なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(15)「救いと滅び」ヨハネ3:31-36

4月30(日)復活節第4主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃美歌  224(われらの神、くすしき主よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-224.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編78編30-39節(讃美歌交読文86頁)

   (A⇒司会者、B⇒会衆)(当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書3章31-36節(新約168頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   262(聞け、天使の歌)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-262.htm

⑨ 説  教  「救いと滅び」        北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

今日は、「救いと滅び」という説教題をつけさせてもらいました。今日の聖書箇所であるヨハネによる福音書3章31節から36節を読んでいて、36節から「救いと滅び」という説教題をつけました。36節を田川訳で読んでみます。

 

「御子を信じる者は永遠の生命を持つ。御子を信ぜずにいる者は生命を見ることがな

い。神の怒りがその者の上にとどまる」。

 

「永遠の生命を持つ」ということは、私たち人間が神の命に生かされているということで、そのことが、私たちが救われているということです。「生命をみることがなく、神の怒りの下にある」ということは、私たち人間が、神の命から外れて生きていて、そのことが、私たち人間が滅びの中にあるということだからです。

 

とすると、この36節によれば、人間が救われるか滅びるかは、イエスを信じるか、信じないかによって決まるということになります。私たちが、永遠の生命を持って生きることができるか、生命をみることができないばかりか、死と滅びに至る道を歩むしかないのかは、イエスを信じるか、信じないかにかかっているということになります。

 

もちろん、信じるということは、ただ信じるということではなく、信じて従うということです。信は信従を意味します。本田哲郎さんは、この36節をこのように訳しています。

 

「子に信頼してあゆみを起こす人は、永遠のいのちを得ているのである。しかし、子に信頼をおかない人は、いのちを目の当たりにすることができない。そればかりか、神の怒りがその人にすえおかれる」。

 

創世記の人間創造の物語を読みますと、神に背いたアダムとイブから、その子どもで

ある兄カインと弟アベルとの間で、カインがアベルを殺すという兄弟殺しが起きてし

まいます。そしてカインの末裔バベルの塔を建設し、神はノアとその家族以外の全て

の人を洪水によって滅ぼします。神に背いて、罪を犯し、命を失った人類は死と滅びに

至らざるを得なかったというのです。ヨハネによる福音書は、イエスを信じない人もカインの末裔と同じ運命を背負わねばならないと語っているのです。

 

36節は、イエスが、それほどに、私たちが救われるか滅びるかを決定づける存在であるということを語っているのです。そういう存在はイエスだけなのか? という問いはあります。仏陀マホメットのような人もイエスと同じなのではないかという問いです。その問いは、今日は問いとしてそのままにさせてください。少なくとも聖書、ヨハネによる福音書はイエスをそのような存在として記しているということです。

 

エスがどうして人間の救いと滅びに決定的な存在であるのかということが、31節―35節に記されています。

 

先ず31節に、「上から来る者は万物の上にある。地からの者は地からなのであり、地から語る。天から来る者は〔万物の上にある〕」(田川訳)とあります。ここには、「上から(天から)来る者」と「地からの者」が対照的に記されています。もしヨハネによる福音書3章31節以下も、3章27―30節同様、バプテスマのヨハネによる「イエス証言」であるとすれば、ヨハネは、イエスを「上から(天から)来る者」とし、自らを含めて私たち人間は「地からの者」と言っているのだと思われます。

 

シュラッターはこのように述べています。「神からの源泉によって、イエスはすべての者の上に高められる。イエスの上に立つことは、せめてイエスと並んで立とうとすることであっても、それは偽りであり、傲慢であって、神と争うことにほかならない。洗礼者は、たとい上からの使命をもち、輝きと力を上からいただいているとしても、それにもかかわらず自分とイエスとの完全な相違を見る。なぜなら、彼は自分自身を地に属するとみなし、それに反して、地とは異なった、天的神の栄光の中にイエスを崇めているからである。イエスは神から出て、人間と同じ姿にはいられた。それゆえ、イエスは、すべてのものの上にいます主であり、洗礼者は喜んで、その下の位置につくのである」と。

 

34節、35節によれば、「上から(天から)来た者」であるイエスは、「神がつかわした方」で、「神のことを話す。神が霊をふんだんに与えているからである」。また、「神は子を大切にし、すべてを子の手に委ねた」、そのような神の独り子こそ、イエスなのです。

 

このように神と一体であるイエスは、「上から(天から)来た者」なのです。神の御心を体現した人間、それがイエスと言ってよいでしょう。人間であることにおいては、バプテスマのヨハネや私たちと同じアダムの末裔でありながら、アダムのように罪は犯さないだけでなく、神の霊をふんだんに与えられていて、神のことを話すことができるのです。

 

32節、33節にはこのように記されています。本田訳で読んでみますと、「その方は、見たこと、聞いたことを証ししているのに、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れるなら、人は、神が真実な方であると、納得する」。

 

そのイエスと比べれば、バプテスマのヨハネもまた、「地からの者」に過ぎません。バプテスマのヨハネは、イエスの先駆者であり、イエスの証言者でありますから、その限りでは、彼の言葉は「地」のことではなく、「天」のことを語っていると言えるかも知れません。しかし、イエスと比べたら、天と地の違いがあるのです。

 

彼がイエスと「比較して」そう言っていることは明らかです。(律法)学者やファリサイ派の人の教えと比較するなら、ヨハネの教えは地の属するものではなく、天に属するものであるかも知れません。しかし天から来た方(イエス)の教えと比較する時、地に属するものなのです。<ろうそくは暗黒と比較するなら光であるが、同じろうそくを太陽と比較するなら、みじめな薄暗い光にすぎないように、です>(ライル)。

 

「地からの者は地からなのであり、地から語る」(31節、田川訳)。この言葉で、バプテスマのヨハネは、このように述べようとしていると思われます。<「わたしと同じすべての者は、人間にすぎず、単なるちりと土であり、地のちりによって造られた人間から生まれた者であり、地に属する者である。われわれは生まれつきの弱く、取るに足りない者であることは、われわれのすべての行動を支配している。われわれは生まれつき地に属しているので、われわれのわざも地に属するものであり、われわれの語ることも、説教も地に属するものである」。つまり、生まれつきアダムの子孫である者は、その働きに人間くささがつきまとうのである>(ライル)。人間くささとは、私たち人間の自己中心性といってよいでしょう。

 

エスは、自分が来たのは「仕えられるためにではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるため」だと言っています(マルコ)10:45)。人から仕えられることを願う、一番上になりたいと願う自己中心的な人間同士に、争いや憎しみは尽きません。互いに仕え合う人間同士に平和が生まれるのです。

 

先日スーダンの内戦が激化し、スーダンに住んでいる他国人がスーダンから自国に引き上げるために、日本も自衛隊機をスーダンの隣国ジプチに派遣して、スーダンに在住していた日本人の引き上げをしました。中にはスーダンを他国の飛行機で脱出した日本人もあったようです。その引き上げてきた人の一人の方は、スーダンで医療活動をしている人でしたが、その方のインタビューを聞いていて、政情が安定したら、またスーダンで医療活動を続けたいと言っていました。スーダンにはその方の働きを必要としている人がいるからです。こういう方がいられなくなるようなスーダンの状況は、互いに仕え合う人間同士の社会ではありません。

 

その点では日本も、日本に在住する他国人、特に外国人労働者や難民に対して、互いに仕え合う関係ではなく、排除の姿勢が強いのです。現在改悪されようとしている入管法改定が国会で審議されて、衆院法務委員会では通って、衆議院に回されて、5月上旬には衆議院で可決される見通しと言われています。この改定案によりますと、入管の強制送還の機能を強化し、難民認定申請中の外国人について一律に送還が停止される現行ルールに制約を設け、3回目以降は申請中でも送還できるようにする。また、国外退去とされた外国人を入管施設に収容せずに送還手続きを進める「監理措置」を創設するとしていて、今まで以上に強制送還の可能性が高くなっています。

 

憎しみ合い、争い合い、排除し合うのは、地から生まれた私たち人間の、仕えるよりも仕えられたいと願う自己中心性のなせる業です。そこから解放されて、仕えられるよりも仕える者として生きようとする者は、神の独り子であるイエスに信頼してあゆみを起こす人です。その人は「永遠のいのちを得ているのである。しかし、子に信頼をおかない人は、いのちを目の当たりにすることができない。そればかりか、神の怒りがその人にすえおかれる」のです。

 

ところで、イエスを信頼して歩みを起こす人は、誰なのでしょうか。洗礼を受けたキリスト者でしょうか。洗礼は受けていなくても、イエスを信頼して歩みを起こしている人はいるのではないでしょうか。神からの命である神の愛を受けて生きている人、上から来られる方の証しを受け入れて、神が真実であることを確認しつつ生きようとしている人です。大いなる命によって自分が大切にされていることを知っている人は、他者をも大切にしていくことでしょう。そのような人は、わたしは仕えられるためにではなく、仕えるために、上(天)から来たというイエスに倣って生きている人ではないでしょか。

 

その意味で、匿名のイエスを信じている人がいることを含めて、「御子を信じる者は永遠の生命を持つ。御子を信ぜずにいる者は生命を見ることがない。神の怒りがその者の上にとどまる」(36節、田川訳)という言葉を噛みしめたいと願います。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、今世界の現実は滅びへと向かい、人間の救いと解放への道から遠ざかっているように思えてなりません。それにも拘わらず、今も霊においてイエスが私たちと共にいてくださることを信じます。どうかイエスが切り開いてくださった、人間の救いと解放への道を私たちが歩んでいくことができますように導いてください。
  • ウクライナスーダンで行われている戦争が、速やかに終結しますように!。そのために私たちが祈り、少しでも働くことができますように!
  • 今この世界の中で傷つき、苦しみ、命と生活が脅かされている人々をあなたが支えてください。
  • 神さま、この世界が平和になりますように。軍事力に頼らない平和をつくり出す力をすべての国の人々に与えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。特に今病の中にある方々を癒し、支えてください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩    296(いのちのいのちよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-296.htm

⑭ 献  金 

⑮ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑯ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。