者ヨハネ」ヨハネ3:22-30

4月23(日)復活節第3主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃美歌  208(主なる神よ、夜は去りぬ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-208.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編4編1-9節(讃美歌交読文7頁)

       (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書3章22-30節(新約168頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    175(わが心は)

 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-175.htm

⑨ 説  教  「イエスと洗礼者ヨハネ」  北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

ヨハネによる福音書によりますと、バプテスマのヨハネとイエスは、同じ時期に場所は異なりますが、人びとに洗礼を授けていたと言われています。ただヨハネによる福音書では、今日の聖書箇所の3章22節には、「イエスは、…洗礼を授けておられた」と記されていますが、4章2節を見ますと、「――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――」という註釈が記されていますので、実際には弟子たちが洗礼を授けていたのかも知れません。ただバプテスマのヨハネを中心とした洗礼集団とイエスを中心とした洗礼集団が、同じ時期に場所は異なりますが、ヨルダン川の流域で活動していたことを、ヨハネ福音書の著者がここで記しているのではないかと思います。

 

洗礼式は、バプテスマのヨハネやイエスの集団だけではなく、当時のユダヤ教ではめずらしいことではなかったと思われます。ですから、この二つの集団の活動は当時のユダヤ教の枠組みの中での活動であったと言えるでしょう

 

ヨハネによる福音書の著者は、今日の箇所で、この二つの集団とその中心人物のバプテスマのヨハネとイエスを対比して描いているのであります。22-26節では、バプテスマのヨハネのイエス証言が語られるに至る状況、場の設定がなされています。つづいて27-30節でバプテスマのヨハネのイエス証言が語られているのです。

 

22-26節の状況設定のところで、25節に、「ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった」(新共同訳)と言われています。「古代ユダヤ教においては、汚れ(穢れ)と清めの関係は根本的問題でした。(福音書でも、イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をしたことが、ファリサイ派の人から責められた物語があります)。ですから律法にこだわる人たちは、あらゆる機会にこれについてものを言っていました。しかし、このヨハネ福音書の場合は多分、話が洗礼活動についてでありますから、ほぼ『洗礼』という語を『清め』という語に言い換えているだけのことだと思われます(田川)。

 

ここでは清め(=洗礼)論争が、どんな内容のものであったのかについては、なぜか何も記されていませんので、よく分かりません。ただその論争の後、バプテスマのヨハネの弟子たちはヨハネのもとに行って、このように語ったと言うのです。<そして彼らはヨハネのもとに来て、彼に言った、「ラビ、ヨルダンの向こうであなたと一緒にいた人、あなたが証言をなさっていた人ですけれども、御覧なさい、その人が洗礼をさずけていて、みんながその人のところに来ています」>(田川訳)と。ヨハネの弟子たちのヨハネに告げるその言葉には、イエス(とその弟子団)に対する嫉妬とあせりの感情があらわれているように思われます。「御覧なさい、その人が洗礼をさずけていて、みんながその人のところに来ています」(26節)。

 

恐らくヨハネの弟子たちは、自分の師であるヨハネが、イエスの下位に立つことに我慢できなかったのでしょう。そういう弟子の報告を受けてヨハネが語った言葉が、27節から3章の最後の36節まで続きます。今日はそのヨハネの語った言葉の前半(27-30節)を扱います。27節に、<ヨハネが答えて言った、「人は天から与えられるのでなければ、何一つとして受けることはできない>と言われています。

 

この言葉は、大変重要な言葉だと思います。命はもちろん、その人の持っているものは、大きかろうが小さかろうが、強かろうが弱かろうが、すべて神から与えられたものなのです。神は、一人一人に違った賜物を与え、それぞれその与えられた賜物を生かし合って、神を愛し、隣人を愛し合うものとして、違った賜物をもった私たち人間をお創りになったのです。

 

しかし、私たち人間は、自分が神のようになろうとして、神によって与えられた賜物を私物化し、互いに競い合い、奪い合い、対立抗争のこの世を生み出してしまいました。それが、バベルの塔以降の人類の歴史です。神に代わって己が神になろうとする的を外した人間の罪の結果、命に満ち溢れた光の世界が、死と暗闇の世界に転落してしまったのです。

 

バプテスマのヨハネは、彼の弟子たちのようにイエスと自分を比べて、自分が下位などとは考えません。ヨハネにとっては、最初からイエスはイエス、自分は自分です。それぞれ神から与えられた賜物を受けて生きる人間であり、お互いに神から与えられている別の仕事を持ち、自分からではなく、神から生きる人間なのです。

 

ヨハネによる福音書の著者は、この「イエスと洗礼者ヨハネ」の記事の前に、光であるイエスの到来以前の古い闇の世界に生きる人間と、イエス到来後の光の世界に生きる人間の違いをこのように語っていました。<裁きとはこれである。すなわち、光が世に来たのだが、人間たちは光よりもむしろ闇を愛した、ということである。彼らの行為が悪かったからだ。すなわち悪質なことをなす者はみな光を憎み、光のところに来ない。自分の行為が糺されないためである。真理をなす者は光のところに来る。自分の行為が神においてなされた、ということが明らかにさるためである>(3:19-21、田川訳)。

 

バプテスマのヨハネは、光ではなく、光を指し示す証言者なのです。バプテスマのヨハネは光を人びとに指し示すことはできますが、その光を人びとに与えることはできません。光を与えることができるのはイエスだけなのです。エフェソの信徒への手紙にはこのように記されています。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子らしく歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。…」(5:8-10、新共同訳)。

 

バプテスマのヨハネは、人々に清め(洗礼)を施し、闇の中に生きる闇の子である人間に方向転換を促したのです。そして、光として到来したイエスに従って光の子として生きるように人々を導いたのです。ヨハネによる福音書の著者は、バプテスマのヨハネをそのような人物として描いています。

 

自分たちの師であるヨハネよりも、イエスの方に多くの人が集まっているのを妬んでいる弟子たちに対して、バプテスマのヨハネは、「あなた方自身、私はキリストではなく、あの方の前に派遣された者である、と私が言ったということを証言しておいでだ」(28節、田川訳)と言うのです。既にヨハネによる福音書の1章:20節、27節で、「私はキリストではなく、あの方の前に派遣された者である」と証言しているのです。

 

ここにヨハネのキリストに対する真情が吐露されています。ヨハネの使命は、キリストの到来のための先駆者、先ぶれであり、そのための道を備えることにあるというのです。

 

ヨハネの弟子たちは、師の人気が失われることを恐れて、党派的競争意識をあらわに示しました。しかし、さすがにヨハネは、自分の役割と位置をよくわきまえ、事態を正しく見る目をもっていました。この曇りない目は、名誉心や虚栄心(これらが人間お目を狂わせることがいかに多いことか!)からでなく、神からの使命をもって自分を見るところから来ていたのです。

 

「花嫁を持つ者が花婿である。花婿の友人は立って、花婿(の声)を聞き、その声の故に喜びをもって喜ぶ。それで私のその喜びは満たされたのだ」(29節、田川訳)。ヨハネは、この自分に与えられた天からの使命と役割を、花婿の友人に自分をたとえることによって弟子たちに教えようとしています。花婿とはいうまでもなくキリストを指しています。婚礼の席の主役は花婿です。花婿の友人は、花婿と花嫁とを結び合わせ、仲介の労をとり、また婚礼の席をとりしきることもあります。しかし彼はどこまでも仲介者であり、わき役であって、それ以上の者ではないのです。主役は花婿と花嫁であり、友人は、婚礼への道を備える者であり、友人の役割と光栄は、そのことにつきるのであります。舞台は決して主役だけで成り立つものではありません。力量のある演技者が自らはわき役に徹するときに、主役は引き立てられ、その舞台全体はひきしまって、まことに見栄えのするドラマが展開するのであります(森野善右衛門)。

 

ヨハネは、自分が洗礼を授け、世に紹介したイエスが、世に知られるようになり、多くの人が(自分の弟子の中からも)イエスのもとに赴くのを見て、紹介者として、花婿の友人として、自分の使命を果たしたことを感じて喜び、やがて静かに舞台から姿を消し去ろうとする。ここにキリストの証人として、キリストへの道を備える者としての洗礼者ヨハネの真骨頂が示されているのであります。

 

「その方は大きくなり、私は小さくなっていくだろう」(30節、田川訳)。ヨハネが退き、キリストであるイエスが登場する――これは、新しい時代の到来の告示です。ヨハネはこの新しい歴史の転回をいち早く感知して、キリストであるイエスにその席を譲り渡したのです。そこにバプテスマのヨハネの証言の歴史的な意味があったのです。

 

このヨハネは、後にイエスから「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」(マタイ11:11、新共同訳)と言われています。これはヨハネに対する最大の賛辞の言葉だと思われます。「女から生まれた者」とは人間のことですから、ヨハネは人間として彼より偉大な人はいないと言うのです。人工知能と言われる、この世の中の在り方を根本的に変えるかもしれない技術を開発したり、治らないと言われた癌や認知症を治すことができる治療方法を産み出したノーベル賞を与えられるような人よりも、人間としてはヨハネの方が偉大であると言うのです。イエスを証言したヨハネはそれほど偉大な人物であると言うのです。

 

このバプテスマのヨハネへの最大級の賛辞の後に、イエスは、「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼より偉大である」(マタイ11:11,新共同訳)と言っているのであります。人間が神の如くのさばっているこの人間世界では、神の独り子であるイエスを証言するバプテスマのヨハネは最大の人物だけれども、神の支配する神の子どもたちが住む天の国では、最も小さい者でも、彼(バプテスマのヨハネ)より偉大なのです。天の国には戦争はありません。貧富の格差もありません。神の正義と平和が満ち満ちていて、そこの住む神の子どもたちはみな喜びに満ちています(ローマ14:17)。

 

バプテスマのヨハネが証言したイエスは、ヨハネガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに捕らえられた後、「ガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」とマルコ福音書には記されています(1:14,15,新共同訳)。イエス神の国の到来を告げ、神の国の住民として私たちを招いているのです。バプテスマのヨハネが属していた古い時代は終わって、イエスと共に新しい時代が明け染めたのです。己を神とする人間が支配する古い時代は今なお猛威を振るっているかもしれません。しかし、イエスと共に、神を神とし、自らを神によってつくられた者として認める人間の共同体が、イエスの弟子集団として誕生し、この人間世界の中に、教会として今も存続しているのです。ただ教会も宗教集団としてこの人間世界に埋没する危険性はいつもあります。

 

バプテスマのヨハネが証言したイエスに従って、この争いと差別に満ち溢れている人間世界の只中にあって、神の国の前線基地であるイエスの弟子集団(教会)に連なる一人として歩み続けたいと願います。

 

主が聖霊を送って、私たち一人一人を支えてくださいますように!

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 今日は、イエスを指示した指の役割に徹したバプテスマのヨハネのイエス証言を通して、いろいろと思いめぐらすことができました。あなたは、己を神とする人間世界の只中に、バプテスマのヨハネを遣わし、イエスを遣わして下さることによって、私たちをあなたのもとへと導いて下さっていることを覚えます。
  • 神さま、私たちがこの現実世界の中で、イエスに従って生き抜いていくことができますように、イエスの豊かな命をお与えください。
  • この人間世界の中で傷つき、苦しみ、命と生活が脅かされている人々をあなたが支えてくださり、私たちにそのような方々を助ける力を与えて下さい。
  • 神さま、この世界が平和になりますように。軍事力に頼らない平和をつくり出す力をすべての国の人々に与えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。特に今病の中にある方々を癒し、支えてください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩     237(聞け、荒れ野から)

 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-237.htm

⑭ 献  金 

⑮ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑯ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。