なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(336)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(336)復刻版を掲載します。2006年3月のものです。

 下記の通信には、その頃始めたばかりのこのブログの内容が紹介されています。前週の黙想と祈りの夕

べがお休みか何かで、このような通信の内容になったのかも知れません。

 今日は新年最初の農伝での説教演習がありました。時間が余りましたので、子ブルームハルトの説教を

紹介しました。井上良雄先生が訳した『子ブルームハルトの生涯と使信』に収められているブルームハル

トの説教です。「悲惨な人びとと共にいますイエス」(テキスト:ローマ10:10「実に、人は心で信

じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」)という題の説教です。その中の一節を紹介しま

す。

 「・・・イエスは社会における本当の人間である。しかし、そのようなイエスが『生きる』ということ

は、何と困難なことだろうか。誰が、彼を信じるだろうか。誰が、そのような義を望むだろうか。誰が、

罪びとたちの方へ身を向けようとするだろうか。と言うのは、単に『イエスを信ぜよ』と言われているの

ではなくて、『罪人たちを信ぜよ。破滅した者たちを信ぜよ。悲惨な者たちを信ぜよ。殺された者たちを

信ぜよ。もう生きていない者たちを信ぜよ』と言われているのだから。それは、そういう者たちがイエス

だからだ。」


         黙想と祈りの夕べ通信(336[-23]2006・3.5発行)復刻版


 旧約聖書の創世記というところにカインとアベルという兄弟の物語がある。ちょっとその物語を想い起

こしてみよう。カインとアベルは最初の人間アダムとエバの子どもである。カインが兄でアベルが弟であ

る。カインは土を耕す者、つまり農夫であった。アベルは羊を飼う者、つまり牧夫であった。カインは土

の実りを神さまの供え物とした。アベルは羊の群れの中から肥えた初子をもってきた。神さまはアベル

供え物には目を留められたが、カインのものには目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せ

たと言う。

 この世の中には不条理で不公平としか言いようのない現実がある。たとえば、健康で頭がよく家族にも

恵まれ、財産も十分あるという人がいる。一方何故自分にだけこんなに不幸が重なるのかと嘆いている人

もいる。震災で家族も失い、家も焼け、一人ぼっちになってしまっただけではなく、自分も癌になり、苦

しまなければならないというようにである。

 もし不幸な人が幸福な人をねたみ、意地悪をしたとしよう。たとえば幸福な人に一人息子がいたとす

る。不幸な人はその幸福な人の一人息子を誘拐、殺害してしまったとしよう。それは、兄カインが弟アベ

ルを、野原にさそい出し、アバルを襲って殺したというのと、ほとんど変わらないのではないか。

 カインの過ちは何か?これは、すごく大切な問題である。カインの供え物ではなく、アベルの供え物を

目に留められたのは神である。とすれば、カインは、神に問うべきである。なぜか?と。カインは自分が

納得できるまで神に問うべきだった。しかし、カインはそうせず、自分の怒りを弟アバルに向け、アベル

を殺してしまった。

 自分の怒り、憤りをぶつける対象を間違えると、とんでもないことが起こる。カインとアベルの物語

は、そのことを私たちに警告しているとも言えるのではないか。

                                 (3月4日のブログ日記より)


 トリノ冬季オリンピックで、フィギアの荒川静香さんが金に輝き、日本にとっては唯一のメダルという

こともあって、大いに騒がれている。テレビのインタビューでの荒川静香さんの受け答えを聞いている

と、この人の資質が垣間見られ、優勝できたことも納得できるように思われる。

インタビューの荒川静香さんは、随分さめた人のように感じられた。冷静であるということは、ある意味

で自分の心身とそれをみるもう一人の自分を持っているということだ。それは、今ある自分の心身を分析

し、どういう状態かを判断し、こうしたらいいのではないかという自分の在り様を変えて行こうとする意

志を持てるということでもある。だが、そのことが返って自分の中に迷いを引き込み、分裂をかかえるこ

とにもなる。そうすると、スポーツのようなある意味で動物的な能力が求められる世界では、なかなか力

を発揮することはできない。荒川静香さんが、フィギアの実力を小さい時から認められながらも、なかな

か十分にその実力を発揮できなかったのも、そういう自己分裂を抱えていて、競技の時にもそれが出てい

たからではないだろうか。ところが、今回荒川静香さんが優勝できたのは、体調も良好で、楽しくすべる

ことに徹し、余計なこと(メダルをねらうとか)を考えなかったことにあったように思える。インタビュ

ーを聞いていてそう感じた。

 このことは、キリスト教信仰では、神へのゆだね だと思う。イエスの山上の説教といわれる言葉集の

中に、「思いわずらうな」という教えがある。その中で、空の鳥や野の花に、我々人間が学ぶことが勧め

られている。神に自分をゆだねて、神と一つになれば、必要なものはすべて与えられると言うのである。

心身一体というか。それは、愛されている両親や大人に守られている自由奔放な幼子の姿かも知れない。

我々は、神信仰において、この幼子性を与えられているのではないか。

                             (2月28日のブログ日記より)


 ヤフー・ブログ「なんちゃって牧師の日記」に私は、大体毎日こんなその日の所感を書いている。興味

ある方はご覧になってみてください。