なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(6)「ついて行く」ヨハネ1:35-42

2月12(日)降誕節第8主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。            (ヨハネ3:16)

③ 讃美歌   204(よろこびの日よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-204.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編103編1-13節(讃美歌交読文111頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書1章35-42節(新約164頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   432(重荷を負う者)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-432.htm

⑨ 説  教  「ついて行く」           北村慈郎牧師

  祈  祷

 

私たちは教会に属しているキリスト者ですが、その教会が最初に生まれた時は、どうだったのかについて、今日の聖書の箇所は私たちに語っています。現在教会もキリスト者も世界中に存在しますが、今日の箇所を読みますと、教会はその誕生において、たった二人の、しかも弱々しいメンバーだけの時もあったことが分かります。その二人のメンバーがイエスに召し出された時のことが、ここに語られていますが、これは貴重な記録です。森野善右衛門さんは、このイエスと弟子たちとの「選び」と「出会い」の「その始まりは、いかにささやかで小さなできごとにすぎなかったことでしょうか。それはまことに『一粒のからし種』(マルコ4:30)のように小さなものでした。しかしこの小さな出会いのできごとの意味は、決して小さいものではなかったことは、後になって明らかになります。ここから、世界の歴史を大きく変えるような働きが始められたのです。歴史を転換し、新しい歴史を創り出す働きは、このようにいつも小さな一粒のからい種から始まるのです」と言っています。イエスに従う人の群れとしての教会の誕生は、ユダヤ教に代わるキリスト教という宗教の誕生以上に、新しい歴史を創り出す働きを担う人間の群れであったことを忘れてはなりません。

 

この個所から学ぶことは、まず、二度目のバプテスマのヨハネのキリスト証言があって、この個所では二人はバプテスマのヨハネの弟子であったと言われていますが、「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」ということです。バプテスマのキリスト証言がなければ、二人はイエスについて行くこともありませんでした。しかし、バプテスマのヨハネが最初に、自分の方に来るイエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と叫んだ時には(1:29)、その後に何の結果ももたらさなかったように見えます。ヨハネの叫びに耳を傾け、尋ね、信じたという人がいたかどうかについては、何も語られていませんので、知る由もありません。その翌日、ヨハネは二人の弟子と一緒にいて、「歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と叫んだところ、二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」というのです。(1:25-37)。

 

エスは振り返り、彼らが従ってくるのを見て、『何を求めているのか』と言われた」(1:38)とあります。イエスは自分に従ってきた二人を冷たく拒絶することはありませんでした。むしろその二人を温かく迎え入れたのです。そして二人に「何を求めているのか」と尋ねました。しかも二人がイエスに話しかける前に、イエスの方から二人に語りかけているのです。そこからイエスとこの二人の対話、出会いが始まっています。

 

彼らが、『ラビーー「先生」という意味――どこに泊まっておられるのですか』と言うと、イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われました」。二人がイエスの泊まっておられるところを問いただしたのは、彼らがイエスに会って、ちょっと挨拶を交わして、すぐ帰るというのではなく、イエスとじっくりと話したかったからでしょう。そこで、「彼らはついて行き、どこにイエスが泊まっておられるのかを見ました。そしてその日は、イエスのもとに泊まった」というのです。「午後4時ごろのことである」と記されています(1:38後半―39)。その夜、彼らが何を見、何を聞き、何を語り合ったのか、そのことについては、何も語られていません。けれども、この二人がイエスとの出会いを経験したこの日は、彼ら二人にとっては生涯における最も重大で喜ばしい日になったに違いありません。この夜こそ、彼らにとってはイエスとの出会いの時であり、彼らの人生の歩みが新しい転回をなした時でした。この日から、彼らはイエスをキリストと告白して、イエスの弟子としての彼らの歩みが始まったわけです。イエスは弟子たちに「自分の十字架を負って、私に従いなさい」と言われたわけですから、この二人も自分の十字架を負ってイエスに従ったに違いありません。イエスが行かれる所は何処でも彼らはイエスに従って行きました。おそらくイエスが十字架に架けられたときには、他の弟子たちと共に彼らも「エスを知らない」と言って、イエスを裏切ったと思われますが、復活の主イエスとの出会いによって、自らの罪を悔いて、特にアンデレは十二使徒のひとりとして初代教会の形成に大きな働きをしたのではないかと思われます。

 

これらすべてのことは、バプテスマのヨハネの、「見よ、神の小羊」という証しのおかげでした。バプテスマのヨハネのキリスト証言によって、二人はイエスに従って行くことができたからです。ヨハネの証言がなければ、この二人はイエスと関わることもなかったかもしれません。もちろん、その上で、「来なさい。そうすれば分かる」というイエスの招きがあったこと、そして、そのイエスの招きに応えて、自分の目で見、心で味わい、耳で聞き、からだで確かめるという二人の応答があったことで、イエスのこの二人の出会いが起こったのです。

 

この一見単純な話が、その後の歴史の中で、どの時代どの地域におきましても、人間の心によきものとしてのイエスの福音がもたらされてゆく方法の、一つの模範であり、原型であります。実に、このような証しによって、事実それ以外の方法はないのでありますが、一人の人が主イエスに出会い、その人の心が感動を覚え、生まれながらの自己中心的な人間を神へと向かわせ、回心し、新しい人へと生まれ変わらせてきたのです。この個所のバプテスマのヨハネの弟子だった二人のように、キリスト証言には、言葉による宣教とその人の生き方によるものとがありますが、私たちはキリスト証言によってイエスと出会い、イエスに受け入れられることによって、イエスに従う人になっていくのです。

 

パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(Ⅰコリ1:18)と言っています。この個所でバプテスマのヨハネがイエスを「見よ、神の小羊」と証ししているのは、パウロの言う「十字架の言葉」であるイエス・キリストをまっすぐ見つめることによって、人は人として救われるのではないでしょうか。救われるという言い方は宗教的な言い方かもしれませんが、別の言葉で言えば、救いとは、生まれながらの罪の支配からの人間の解放と言ってよいでしょう。

 

しかし、忘れてはならないことがあります。それは、もし私たちが他者にイエスとの出会いの機会をもって欲しいと望むのであれば、イエスを指さし、イエスを証しすることにおいて、忍耐強くあり続けなければならないということです。イエスを、「世の罪を取り除く神の小羊」として、私たちの生き方と言葉によって、繰り返し、繰り返し証ししなければなりません。アンデレと彼の仲間がイエスに従って行くようになったのは、バプテスマのヨハネの最初の証しによってではなく、二度目の証しによってであったことを忘れてはなりません。

 

次に学ぶべきことは、アンデレがイエスとの出会いの喜びを自分だけに留めることが出来ずに、自分の兄弟シモンに語らざるを得なかったということです。アンデレはイエスの弟子となるやいなや、自分の発見したことを、兄弟シモンに告げているのです。「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、『わたしたちはメシアーー「油注がれた」者という意味――に出会った』と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った」(1:40-42前半)と記されている通りです。もしアンデレが、無口で、内気で、他人との交わりを好まないような気質の人間であるならば、実際にどのようになったでしょうか。彼の兄弟シモンが、ガリラヤ湖畔で漁師の生活を続け、やがて、そこで死んでいったとしても、何の不思議もありません。しかしアンデレがそのような人間でなかったことは、シモンにとっては幸いでした。イエスに出会い、イエスに受け入れられ、イエスに従うことができたことは、アンデレにとっては余りにも満たされた出来事であったので、黙っていることが出来なかったのです。シモン・ペトロの心の内に初めて光が照り輝き得たのは、アンデレの率直な証しのおかげでした。

 

そういう意味で、この個所に記されている事実は、注目に値します。最初の教会のメンバーである3人のうち、少なくともひとりは、身内の者の、個人的で穏やかなことばによって、イエスのもとに連れてこられたのです。ペテロがイエスの所に来たのは、ただ、兄弟アンデレが、「自分は、救い主に出会った」と語るのを聞いただけでした。温かい心を持った兄弟の、単純な証しは、ペテロをこの世の生活から引き出し、キリストに結び付けた鎖の役割を担ったのです。

 

ジョン・C・ライルはこのように言っています。「もし、アンデレのように回心したすべての者が、自分の友人や身内の者たちに自分がイエスのとの出会いによって体験したことを証しするならば、多くの魂にとってどんなに有益なことでしょう。そしてどんなによい結果を生むことでしょう。現在(イエスを知らない)まま生き、やがて死んでゆく者たちのうち、どれだけの人が、イエスに導かれることでしょう。・・・(福音書の物語ではイエスによって)悪魔の力から解放された者はみな、自分の家族や友人のところに帰り、神が自分のために、どんなに大きなことをしてくださったかを、知らせなければならない(参照マルコ5:19)(と記されています)。・・・もし私たちが、主イエスについて彼らに語るべきことばを持っていないのであれば、私たちは自分の救いに関して、主イエスを本当に知っているのかを疑ってみてもよいのではないだろうか。私たちは、真にキリストに従い、彼といっしょにとどまる人々の中に自分が入っているかどうか注意しようではないか。・・・私たちは、実際にキリストに従って行き、キリストの前に自分の心を注ぎ出し、キリストと個人的交わりをしっかりと保っていなければならない。その時初めて私たちは、他の人々にキリストを語らずにはいられない自分を発見するであろう。耳で聞いてキリストを知っているだけの人は、この地上におけるキリストのみわざ拡張のために、たいしたことはできないであろう」。

 

私たちはキリスト者として、平和をつくり出す者として生きようとしていると思います。そのために私自身も辺野古新基地反対の行動を、ささやかながら続けています。けれども、身近な家族や友人をはじめ他者である隣人に、イエスに従って生きる者の喜びを証言しているかというと、そのことにはむしろ禁欲的です。或いはライルの言うように、私たちはとイエスとの関係は、耳から聞いているだけのもので、心からイエスを受け入れていないのかも知れません。確かに人々がイエスに出会って、イエスとの交わりを生きるようになれば、平和をつくり出す者へと変えられるに違いありません。ですから、単なる教会の教勢拡張ということではなく、「この地上におけるキリストのみわざ拡張」というように考えれば、私たちのキリスト証言の大切さを思わざるを得ません。その意味で、平和をつくり出す行動と共に、他者である隣人との関係において、その言葉と生き方による私たち一人一人のキリスト証言が繰り返し、繰り返し、求められているのではないでしょうか。

 

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝をおこなうことができ、また私たちがこの礼拝に連なることができ、ありがとうございました。
  • 今日は、他者のキリスト証言によって、私たちがイエスを知り、イエスとの交わりを経験し、イエスに従う者になることができるということ、改めて考えさせられました。何の幸いか、私たちはイエスに従うキリスト者として、今生きることが許されています。その喜びを、アンデレのように身近な他者にも伝えていくことができますように。私たちの与えられた命を、神のものとして回復してくださったイエスの御業が、私たちの証言によって少しでも多くの人に広がっていくことができますように。そのことによってキリストの王国が地上の権力者の支配に代わって、この世に広がっていきますように、私たちに力を与えてください。
  • 差別と貧困を生み出している権力と富を動かしている人々とそれに追随する人々が、私たちもそのような人間の一人かも知れませんが、あなたの光に照らされて、あなたの御心を行う人へと導びかれますように。
  • 戦争をはじめ、様々な暴力による他者の支配が、私たちの中からなくなりますように。
  • そのために今苦しみの中にある方々を癒し、支えてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩   509(光の子となるため)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-509.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。