なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

創世記1章から11章による説教(3)

 

4月18日(日)復活節第3主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    206(七日の旅路)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-206.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編116編1-14節(讃美歌交読詩編128頁)

       (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  創世記2章7節(旧約3頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  382(力に満ちたる)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-382.htm

 

説教     「アダムとイブ~人間の創造②~」  北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 3月28日の日曜日の礼拝説教で、創世記1章の方の創造物語から、神による人間の創造についてお話ししました。そこでは主に二つの点、神の「被造物」としての人間と、「神のかたち」(神の似姿)としての人間について考えました。そこで、「聖書でいっている被造ということの意味は、人間が先ず自分を尺度としてすべてを律することをやめて、神中心に生き、自分は一切を神に負うものにすぎないことを率直に認めることであろう。このことがわかることは、人間にとっては、その生活と思想の根本的方向転換を意味する」(秋田稔)こと。地上における人間の支配権が神のかたちという語であらわされていることは、人間の地上支配が、実は神の支配の代理あるいは代行であることを意味しているとみてよいであろう。人間の尊厳は、神の尊厳にもとづき、それを表わすものである。人間は、神のよびかけにこたえて神の尊厳、神の栄光を表わすべく責任づけられ、使命を与えられたのである」こと、を学びました。

 

  • 今日は創世記2章の方の創造物語から、ヤㇵウィスト(2章の創造物語では神名が、1章の方の神名エロヒームと違って、ヤハウエになっていることから、2章の方の創造物語の作者をヤㇵウィストと言う)の神による人間の創造について学びたいと思います。

 

  • ヤㇵウィストの物語によりますと、人間は神によって「土(アダマ)の塵」からつくられ(2:7)ました。そして、3章19節で≪お前は顔に汗を流してパンを得る。/土に返るときまで。/お前がそこから取られた土に。/塵にすぎないお前は塵に返る≫と言われていまように、やがて土(塵)に帰るべく定められているのです。この定めより人間は自由ではありません。

 

  • 神が自分にかたどって創造した人間(創世記1:27)である私たちは、土から取られた人間なのです。人間は、陶芸家がひとかたまりの土で人間の形をつくるように、ひとかたまりの土でできているのです。土との結びつきは、私たち人間の生まれながら持っている性質の一部なのです。

 

  • 「大地は人間の母」であり、その胎から人間は生まれました。ですから、人間の肉体は地に由来しています。この土という肉体において私たちが存在しているということは、人間の生まれながら持っている性質であって、人間の牢獄、覆い、外形ではありません。人間の肉体は、人間自身なのです。

 

  • ありのままに存在する人間の尊厳は、まさに人間が母なる大地と結びついており、「肉体」として存在しているところにあります。人間は、地上に実際に存在する者として、存在します。上から来ていながら残酷な運命によって地上の世界に閉じ込められ、奴隷とされているのではありません。

 

  • 私たち人間は、その中に眠っていた、死んでいた地から、創造者である神の言葉によって呼び出されたのです。肉体における私たちは、それ自体地の一部であるにすぎませんが、それは神によって人間存在へと呼び出された「地」なのであります。

(以上はほぼボンフェッファーによる)。

  • 交通事故によって人が急死してしまったり、さまざまな災害によって人の命を奪われたりしたときなどに、「人間って、はかないものですね」と思うかも知れませんが、それは、人間が土からできた肉体で存在しているからです。もろいのです。しかし、そこにも人間の尊厳があるのです。

 

 

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  • このミケランジェロの天井画について、ボンフェッファーはこのように語っています。「創造されたばかりのまどろむアダムは、彼が横たわる地面にしっかりと、密接に結びついているので、なお夢の状態にありながらも、まことに不思議な、驚くべき存在
  • となっている。まだ一塊の土くれにすぎないのだが、まさに創造され、祝福されたばかりの地に完全に依存しており、その中でこそ、この最初の人間の栄光のすべてが明らかにされているのである。この地上でのまどろみの中で、その深い創造の眠りの中で、人間は神の指との肉体的な接触を通して、生命を体験する。神の指が――すなわち人間を創造したのと同じ神の指が、今や遠くからやさしく人間に触れ、生命へと目覚めさせるのである。神の手はもはや人間を抱きかかえようとはしない。むしろ神の手は人間を自由にする。そしてその手の持っていた創造の力は、創造者である神の人間に対する愛となり、人間を追い求めるのである」と。

 

  • 聖書によれば、私たち人間はそういう存在なのですね。

 

  • ご存じのように、今沖縄では、辺野古新基地建設を進める政府の意を受けた防衛省が、埋め立て土砂の採取地に本島南部の糸満市八重瀬町などを追加したことで、反対運動が起こっています。その南部は先の大戦で犠牲になった戦没者の遺骨が今も残るとされる場所です。そのために、今後の埋め立てで遺骨まじりの土砂が使われる可能性があるということで、今も遺骨収集を続けているクループを中心に反対運動が起きているのです。

 

  • 今お話ししましたように、聖書によれば、人間は土の塵から造られました。ですから土である大地と人間は一つです。近代以降人間は、自然としての大地を対象化して開発を続けていますが、その開発という行為は、人間が自分と一体である大地を痛めつけていることでもあります。そういう意味では、自然の開発による経済成長は、私たちが自分の身を傷つけながらしているものだと言えるでしょう。

 

  • この「私が中心、主人なのだから、私が何をしようと勝手だ」という、自己中心主義の恐ろしさは、身近なところでも大切な他者である隣人を傷つけますし、広く考えれば、集団としての人間として、第一次世界大戦第二次世界大戦を引き起こし、さまざまな戦争を引き起こしたわけです。そのことを、私たちは、身に染みて感じているにも拘らず、繰り返し戦争を引き起こしているのです。

 

  • ≪わたしはなんという惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか≫(ローマ7:24)とパウロは叫んでいますが、このパウロの叫びは、私たち人間すべての叫びではないでしょうか。

 

  • 次に、土から造られた人間の≪その鼻に(主なる神は)命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった≫(創世記2:7後半)と記されています。

 

  • 神は、私たち人間の体に、「命の息」である神の霊を吹き込んだと言うのです。この神の霊は、私たちに「いざ、生きめやも」と注がれる命のことです。この神の霊こそが私たち人間を生きたものとするのです。

 

  • 創世記の創造物語では、動物にしても、鳥や魚にしても、人間以外の生き物の場合には、神は神の言葉で創造しました。≪神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上に、天の大空の面(おもて)を飛べ」(創世記1:20)。≪神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれ産み出せ」(同1:24)。と言われているように、です。

 

  • ところが、私たち人間の場合には、神は自分の「いのち」を、すなわち自分の霊を与えたと言うのです。私たち人間は、この神の霊なしには人間として生きることができないのだと言うのです。

 

  • ですから聖書においては、私たちが人間として生きるということは、肉体として神の霊を受けて生きるということ意味します。このことは、ただ人間についてだけ言えることです。他の生き物は神の霊を受けていません。

 

  • ボンフェッファーは、「肉体からの逃避は、神の霊からの逃避と同じように、人間存在からの逃避である」と言っています。「すなわち人間の肉体は神の霊を受けてこそこの地上で生きたものとなるのであるが、同様に、神の霊は肉体に吹き入れられてこそ初めて人間という存在になるのである」と言うのです。

 

  • そして、「これらのことはすべて、ただ人間についてだけ言い得ることである。なぜなら、聖書で人間についてだけ肉体と霊との両方が語られているからである。人間の肉体は、それがこの地に属するものであるという点では、他のあらゆる生き物と変わらない。ただ、神の霊が吹き入れられた存在であるという点においてだけ、人間以外のあらゆる「肉体」から区別されるのである」。

 

  • 「人間の肉体はまことに神の霊によって生きる。これが人間の本性である。神は肉体において――、特別な存在の仕方をする人間の肉体において――、神の栄光を現わす」と、ボンフェッファーは言っているのです。

 

  • 一塊の土からつくられ、神の命の息である聖霊を受けて、生きる者となった人間は、本来互いに相手を大切にし、愛し合うことによって、神の栄光である神の愛を、神に代わって現わすものとして、神によって創造されたと言うのです。

 

  • しかし、そういう土の器ではありますが、神の霊である命が注がれた肉体において、人間は今も現実に生きているでしょうか。残念ながらそのような神が創造したままの肉体は、アダムの堕罪によって破壊されてしまったのではないでしょうか。

 

  • 3章以降の創世記11章までの人間の原初の物語は、蛇の誘惑によるアダムとイブの堕罪、カインとアベルの兄弟殺し、ノアの洪水、バベルの塔の物語において、神の被造物としての人間が破壊されてしまったことを物語っているのです。

 

  • ボンフェッファーは、このように続けて語っています。「それゆえ、被造物において神が創造したままの肉体が破壊されてしまった後に、神はイエス・キリストにおいて再び肉体の中に入って行った。そしてこのイエス・キリストという肉体がまた引き裂かれた時に、神は今度は聖礼典において『からだ』と『血』というかたちの中に入って行く。聖餐式のからだと血とは、堕落した人間アダムのために新しい約束をもたらし、新しい現実を創造する。アダムは肉体として創造されたのであるが、彼は肉体として、イエス・キリストと聖礼典とによって救われることになるのである」と。

 

  • 聖餐式を、ボンフェッファーは神による新しい人間の創造としてとらえているのです。

 

  • そして、「このように創造された人間こそが、神のかたちを取った人間である。人間は肉体を取るにもかかわらず神のかたちであるとうことではなく、肉体を取るからこそ神のかたちである。なぜなら、肉体を取ることによって人間は地と関係を持ち、また肉体を持つ他の生き物とも関係を持つことになるからである。すなわち肉体を取ることによって、人間は「他」のために存在することとなり、「他」に依存して存在することとなるからである。肉体を取ることによって、人間は自分の兄弟と地とを発見する。土と霊よりなる人間は、このような被造物として、彼の被造者である神に「似」ている」と言うのです。

 

  • 創世記2章7節の≪主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を入れられた。人はこうして生きる者となった≫という聖書の言葉から、ボンフェッファーがこのように鋭く、豊かに語っていることを、皆さんと一緒に共有したいと思い、今日の説教は、ほとんどボンフェッファーからの引用になってしまいましたが、お許しいただきたいと思います。

 

祈ります。

  • 神さま、今日もこの会堂で共に礼拝することができ、感謝いたします。
  • 今日は、創世記2章7節の神による人間創造のテキストから読み取ったボンフェッファーの言葉を紹介させてもらいました。私たち人間が、神の霊を受けて一塊の土で作られた肉体において存在することの意味を教えられました。そのことを再確認し、肉体にある命のはかなさを嘆くことなく、また、高ぶることなく、この与えられた肉体をもって、神によって創造されて人間としてふさわしく生きていくことができますように。何よりもその人間としての道を、イエスが私たちに先立ち歩まれていることを覚え、そのイエスの後に従って生きることができますように、私たち一人一人をお導きください。
  • 日米首脳会談が行われましたが、日本が軍備増強と軍備による安全保障の道にさらに強く進もうとしています。どうか為政者たちに、日本の犯した戦争の過ちと、その反省によってつくられた憲法第9条の「戦争放棄」の条項の意義を深く知らしめてください。軍事力による戦争ではなく、外交による話し合いの中から平和の道をつくり出していく知恵と力を与えてください。
  • 今も軍隊と戦争によって苦しんでいる人々を支え、その重荷から解き放ってください。私たちを平和をつくり出す一人一人にしてください。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

⑩ 讃 美 歌     487(イェス、イェス)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-487.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。