(注)讃美歌はインターネットで平井さんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕 え、喜び歌って御前に進み出よ。」(詩編100:1-2)
③ 讃 美 歌 17(聖なる主の美しさと)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-017.htm ④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編8編2-10節 (讃美歌交読詩編10頁)
(当該箇所を黙読する)
⑥ 聖 書 マタイによる福音書22章41-48節(新約44頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 431(喜ばしい声ひびかせ)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-431.htm
説教 「イエスから問う」 北村慈郎牧師
祈祷
今日のマタイ福音書の記事の前のところには、サドカイ派の人たちやファリサイ派の人たちとイエスとの間で行われた論争が記されていました。サドカイ派の人たちも、ファリサイ派の人たちも、イエスのことを苦々しく思っていて、チャンスがあれば捕まえようと虎視眈々と狙っていたのです。そこでイエスに質問をして、その答えの言葉じりをとらえて捕まえる口実を見つけようとしたのです。しかし、その試みはすべて失敗に終わりました。イエスの答えは、むしろ質問者を驚嘆させるものでした。
今日のマタイ福音書のところは、イエスの方が質問しているとことです。質問する人とその質問に答える人がこれまでとは逆転しています。イエスがファリサイ派の人々に質問したその内容は、「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」(42節)です。
このイエスの質問は、その内容からして生前のイエスがした質問とは思えません。その意味で、この論争には歴史的信憑性はありません。マタイ福音書の著者マタイは、初期教会がイエスを主ないしは神の子とする信仰に基づいて作った「ダビデの子論争」という伝承を使って、イエスとファリサイ派の人々との論争をここで描いているのです。41節と46節のこの物語の枠組みは、マタイの編集で、マルコやルカの並行記事にはありません。
イエス自身はメシアであるという自覚を持っていたかもしれません。けれども、イエスは「自分が何者であるかという問題には全く頓着せず、自分の特別な身分や資格を根拠にすることなく、自由に活動し」ました。
マタイ福音書21章23節~27節の「権威についての問答」で、イエスが神殿の境内に入って教えておられたとき、祭司長や長老たちがイエスに近寄って来て、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と尋ねました。すると、≪イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」≫。このことは、イエスが何かの権威を後ろ盾にして活動したのではないことを明確に示しています。
ですから、今日の「ダビデの子についての問答」におけるイエスは、初期教会の信仰による「主であり神の子である」イエスとしてマタイ福音書の記者が描いているものと考えられます。
「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」(42節)
「メシア」というのは「キリスト」のことです。ユダヤ人の言葉であるヘブライ語で「メシア」、新約聖書の言葉であるギリシャ語では「キリスト」です。ですからヘブライ語旧約聖書では「メシア」と言い、新約聖書はギリシャ語で書かれていますから「キリスト」と言います。きょうの聖書も「キリスト」となっています。メシアもキリストも「油を注がれた人」という意味でした。油を注ぐというのは、油を頭から注ぐということです。この油を注ぐというのは、大祭司や王が選ばれた時に、その人の頭に油を注いだのです。油を注ぐというのは「神から選ばれた人」という意味がありました。その人が神から選ばれて、神の霊を受けて、特別な役割を与えられるしるしなのです。
そのように神が選んで神の霊を注いだ人というのがメシア、キリストのもともとの意味でした。それが、やがてユダヤ人の間で、メシアは特別な救世主として信じられるようになりました。なぜそのような特別の意味になったかと言えば、ユダヤ人の苦難の歴史の中で、ユダヤ人自身が聖書(旧約聖書)に記されたメシアが現れて、自分たちを苦難から解放してくれると信じるようになったからです。
イエスの問いに対して、ファリサイ派の人々は、メシア(キリスト)とは「ダビデの子」であると答えました。ダビデの子孫からメシア、つまり新しい王が誕生するというのです。ダビデ王というのは、この時から約千年前のイスラエルの王です。その時にイスラエルの国は栄えました。今はローマ帝国という外国の支配を受けていますが、やがてダビデの子孫から新しい王(メシア)が生まれて、王国を再建してくれる。それが旧約聖書の約束であると、ユダヤ人は信じていました。
マタイも、この「ダビデの子」という救済者を示す呼び方を、イエス自身に当てはめてこれまで使ってきました。マタイ福音書の巻頭の系図とその表題がすでにそうです。1章1節には≪アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図≫とあります。イエスによって病気を癒された人もしばしばイエスを「ダビデの子」と呼んで、≪わたしを憐れんでください≫とイエスに迫っています(9:27,12:23など)。
マタイは、「今日の個所でも≪ダビデの子≫を全面的に否定しいるわけではありません。イエスは確かに由緒正しいダビデの家系から生まれ≪ダビデの子≫と迎えられるたびに人々を救ったのです。しかしこの呼び方は、イスラエル(ユダヤ人)につかわされたイエスの歴史的なあり方を指すには適当であるとしても、むしろイエスはそれ以上に、イスラエルを越えてすべての人の≪主」あるいは≪神の子≫と呼ばれるべきであると、マタイはここで言っているのです。これまでもマタイ福音書において弟子たちやイエスに癒された人たちはすでにイエスをそう呼んでいました。
44節のイエスの言葉は、旧約聖書の詩編110編からの引用です。詩編110編は新約聖書の中で最も多く引用されている旧約聖書の個所の一つです。キリストの神性、高挙、勝利を表現するために、これは最も都合のよい個所だったからです。詩編はダビデ王が昔詠んだ詩と考えられていました。≪主は、わたしの主にお告げになった≫の、最初の「主」は神を指しています。次の≪わたしの主≫の「主」は、メシア(キリスト)を指しています。つまり、神である主が、キリスト(メシア)である「わたしの主」におっしゃったと、ダビデが言っているというのです。そこから、48節の≪このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか≫と言われているのです。
マタイは、イエスの受難を直前にひかえ、この議論を最後に≪ダビデの子≫とイエスを呼ぶことを打ち切っているのです。≪これにはだれ一人、一言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者もなかった≫(46節)と。
先ほど言いましたように、イエス自身はメシアであるという自覚を持っていたかもしれませんが、「自分が何者であるかという問題には全く頓着せず、自分の特別な身分や資格を根拠にすることなく、自由に活動し」ました。
もちろん、イエスは「アッバ、父よ」と繰り返し祈りながら、その生涯を全うされたのですから、神への絶対的な信頼を持っていたことは間違いありません。神への絶対的な信頼をもってナザレのイエスというひとり人として、私たちと全く同じただの人として生きられたのだと思います。
そのようなイエスの振る舞いからしますと、後の教会の中で、イエスは何者かということで、「ダビデの子」だとか、「キリスト」、「主」、「神の子」などというように、イエスの神性を表わす呼び方で呼んだことが、果たしてイエスご自身は喜ばれるのだろうかと思わざるを得ません。
イエスはキリストです。イエスは神の子です。イエスは主です。このようにイエスを告白することが、キリスト者に求められています。そもそもこのキリスト告白、主告白をとおして、私たちはキリスト者になったわけです。キリスト者とはキリストの属する者のことです。教会はイエスの兄弟姉妹団です。イエスの仲間たちの群れです。
その意味では、イエスの生前の活動において、イエスの周りに集まった人々の中で生まれた交わり(コイノーニア)が教会です。そのコイノーニアでは、病気の人や悪霊に憑かれた人が癒され、貧しい人や苦しんでいる人が、その貧しさや苦しみから解放されるのです。イエスの仲間としての私たちの中でもそのことが起こっていなければ、おかしいのではないでしょうか。
イエスを主と告白し、キリストと告白して、それで満足してしまう誘惑が、この告白にはあるのではないでしょうか。教会では、この告白は大切にしますが、告白の内実といったらよいのでしょうが、生前のイエスの周りで起こった癒しや解放の出来事が伴わないということが、実際にあるのではないでしょうか。
これは告白のもつ否定的な面ではないかと思われます。告白することで満足してしまう誘惑です。告白には服従が伴わなければなりませんが、その服従をないがしろにしてしまうのです。
以前岩井健作さんが、教団の戦責告白に、同じ問題があると指摘していました。告白という形で文章化されることによって、それで満足して実践が軽んじられるのではないかということです。戦責告白の本来の意味は、日本基督教団の教会に属する者が、戦時下の教団の戦争協力を反省し、アジアの人々と教会に謝罪し、同じ過ちを繰り返さないために平和な関係を不断に築いていくことです。けれども戦責告白を出して、それで免罪されたように思ってしますものが、告白にはあるのではないかと言うのです。確かに告白という形式には、そういう面があるように思います。
私たちは、信仰告白を大切にすると共に、イエスへの服従を軽んじないように気をつけたいと思います。福音書に記されていまイエスの活動のように、この世で小さく、弱く、貧しくされている人々が、病や社会的な偏見、抑圧差別から解放されていくように、今この時代と日本の社会の中で、教会を場にこのイエスの出来事を追体験していきたいと思います。そのことは同時にイエスの苦難を背負うことになりますが、「神には不可能なことはない」という神への信頼を与えられて、その自分の十字架を背負っていくことができますように。
今日もまた、主にある導きを信じて、それぞれ新しい一週の歩みへと踏み出していきたいと思います。
祈ります。
- 神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。
- 神さま、私たちは、イエスをキリスト、主として告白して、教会の交わりの一端を担う者としてあなたに招ねかれた者です。そのことを心から感謝します。けれども、私たちは、時にはそのことに満足して、イエスと共に生きる服従者としての己をあいまいにしてしまう誘惑に弱い者です。そのことによってイエスの福音を歪めてしまっているのではないかと危惧します。
- どうか私たちに、社会的に弱い立場の人々が切り捨てらえていくこの時代と日本の社会の中で、そのような人々を友とするイエスの自由と解放を生きる信仰と勇気と希望を与えてください。
- 今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
- 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン
⑩ 讃 美 歌 356(インマヌエルの主イエスこそ)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-356.htm
⑪ 献 金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌 栄 28(各自歌う)
讃美歌21 28(み栄えあれや) https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。