(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま
しょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 (ヨハネ3:16)
③ 讃美歌 205(今日は光が)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-205.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編46編1-12節(讃美歌交読文51頁)
(当該箇所を黙読する)
⑥ 聖 書 ヨハネによる福音書1章43-51節(新約165頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 227(主の真理は)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-227.htm
⑨ 説 教 「来て、見なさい」 北村慈郎牧師
祈 祷
今日のヨハネによる福音書の箇所も、イエスの弟子の召命記事と言ってよいでしょう。43節の最初に「その翌日」と言われていますが、これは、ロゴス讃歌(1:1-18)に続いて、歴史に現われた、受肉したロゴスであるイエスの活動が始まって、「四日目」に当たります。バプテスマのヨハネの活動(一日目)、バプテスマのヨハネとイエスの出会い(二日目)、ヨハネのキリスト証言によって、ヨハネの弟子であったアンデレともう一人の無名の人がイエスと出会い、イエスの弟子となります。そしてアンデレのキリスト証言によって兄弟ペトロがイエスに出会い、イエスの弟子になります(三日目)。そして今日のフィリポとナタナエルがイエスと出会い、イエスの弟子になる記事が、四日目の出来事として記されているのであります。
前回(1:35-42)と今日の所には無名の一人を加えて、アンデレ、ペトロ、フィリポ、ナタナエルの5人が、イエスに出会い、イエスの招きを受けて弟子となる、弟子の召命について記されています。一人一人違っていて、バラエティーに富んでいます。前回の3人の内アンデレともう一人はバプテスマのヨハネの証しが契機になってイエスと出会っています。ペトロの場合は、アンデレを介してイエスに出会ったことになっています。3人ともイエスとの出会いは間接的です。ところが今日のフィリポの場合は、イエスの方からフィリポに近づいているのです。そしてイエスが直接フィリポを招いています。43節を田川さんの訳によりますと、こうなっています。<翌日ガリラヤへと出て行こうと欲した。そしてフィリポスを見つける。そして彼にイエスが言う、「私についておいでなさい」>。「欲した」とか「見つける」という言い方には、イエスからの積極的な行動が言い表されています。そして、フィリポと会話を交わす前に、フィリポにイエスは「私についておいでなさい」と言われたというのです。イエスはフィリポに有無を言わせずに「私に従え」と言っているに等しいのです。イエスによる絶対的な召命と言ってよいかもしれません。
それに対して、ナタナエルの場合は、全く違います。ナタナエルの場合は、前回の3人と同じように、イエスとはフィリポを仲立ちにして出会っています。フィリポのようにイエスとの直接的な出会いではありません。45節、46節に二人の出会いが記されています。ここも田川訳で読んでみます。<フィリポスはナタナエルを見つけて、言う、「モーセや預言者たちが律法の中で書いている人を我々は見つけた。ナザレ出身のヨセフの子イエスだ」。そして彼にナタナエルが言った、「ナザレから何か良いものが出ることがあろうか」。彼にフィリポスが言った、「来て、見なさい」>。
ナタナエルにしたフィリポのキリスト証言は、バプテスマのヨハネの「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)やただの「神の小羊」(1:36)とは違います。一つは、「モーセや預言者たちが律法の中で書いている人」です。つまり旧約聖書が預言しているメシア(キリスト)ということです。そして二つ目は、「ナザレ出身のヨセフの子イエスだ」です。このフィリポのキリスト証言には誤りがあります。旧約聖書が預言しているメシアはベツレヘムで生まれることになっていましたので、ナザレ出身のヨセフの子イエスがメシアというのはおかしいのです。ですから、ナタナエルはフィリポに、「ナザレの出で、何か善いものがありうる〔という〕のか」(田川訳)と言っているのです。フィリポは、それに対して余計な説明をせずに、<来て、見なさい>とだけ言いました。フィリポは大変賢かったと思います。人をイエスに導くのは、その人に直接イエスと出会ってもらうことに限るからです。
ナタナエルはイエスの所にやってきました。するとイエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、<見よ、生粋、本物のイスラエル人>(田川訳)と言ったというのです。ナタナエルはイエスに、「どこから私のことをお知りになったのですか」と言います。するとイエスが答えて彼に言いました。「フィリポスがあなたのことを呼ぶ前に、私はあなたがいちじくの木の陰にいるのを見た」と。そこでナタナエルは、<ラビ、あなたは神の子、イスラエルの王です」と言いました。イエスのことを「神の子、イスラエルの王」と言っているのですから、これは、イエスをメシアとするナタナエルのキリスト証言と言えます。「神の子」はヨハネによる福音書のキリスト証言を表わす尊称としては、中心的なものと言われますが、「イスラエルの王」は、この個所と受難の時のエルサレム入城における群衆の叫びの中にあるだけです(12:13)。田川さんは、この「イスラエルの王」は、ユダヤ教民族主義的メシア待望を示すもので、ナタナエルが「神の子」と「イスラエルの王」を重ねて考えているようでは、どうもしょうがないねぇ、というのがこの著者の批判的な冷たい紹介の仕方である、と言っています。
確かにナタナエルが「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言った時、イエスは答えて彼に「あなたがいちじくの木の下にいるのを見たと私が言ったから、それで信じるのか」と言っています。しかし、このイエスの答えは、ナタナエルのキリスト証言を否定しいるわけではないと思われます。それを受け入れた上で、イエスはナタナエルに「これらのことよりもっと大きいことをいろいろあなたは見るであろう」と言って、「そして…「アーメン、アーメン、汝らに告ぐ、汝らは天が開け、神の天使たちが人の子の上へと昇ったり下ったりするのを見るであろう」と、イエスは言っているのです。このところも田川さんは、「人の子」はメシア的尊称ではなく、ただ「一人の人(人の子)である私の上を天使たちが天から降りてきて舞うだろう」と言っているだけだと言います。しかし、「人の子」は、ダニエル書7:13では「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることはない」と言われています。ヨハネによる福音書のこの個所でも、ダニエル書のこのメシア的「『人の子』の上に、神の天使たちが昇り降りするのを、あなたがたは見るであろう」と言われているとも考えられます。つまり、「諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることはない」人の子の上に、「神の天使たちが昇ったり下ったりするのを見るであろう」というようにも、ここは読むことができると思います。もしそうだとすると、このところは、人の子によるメシア的王国の成就、実現として読むこともできるのであります。
私は、ヨハネによる福音書1章29-51節の弟子の召命の記事には、二つの要素が記されていると思います。一つは、一人として同じではない、多様性を持ったイエスと弟子の出会いと、イエスによるその弟子の招きによって、イエスの下に集められた弟子集団の存在です。それは教会と考えてもよいと思います。もう一つは、イエスのメシア性の強調です。「世の罪を取り除く神の小羊」(29節)、「神の子」(34節)、「神の小羊」(36節)、「メシア」(41節)、「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方」(45節)、「神の子」(49節)、「イスラエルの王」(49節)、「人の子」(51節)という尊称が、それを示しています。
ということは、メシアであり、言(ロゴス)の受肉したイエスの下に弟子たちが集められ、イスラエルに代わって、イエスを王とする新しい神の民の誕生を、この弟子の召命の記事を通して、ヨハネ福音書の著者は語ろうとしているのではないかと考えられるのです。
ローマの信徒への手紙(以下ローマ書)を説教で扱ったときに、ローマ書9章から11章のユダヤ人問題について学びました。最初救いはユダヤ人に向けられますが、ユダヤ人の不従順によって、救いは異邦人に与えられ、異邦人の救いはユダヤ人を悔い改めに導き、ユダヤ人も異邦人もすべての者が救われる。それが神の計画だと、パウロは語っているのです。
弟子の召命は、そのようなすべての人を救う神の計画の出発点なのではないでしょうか。とするならば、アブラハムの選びから始まった神の民イスラエルに代わって、イエスの下に集まった弟子集団は、イエスが宣べ伝えた神の国(神の支配)の住民と言えるのではないでしょうか。イエスは、神と富という二人の主人に仕えることはできないと言いました。その意味で、神の国の住民としての弟子たち=教会は、富が支配するこの世では、ある意味で異邦人(寄留者であり旅人)として生きることになります。
けれども、歴史的にはローマ帝国によるキリスト教の国教化以来、教会は二王国説に立ち神と富の主人に仕えてきたのではないでしょうか。ですから、日本基督教団のかつての戦争協力も、日本基督教団と言う教会が神と富の両方に仕えたことを意味すると思われます。
イエスは、神と富の二人の主人に仕えてはならないと言います。イエスをメシア(油注がれた王)=救い主として、そのイエスに従うこのヨハネによる福音書の5人の弟子たちは、イエスの王国の民となってこの世を生きていく神の民なのです。
ジョン・ベイリー『朝の祈り・夜の祈り』には、一か月の朝と夜の祈りが記されています。その15日の朝の祈りは、イエスの王国の民となってこの世の生きる神の民である弟子たちの祈りと言えます。少し長くなりますが、その祈りを紹介してこの説教を終えたいと思います。
【神よ、あなたは時と所にかぎられることなく、永遠より永遠にいます方です。すべての時、あらゆる所はあなたのものだからです。いまわたしは、あなたの子としてうける自分のさだめを知りたいと存じます。わたしは限りない自然の中に、弱く死ぬべきものとして立っています。けれども、あなたはわたしをご自身に似せておつくりになり、あなたのいのちの息を吹きいれてくださったことをおぼえて讃美いたします。このまずしい肉体の中にも、あなたはみ霊に似たたましいを与えてくださいました。この朽ちるものの中にあなたは朽ちないものを植えつけ、死ぬべきものの中に不死のいのちを根づかせてくださいました。ですから、わたしはこの小さなへやから、このわずかの時にも、時間と空間をこえて、つくり主にいますあなたへと心を高くあげ、み顔の輝きがわたしの生活を照すまで祈り求めることができるのです。
わたしの死ぬべき肉体は、不死の魂に仕える僕にすぎないことをおぼえさせてください。わたしの肉にある生活がいかに不安定なものであるかをおぼえさせてください。この世が永遠の都ではなく、ただ寄留の地であり、こころみと修練のときにすぎないことをおぼえさせてください。この世を用いて、しかも濫用しないように、この世にあって、しかもこの世に属するものとならないように、何一つ持たなくても、すべてのものを持つもののようにしてください。わたしの世界の中心に、わたしではなくあなたを置くことができますように。
全能の神よ。あなたは主イエス・キリストを死人のうちよりよみがえらせて永遠にあなたの右におかせてくださいました。世々にわたって聖徒の魂を力づけ、照しみちびいたこの不死の望みを感謝いたします。あなたは同じイエス・キリスト、われらの主によってこの望みを確実に保証してくださいました】。
祈ります。
- 神さま、今日も会堂での礼拝をおこなうことができ、また私たちがこの礼拝に連なることができ、ありがとうございました。
- 今日は、イエスのメシア証言と弟子の召命の記事から、弟子の召命は、あなたの御国にイエスを通して私たちすべてを導くあなたの計画の始まりであることを想い起させてもらいました。神さま、私たちもあなたの計画に加えられた者たちであることを覚えさせてください。富を主とするこの世において、富の横暴によってあなたから命を与えられた、苦しむ多くの人々が、その命と生活を奪われています。
- イエスを通してこの世に到来したあなたの御国では、弱さを抱えている人こそが大切な住民です。あなたの御国では、人々は喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ、イエスの仲間です。
- どうか私たちがイエスの仲間として、この世を生きていくことができますように、お導きください。
- シリヤとトルコで起きた大きな地震によって、沢山の人の命が奪われ、生活の基盤を失って苦しむ人々が多く出ています。ウクライナでのロシアの軍事侵攻によってウクライナの人々も命と生活が脅かされて、1年が経とうとしています。
- 神さま、速やかに地震による被災者の方々に支援の手がいきわたりますように。戦争が終結し、ウクライナの人々に平和が与えられますように。
- その他様々な苦しみの中にある方々を癒し、支えてください。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン。
⑩ 287(ナザレの村里)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-287.htm
⑪ 献 金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌 栄 28(各自歌う)
讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。