なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

創世記1章から11章による説教(6)

5月9日(日)復活節第6主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から解き放つ神」。 

    (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    432(重荷を負う者)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-432.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編95編1-11節(讃美歌交読詩編105頁)

       (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   創世記4章1-16節(旧約5頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  361(この世はみな)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-361.htm

説教      「カインとアベル」     北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 最初の人間アダムとエバは、創世記3章で蛇の誘惑に負けて、神の命令を破って食べてはならない「善悪を知る木」から果実を食べてしまいました。「神のように」なろうとしたのです。二人は、その行為を神から問われると、二人とも責任転嫁の言い訳をしてしまいます。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(3:12)。「蛇がだましたので、食べてしまいました」(3:13)。

 

  • 自分がしたことで自分の責任が問われると、私たちもなかなか素直に謝ることができないものです。何かを理由にして責任逃れをしたり、他の誰かに責任を転嫁したりすることがあります。ですから、アダムとエバの責任転嫁は、私たちの歪んだ人間の現実を見事に明らかにしているように思われます。

 

  • 過ちを犯した二人は、エデンの園から追放されてしまいます。創世記3章22節以下にこのように言われています。≪主なる神は言われた。人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた≫(22-24節)。

 

  • この地上における人間の歴史はこのようにして始まったと言うのです。エデンの園にアダムとエバが永遠に住むことができたとすれば、この地上における人間の歴史はなかったに違いありません。楽園追放によってこの地上における人間の歴史が始まったのです。

 

  • 創世記1章から11章の原初史は、この地上の歴史を生きる私たち人間にとって、根本的な問題と課題は何なのか、そのことについて記しているのです。その意味で、この原初史は、歴史を生きる私たち人間に対する問題提起の書と言えます。私たち人間は、具体的には民族の一員としてこの地上の歴史を生きています。そういう意味では、創世記12章からのアブラハム物語から具体的な人間の歴史が始まります。聖書ではアブラハム物語の前にある創世記1章から11章は、歴史的人間の前史というかたちにおいて、人間の原初史を神話的に描くことによって、人間の問題と課題は何かという問題提起をしているのです。

 

  • 過ちを犯して楽園を追放されたアダムとエバに、≪主なる神は、アダムと女に衣を作って着せられた≫(2:21)と言われています。神は、二人をエデンの園から追放しますが、二人を見捨てるのではなく、なお二人を大切にし、守り、その関係を断ち切りません。

 

  • アダムとエバは、神の命令を破って、その責任を問われた時に、素直に謝れずに、他に責任を転嫁して自分の正当性を主張しました。二人は犯した過ちを認めて、謝罪して、罪赦された者として神の前に生きようとしたのでも、またお互い同士の関係をやり直そうとしたわけでもありません。罪を抱えたまままエデンの園から追放され、放浪者としてこの地上での歩みを始めたのです。

 

  • 今日の創世記4章では、そのようなアダムとエバに兄カインと弟アベルという二人の男の子が与えられ、その二人の兄弟の物語になっています。4章1節には、≪さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った≫と記されています。

 

  • この4章1節についてボンフェッファーはこのように語っています。<この節は必然的にこれまでの部分(3章のアダムとエバの物語)に属する。死に堕落したアダムとエバは、彼らの新しい交わりを、新しい仕方で始めた。彼らは、新しい生命の誇らしげな創造者となったのである。ところがこの新しい生命は、人間と人間との情欲の交わりによって、すなわち死の交わりによって創造された者であった>と。この死は、お互いに責任転嫁をしたままの関係としての死ですね。

 

  • 私たち人間が生きる世界としてのこの地球(宇宙)という神の被造物であるこの自然を、神に代わって治める(仕える)こと、神の被造物としてのお互いを、助け手として愛し合って共に生きることによって、人間の創造者である神の愛を神の被造物(者)である私たち人間が表現すること。それが、聖書の人間創造における神の目的です。エデンの園に住まわせられたアダムとエバは、善悪を知る木からだけはその果実を食べてはならないという神の命令を破って、自分が神のようにすべての中心になることを選び取ってしまいます。その結果、二人は、本来愛し合うべきお互い同士で責任転嫁し、憎しみと敵対関係に陥ってしまいます。それが関係としての死です。

 

  • アダムとエバから生まれたカインとアベルは、どうなったのでしょうか。≪アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持ってきた。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持ってきた。主はアベルの献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた≫(4:2-5)と言われています。「土の実り」である農作物と「羊の肥えた初子」という牧畜による生産物の違いはありますが、カインもアベルも神への献げ物をします。その点では二人の行為には何の違いもありません。それなのに、神はアベルの献げ物に目を留められ、カインの献げ物には目を留められなかったというのです。なぜ神はそうしたのかという説明はこの物語の中には全くありません。神がアベルの献げ物に目を留められ、カインの献げ物には目を留められなかった背景には、農耕民族と牧羊民族の葛藤があって、イスラエルの出自は牧羊民族だからだという見方もあります。そういう背景があるとしても、自分の献げ物には全く目を留められずに、弟のアベルの献げ物には目を留められたという神のなさったことに、不条理を感じ納得できなかったカインの怒りは、私たちにもよくわかるのではないでしょうか。

 

  • 怒りは本来怒りを感じた相手にぶつけるのが筋です。カインは神に怒りを感じたわけですから、その怒りを神にぶつけるのが筋でした。それを筋違いの弟にカインは怒りをぶつけたのです。≪主はカインに言われた。「どうして怒るのか。そうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せしており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」≫(4:6,7)。

 

  • カインはその怒りを神にではなく弟のアベルにぶつけます。≪カインが弟アベルに言葉をかけ、二人は野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した≫(4:8)というのです。これは明らかにその献げ物が神の目に留められたアベルに対するカインの妬みから来る殺人です。アダムとエバの場合は、神の命令を破って神に責められた時に、ごめんなさいと言えずに、責任転嫁に走り、神との関係にしろ、お互い同士の関係にしろ、その関係の死をもたらしたことにあります。その<「関係の死」の問題が、ついにエスカレートして兄弟殺しになで至ってしまったのです>。そのように兄弟殺しをしたカインに、それでも神は声をかけます。≪主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」≫(4:9前半)と。

 

  • <神は、深刻な殺人の罪を犯したカインに対して、なおも関係の回復という救済を行おうとしています。何よりも、カインに向かって「あなたの弟アベルは何処にいるのか」と呼びかけるのです。もちろん神はすべてを知っています。しかし、なおカインに向き合い、この問いかけをしているわけです。これは、カインが自らの過ちを認め、率直に神に前に裸になって、神にまっすぐ向き合うことを期待した、ということでしょう。「関係の死」を経験した者を救済しようとする神の意志が現れています。神とは、そのような存在であるという、著者の神理解が表現されているのです>(高柳富夫『いま、聖書をよむ』より)。

 

  • ≪カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」≫(4:9後半)と。
  • <カインは率直に神に向き合うことはしません。間違いを告白してゆるしを請うこ     とをしないのです。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」。これがカインの答えでした。神は、カインが神という的にきちんと焦点を合わせてくることを期待したのですが、カインはそのような神の期待に応える道を歩まなかったのです。神はカインを追放するという裁きを実行します。しかし、それでもなお神は、カインとの関係を断絶することはしないのです。アダムとエバの場合と共通することですが、カインに一つのしるしをつけたと言われています>(同上)。

 

  • ≪わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」。/主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう」。主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。/カインは主の前を去って、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ≫(4:13-16)。

 

  • <カインは、さすがに良心の呵責に耐えかねて、自分は地をさすらう者となるけれども、自分に出会うものは必ず自分を殺すだろうと、不安と恐れに襲われます。これは心理学的に言っても大きな問題です。人間というものは、自分自身が他者を傷つける存在であるため、他者もまた自分を傷つけるに違いないと他者を恐れて、自己防御に走るのです。軍備拡大競争の根柢には、この人間の根源的な恐れがあるのだと思います。自分が相手に対して信頼をおくことはないので、相手も自分に対して信頼を持つことはないに違いない、と恐れるのです>(同上)。

 

  • さて、ボンフェッファーは、カインによって始まる死の歴史の終わりについて、このように語っています。<カインによって始まる死の歴史は、そしてそもそも歴史そのものは、十字架上のキリスト、殺された神の子によって終わりを迎える。キリストを十字架にかけることは、楽園の門に対する最後の必死な襲撃の試みであった。そして、人類は、楽園の「まわる炎のつるぎ」に打ちたたかれて、十字架のもとで死滅することになった。しかし、キリストは生きるのである。そして十字架の柱が「生命の木」となり、世界の中央に、すなわち十字架の木の置かれた場所に、「生命の泉」がわき上がるのである。いのちに渇く者はすべてこの泉のもとに招かれ、この生命の木の実を食べた者は二度と飢え渇くことがなくなるのである。ゴルゴダの丘、この十字架、この血、この裂かれた肉は、何と驚くべき「楽園」であることか。神自身が、苦しみ死ななければならなかったこの柱は、何と驚くべき「生命の木」であることか。これこそ神によって恵みのうちに再び与えられた生命の国、復活の国である>。

 

  • 今私たちが生きているこの世界は、カインの末裔が生きる堕落しているにもかかわらず、なお神によって保持されている世界です。しかし、私たちが生きているこの世界はただ神によって保持されているだけではありません。神はイエスをこの世に遣わし、この世界に生きる私たちに、新しい命に至る道を切り拓いて下さっているのです。この私たちが生きる世界には、イエス・キリストによってその世界の中央には「生命の木」である十字架の柱が立っていて、その場所から生命の泉がわき上がっているのです。その生命の泉から命の水を飲む者は飢え渇くことがありません。私たちはそのことを信じることによって、新しい人として、神と向かい合って生き、他者である隣人とも、殺し合いではなく、愛し合って生きることができるのです。カインとアベルの物語からそのことを思い起こしたいと思います。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。新型コロナウイリス感染再拡大のために、また教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。
  • 今日はカインとアベルの兄弟殺しの物語から、私たち人間の罪の現実の行きつく果てが殺し合いであることを、改めて知らされました。この世界の現実を思うと、私たちはその殺し合いから未だ解放されていないことを知らされます。けれども、あなたは私たちに殺し合いではなく、あなたとの関係においても、他者である隣人との関係においても、信頼し合い、生かし合うことのできる、イエスの十字架という生命の木をこの世界の中央に立ててくださっていることを覚え、感謝します。どうか私たち一人一人をその生命の木から生きる者としてください。私たちだけではなく、すべての人がこの生命の木から生きることができますように。
  • 神さま、今私たちの殺し合いに帰結する罪の故に苦しんでいる人々を助けてください。
  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     298(ああ主は誰がため)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-298.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。