なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(1)

 私はこのブログでいくつか連載をしています。「船越通信」、「マルコ福音書による説教」、「父北村雨垂とその作品」の三つです。今回もう一つ連載を加えることにしました。それは、1999年10月から2010年9月末まで11年間紅葉坂教会時代に続けました「黙想と祈りの夕べ」通信をこのブログに再録することにします。私にとってこの「黙想と祈りの夕べ」は、信仰の大変重要な養いの場でした。参加者は少人数でしたが、今でもキリスト者には必要な場ではないかと思っています。このブログを通して、数名でも「黙想と祈りの」時を共有する仲間が生まれたら、私としては大変嬉しいことです。通信にはいろいろな人の発言が私の手によって要約したものが、私の発言要旨と共に載っています。他の人の発言は原則的には載せません。私の発言だけにします。しかし、どうしてもこの発言要旨は載せたいと思いましたら、載せるようにしたいと思います。特にいろいろな人と共有したい事柄につての発言要旨を載せたいと思っています。
 では、皆さんも黙想と祈りの時を、毎週週の半ば頃にとることができますように。
 
黙想と祈りの夕べ通信(1)  (通信№0 1999926発行)
 
 いよいよ「黙想と祈りの夕べ」が、来週の日曜日午後7時から始まります。現在一週間前になりますが、まだ最終的にどういう形にしていくのか、私の中では確定していませんが、少し私が考えていることを書いてみたいと思います。
 まず最初に黙祷に続いて「招き」があります。参加者が「黙想と祈りの夕べ」に神さまによって招かれて、そこに集められたことをもって始めます。その「招き」の言葉を何にしようか。毎回同じ言葉にしたらよいのか。第一日曜日から第五日曜日に、それぞれ違った「招き」の言葉にしたらよいのか。あるいは司式者と会衆の応答形式にしたらよいのか、考えています。
 「招き」に続いて、「沈黙」の時を入れたいと思います。ここでの「沈黙」の時は、神に招かれて「黙想と祈りの夕べ」に参加した者が、神の前に自分を省みるためのものです。「さんげ」の時と言ってもいいでしょう。日常の時間を生活している私たちが、その日常の時間から神との対話の時間という特別な時間へ移行するために、この「沈黙」の時を通して自分を神に開く準備をするのです。
 続いて小さな「讃美」を入れ、「みことば」に耳を傾けたいと思います。この「みことば」では、聖書朗読、あるいは聖書朗読とその聖書箇所に基づいた小説教、または『日毎の糧』からの引用抜粋などによって、神の言葉ないしは説き明かされた神の言葉が語られます。それに続く「沈黙(黙想)」は、今聞いた「みことば」を思いめぐらす時です。私はキリスト教的な黙想は、みことばの思いめぐらしが中心ではないかと思っています。
 以上が「黙想と祈りの夕べ」の第一部になります。この第一部では、この世に散らされ参加者一人一人が個別に集まってきて、そのような一人一人が神との対話に導かれて行く時です。自分の重荷や悩み、喜びや感謝を素直に神に投げかけ、神のみことばを聞き、そのみことばを思いめぐらし、静かに黙想します。
 第二部は、それに続いて、「讃美」から「分かち合い」で始まります。「分かち合い」では、参加者の体験、祈って欲しいこと、みんなに共有してもらいたいことなどを出し合います。直接その場で発言してもらうか、カ-ドに書いてもらうか、どちらかにしたいと思っています。
 次に「執り成しの祈り」の時を持ちます。カ-ドに書いてもらった祈りがあれば、それを読み上げ、共に祈ります。あるいは参加者の自由祈祷の時になるかも知れません。この「執り成しの祈り」の時に、讃美歌21-85「サント・サント・サント」を歌いたいと思います。「分かち合い」「執り成しの祈り」の時を通して、参加者がイエスを通してひとつの命の交わりに加えられて行きます。個別に集まってきた者たちが、「共に在る」自分を発見し、「われら」の一員とされてゆくのです。そして「われら」の祈りである「主の祈り」に導かれます。
 このような祈りの時が「黙想と祈りの夕べ」の第二部になります。そして最後の「祝福と派遣のことば」があり、「黙想と祈りの夕べ」が終わります。
 
 「黙想と祈りの夕べ」の後に、希望者によって「交わりの時」を持ちます。コ-ヒ-と紅茶くらい用意しておきます。その時、個人的な面談を希望する方は、私に言ってください。また、聖書やキリスト教について質問したい方は出して下さい。ただお茶を飲みながらおしゃべりするだけでも結構です。
                        (牧師 北村慈郎)