なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(564)

船越通信、№564 2023年4月30日(日)北村慈郎

  • 23日(日)は礼拝後「ウクライナに平和を!」のスタンディングを、京急田浦駅前で行いました。ウクライナにロシアが軍事侵攻してから1年2か月が過ぎようとしていますが、ウクライナでの戦争は一向に終息の兆しすら見えません。私たちのスタンディングもこんなに長く続くとは思いませんでしたが、2年目に入っています。力による他者の圧伏ではなく、違いを持った人間同士の対等な関係における話し合いによる共通認識の醸成こそが、人間の未来を開いて行くのではないかと思うのですが、日本基督教団という教会においてもそれが難しいわけですから、なかなか厳しい問題に私たちは直面していると言えるのではないでしょうか。それでも、力による他者の圧伏は許されるものではありません。この日のスタンディングは、参加者6名、募金2,000円(2人)、署名3筆でした。スタンディングを終えて、NさんとSさんの3人で船越教会に戻りました。2人が帰った後、私も後片付けをしてから、鶴巻に帰りました。
  • 25日(火)は、午前12時少し前にM教会に行き、船越教会の代務者になっていただいたM先生から登記の委任状の署名捺印をもらい、登記に必要な書類を一点与り、その後私は辻堂の法務局に行きました。船越教会代表役員代務者変更登記の手続きをするためです。登記の書類は原本のコピー(代表役員名で「これは原本に相違ありません」という一筆を入れる)とその他必要な書類ですが、それらを揃えて、法務局の受付に出しました。2,3確認をされて、加筆しましたが、受付の方に登記の書類のコピーと私が持って行った原本と照合してもらって、この日登記の受付ができました。その後、28日(金)午後に法務局の方から電話があり、なお3点の確認があり、これで受付が完了し、後は法務局で登記が済み次第、履歴全事項証明を近くの法務局で取って、教団と神奈川県に提出すれば、船越教会代表役員代務者変更の手続きがすべて完了します。履歴全事項証明書が取れるのは5月2日以降になりますので、連休が終えたら、それを取って、教団と県庁に送ろうと思っています。こういう役所の手続きは、役所で決められた通りに書類を整えて出す以外に道はありません。自分でこうしたらと思っても、それでは通じません。当然のことではあるかも知れませんが、物事を自由に考えたいと思っている者にとっては、こういう法的な手続きというものには違和感が伴ってしまいます。
  • この日は辻堂の法務局での手続きを済ませて、横浜で上の息子と会ってお茶を飲みました。3月3日の連れ合いの帰天の日にも、3人の子どもと私とでお墓に行って黙祷し、その後昼食をともにしましたので、彼と会うのはそれ以来になります。2か月も経たないのに彼と会って話すなどということは、本当にめずらしいことです。息子と別れ、この日午後7時から横浜YMCAで関田先生のお別れ会の実行委員会がありましたので、時間つぶしに久しぶりに伊勢佐木町有隣堂に行きました。有隣堂でしばらくぶらぶらし、それでもまだ時間がありましたので、YMCAの向かいにある横浜スタジアム前の公園のベンチに座って、時間をつぶしました。スタジアムでは野球が行なわれていて、場内放送の声と時々上がる歓声を聞き、公園で遊ぶ子供たちを見ながらしばらく過ごしました。1995年から私は紅葉坂教会の牧師をしていましたが、その頃教会の青年と時々横浜スタジアムに野球観戦に来たことを思い出したりしました。その場所にはかつて米軍のチャペルもありました。1960年代半ばごろだったと思いますが、私は当時東京神学大学の学生でしたが、神学校のチャペルで井上良雄先生が説教で、ベトナム戦争の時代でしたので、神学生への奨学金に米軍チャペルからのものがあり、米軍とその家族の献金による奨学金を神学生が受けるということはいかがなものだろうかという主旨のことを、おっしゃったことがありました。私はその奨学金をもらっていませんでしたが、私の友人はもらっていて、井上先生の説教の後に、すぐその奨学金をもらうのを止めて、山谷で日雇い労働をして稼いでいたのを思い出します。その後午後7時開催の関田先生のお別れ会実行委員会に出席しました。先生のお別れ会は既に6月17日に川崎の朝鮮初級学校体育館で行うことは決まっていましたので、この日は当日の内容を確認しました。それを終えて、鶴巻には午後10時頃に帰ってきました。
  • 26日(水)は午後4時半から、高座渋谷教会で基地・自衛隊問題小委員会があり出席しました。委員会も新しい年度になり、今年度の活動計画について話し合いました。① 台湾・沖縄・琉球弧を戦場にするな!全国キャラバン」(森の映画社)の開催を9月に他委員会の共催・協賛を呼びかけて行う。② 6月教区総会に向けて、「PFAS」の案件で、声明文を提案する。議事の後、三上智恵監督「沖縄、再び戦場へ」(仮題)のDVDを鑑賞しました。委員会の議事録の中に三上監督の言葉(抜粋)が記されていましたので、転載します。「…しかし高江も辺野古も基地建設を止められず、南西諸島に次々と自衛隊のミサイル基地が置かれ、沖縄の軍事要塞化は加速度的に進みました」。「…すでに戦争が始まっているような危機感が一向に全国に共有されていない中で、新作を作りながら、同時に伝えていく仕事もしたいと思っています。どうか皆さん一緒に伴走してください。」。「必死にあらがう沖縄の人々の映像が、全国に平和の細胞分裂を促していく。そう思うと勇気100倍できょうも現場に立つことができます」。委員会議事録の最後には、「これを見た私たちが戦争を止めるために何が出来るか、このような課題をあたえられました。この事を共に考えあう、委員会でありたいと思います」と記されていました。私もそのように思わされました。27日(木)には、いつものように国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに行きました。私たちの座り込みは、参議院議員会館前の道路ですが、この日は第2衆議院議員会館前の道路で、私が午後1時ごろに行ったときには、たった一人で、国会議事堂に向かって肉声だけで、原発反対を叫んでいる人がいて、そのそばには入管法改定反対の人たちが抗議行動をしていました。その後同じ場所で、殺傷能力のある武器輸出反対のグループが抗議行動をしていました。私たちが座り込みを終えて帰る時には、その方々の前を通って地下鉄国会議事堂前駅に行きました。