なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(118)

4月11日(日)復活節第2主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットで平井さんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    205(今日は光が)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-205.htm
④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編16編5-11節(讃美歌交読詩編16頁)

       (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書28章11-20節(新約60頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  327(すべての民よ、よろこべ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-327.htm

説教     「派遣」  北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 教会は、イエスの復活の後、使徒言行録によれば聖霊が弟子達の上に降って誕生したと言われています。教会とは、イエスを信じる者たちの集まりです。そのよう信徒の集まりは、最初、生前イエスに従った弟子達たちがメンバーだったと思われます。弟子達の中には女弟子もいたでしょう。しかし、彼ら・彼女らは皆ユダヤ人だったと思われます。

 

  • 最初の頃の教会は、ユダヤ教の一分派だったと考えられます。ナザレのイエスによってはじまったのでナザレ派と呼ばれていたようです。けれども段々と、ユダヤ教からキリスト教として教会は独立していきます。その頃には、信徒の群れである教会には、ユダヤ人だけではなく、ギリシャ・ローマ世界のユダヤ人以外の民族に属する人々も加わっていきました。

 

  • そして時が経つに従って、むしろそういうユダヤ人以外の人々が教会の中心メンバーになっていきました。ヨハネによる福音書の教会は、ユダヤ教の会堂から追放されていたと言われます。イエスの復活の後誕生した最初期の教会は、ユダヤ人の信徒の群れでしたが、徐々にユダヤ人以外の人たちも加わって行き、ヨハネによる福音書が書かれた一世紀末以後は、ほとんどユダヤ人以外の人たちが信徒の教会になっていったようです。

 

  • マタイによる福音書は、ユダヤ人が主な信徒だった教会によって書かれた福音書ですが、今日のマタイによる福音書の結びのところでは、ユダヤ人以外の異邦世界の人々に教会が移っていったことが示されています。

 

  • 先程司会者に読んでいただいマタイによる福音書の28章11節から15節のところには、ユダヤの祭司長たちや長老達が、ローマの兵士を買収して、イエスの弟子達が墓からイエスの遺体を盗んだと言わせたと記されています。そして「この話は今日に至るまで、ユダヤ人の間に広まっている」〔15節〕と言われています。

 

  • この福音書の筆者自身もユダヤ人であったと思われますが、ここで「ユダヤ人」と呼ばれている相手は、キリスト信仰を拒否する敵対者という響きを持っています。そこには、同族としての親密なつながりは感じられません。キリスト教の信徒の群れに対立する者としてのユダヤ人像が、ここには露(あらあわ)になっています。

 

  • この福音書が成立した当時、信徒の群れはすでにユダヤ教から離脱し、ユダヤ教とは別個の集団として、歩み始めていました。つまりそれは、キリスト信仰の故に、ユダヤキリスト者は、同族から追われ、祖国を喪失したということでもありました。そしてこのような「ユダヤ人」という語法は、マタイ福音書ではここだけにしか出て来ませんが、ヨハネ福音書では『ユダヤ人』は一貫してイエスに対立する人々を意味する言葉となっています。つまりこの言葉は、マタイの教会からヨハネ福音書の世界への移行の段階を示しているのであります。

 

  • ところで、このように同族から追い出されたキリスト信徒の群れは、おのずから異邦世界に赴かざるをえなかったのですが、それは単なる逃避行ではなく、福音をたずさえ、福音にうながされての前進であったことを、16節から20節の、いわゆる『宣教命令』の記事が語っているのであります。

 

  • 元教団議長で私に教師退任勧告を出した山北宣久さんのモットーは「それ行け伝道」です。このモットーにおける伝道の意味は、受洗者を多く出して教会が信徒を獲得することです。実際に山北さんは聖ヶ丘教会の牧師時代に多くの受洗者を出して、聖ヶ丘教会は信徒数の多い教会になりました。しかし、この「それ行け伝道」は、ヨーロッパのキリスト教が世界宣教の中で、アフリカ、アジア、南米において土着の文化や宗教を否定し、改宗を通して受洗者を生み出した働きと変わりません。教会の勢力は大きくなりますが、それによってイエス・キリストの福音がその地に根付いたとは言い難いものでした。ヨーロッパのキリスト教の世界宣教が先兵となって、ヨーロッパ列強の植民地支配に繋がったからです。植民地支配は他者に仕える行為とは言えません。むしろ他者を支配し、差別抑圧し、経済的な支配をもくろむ行為です。そのような行為は福音的とは言えないからです。

 

  • 1960年代頃から教団は宣教基礎理論や教会の体質改善論によって、信徒を獲得する伝道から「世に仕える教会」を標榜するようになり、その結実の一つとして、1967年に戦争責任告白が生まれました。1941年の教団の成立から教団は国家に寄り添い戦争協力に走るわけですが、そのような教会の在り方が問われ、国家のイデオロギーではなく、きちっと国家に対峙できる教会の姿勢が求められました。その頃から教団では「伝道」に代わって「宣教」という言葉が使われるようになりました。船越教会も50年史を読みますと、赤城先生の時代から社会に開かれ、世に仕える教会をめざして宣教活動を続けて、現在に至っていると言えるでしょう。

 

  • しかし山北さんは1967年の戦争責任告白以後の40年の教団の歴史を「荒野の40年」と言って、否定的にとらえました。この間教団は社会との関わりの問題が中心になって、伝道がおろそかになったため、教団は教勢が伸び悩んでいるのだというわけです。ですから「それ行け伝道」というのです。

 

  • この山北さんのような考え方をする人たちによって、このマタイによる福音書の「宣教命令」がよく引かれます。18節後半以後のイエスの言葉です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(18b-20節)。

 

  • ルツは、このマタイによる福音書の「宣教命令」が、教会の宣教において問題になっていた「教会の支配とキリスト教的な帝国主義的権力」に全然関与しなかったというわけではないとしながらも、「私見によれば、そのテクストは、繰り返し出現する宣教の濫用を妨げるのにふさわしい潜在(的)な意味をも含んでいる」と言っています。

 

  • つまり、このマタイの箇所は、ヨーロッパのキリスト教の世界宣教と関係し、アフリカ、アジア、南米に教会の支配と植民地支配を生み出したキリスト教的な帝国主義的権力に無関係とは言えない。けれども、このマタイの箇所は、繰り返し現れるそのような教会の宣教の濫用をふせぐ意味を潜在的に持っていると言うのです。そして二つの点を上げています。

 

  • ひとつは、「世界の主たるイエスに基礎づけを持つ宣教は、世界の主が彼の弟子たちに与えた力の手段以外のそれを持ってはいない。それは、人々の間で常に行為の証明を通してのみ光り輝く(5:16参照)言葉の力である」と言って、マタイ福音書5章16節を参照するように指示しています。マタイ5章16節はこのような言葉です。<そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行ないを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである>。

 

  • エスが弟子たち(教会)に求めた宣教がこのようなものであるとすれば、教会のなす宣教が植民地支配と結びつくことはあり得えません。

 

  • ルツは、復活のイエスが弟子たちに命じたのは、「人々の間で常に行為の証明を通してのみ光り輝く(5:16参照)言葉の力」を語り伝えることだと言うのです。そしてルツは、復活のイエスが弟子たちに与えた力の手段は、「支配者ではなくて、すべての者たちの召し使いであった者(20:28)の力である」と言って、ここでもマタイ福音書20章28節を参照するように指示しています。25節から読んでみます。

 

  • <そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように>(マタイ20:25-28)。

 

  • 二つ目は、「実践を目標になされるイエスの命令の告知と理解された宣教は、それ自体もその基準を、マタイによればあらゆる命令の中で最も大きな命令であり、イエスが彼の教会に守るように委託した、愛に持っている」と言っています。イエスが弟子たちに命じた宣教の基準は、神の愛にあるとマタイは考えていると、ルツは言うのです。

 

  • パウロはガラテヤの信徒への手紙の「割礼」が問題になっているところで、<キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です>と語っています。

 

  • とするならば、<イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる>(マタイ28:18-20)という、いわゆる大宣教命令は、イエスと同様に、人々の罪を赦し、イエスの弟子となるように招き、人々にイエスによってもたらされた新しい創造を、共に生きるように促すものだと言えるでしょう。

 

  • ボンフェッファーはこのように語っています。「この人を見よ。この復活した人を見よ。人間に対する神の「然り」は、裁きと死を通り越して、復活にまで達した。人間に対する神の愛は、死よりも強いのである。神の奇跡によって、新しい人間、新しい生命、新しい被造物が造られた。『生命が勝利を得た。生命が死に打ち勝った』。神の愛が、『死』に死をもたらし、人間の生命となった。十字架につけられ、よみがえったイエス・キリストにおいて、人類は新しくなったのである。キリストに起こったことは、すべての人間の上に起こったことである。なぜなら、キリストは人間そのものなのであるから‥‥。今や、新しい人間が、創造されたのである」。

 

  • 復活したイエスによる弟子たちへの宣教命令は、このイエスの復活によってもたらされた新しくなった人類の一員として、「新しい人間、新しい生命、新しい被造物」として、「あなたがたは生きよ」という招き、促し、命令ではないでしょうか。

 

  • 神と私たち人間とは、私たちの罪によって断絶しているのではない。その罪を背負って十字架にかかり、死んで葬られ、死から復活したイエスによって和解が実現しているのだ。あなたがたは罪を投げ捨て、その和解と平和を生きよ。

 

  • 人と人との間も、復活のイエスによって罪による断絶から和解が成立しているのだから、憎しみと敵対と殺し合いを止めて、互いに他者を大切にし合って共に生きる豊かな和解と平和の関係を生きよ。

 

  • <わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる>。

 

  • そのように、この復活のイエスによる弟子たちへの「宣教命令」は、私たちに一人一人に語っているのではないでしょうか。「人間に対する神の愛は、死よりも強い」。その神の愛による新しい人間として、あなたも生きよと。

 

祈ります。

  • 神さま、今日もこの会堂で共に礼拝することができ、感謝いたします。
  • 神さま、あなたはイエスの十字架と復活によって、私たちを全く新しい人間に造り変えてくださったことを、今日の聖書の個所から改めて知らされました。そのことを、あなたは私たちに聖霊を送ってくださり、日々新たに気づかせ、新しい人間として私たちを生きるように命の力を与えてくださっています。こころから感謝いたします。
  • けれども、私たちは日常の生活に埋没し、この世のしがらみに縛られ、自分の力に頼って生きてしまい、<わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる>という復活のイエスの言葉もうつろに聞き流してしまいがちな者です。
  • どうか日々新たにあなたの言葉に耳を傾け、あなたの命の力を受けて、一日一生を大切に生きることができますように、私たち一人一人をお導きください。
  • 神さま、再びコロナウイルス感染が各地で拡がっています。このウイルスは私たち人間が自ら作り出したものかもしれませんが、何とかこれを乗り越えていく道が与えられますように。ワクチンもすべての国の人々に公平に与えられますように。このウイルスによって亡くなった方々を覚えてください。また今苦しんでいる人々を支えてください。
  • ミャンマーの軍による支配の犠牲になっている人々を支えてください。ミャンマーが民主的な社会になりますように。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     402(いともとうとき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-402.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。