なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(188)

 いつも日曜日にブログにしている船越通信ですが、このところ日曜日に時間が取れずに、月曜日になっ

ています。


          船越通信癸隠牽検 。横娃隠看11月30日                  

・23日の日曜日は礼拝後クリスマスの準備をしました。クリスマスツリーをセットし、待降節のクランツ

は船越教会独自のものですが、講壇の前にテーブルを置き、その上に横並びに四角い赤色の四本のローソク

を置きます。その周りに古木と庭にある桧葉を切って来て形を作り、松ぼっくり、どんぐり、いがのある栗

の実などを散らします。ローソクの赤と桧葉の濃緑と多彩な茶色に、プラスチックの黄色のレモン(?)が

2,3個置かれていて、色合いも素敵です。それにポインセチアの鉢植えが加わり、待降節の準備が整いまし

た。この日は、みなさんがまだクリスマスの準備をしていましたが、午後に横浜本郷台教会の第二種教会設

立式がありましたので、Mさんの車に分乗させてもらい、一足早く教会を出ました。船越教会の週報には午後

2時からと書きましたので、午後2時10分前には横浜本郷台教会の前まで送っていただきました。自動車から

降りで、教会の前に立ち、改めて横浜本郷台教会の設立式の看板を見ましたら、開始が午後2時半になってい

ました。Mさんには少し慌てさせてしまい申し訳ありませんでしたが、お蔭さまで時間的に余裕があり、横浜

本郷台教会の周りを少し歩く時間がありました。横浜本郷台教会は、横浜上原教会の牧師をしていた依田俊

作牧師が、横浜上原教会を退任後に開拓伝道した教会です。この日にいただいた横浜本郷台『教会のあゆみ』

という写真集と年表の冊子を見ましたら、1996年9月26日が横浜本郷台教会の開設式・献堂式で、その集合

写真の中には私もいました。私は1995年4月に名古屋の御器所教会から紅葉坂教会の牧師になりましたので、

横浜に帰ってきてから2年目に当たります。2012年6月17日の現在のS牧師の就任式にも私は出席しています。

横浜本郷台教会は依田俊作牧師の開拓伝道という形で始まりましたが、伝道所の設立には関係教会が必要で

すので、お隣の横浜港南台教会が横浜本郷台教会の関係教会として横浜本郷台教会を伝道所の頃から支援し

てきています。船越教会は50年記念誌にもその最初に依田俊作牧師の祝辞がありますように、依田俊作牧師

にはいろいろと繋がりがあり、また、生前は支えていただいていたこともあり、横浜本郷台教会のこともそ

の関係で祈りの内に覚えている教会の一つです。これからも主の導きの下、横浜本郷台教会が福音宣教の業

に励んでいかれることを祈っていきたいと思います。

・27日(木)に鶴巻から船越に移動してきましたら、湘南法務局から電話があり、代務者の手続きで一つ

新しい代務者の印鑑証明書が欠けているので、それをもってきてもらいたいという連絡でした。実は先週の

金曜日に手続きに行ったときに、ちゃんと印鑑証明書も持って行きましたが、法務局の係の人から提出した

書類の中に印鑑証明書がないという指摘がなかったので、私の方はおかしいと思いながら、今はテーターが

パソコンに入力されているので、そちらの方で照合したからいらないのではと、勝手に思い込んで、印鑑証

明書の事を係の人に確かめずに帰って来てしまいました。28日に湘南法務局に出向き、印鑑証明書を提出

してきました。12月1日の月曜日には登記事項の証明書を取ることが出来るということですので、これは横

須賀の法務局でも可能ですので、来週登記事項証明を取り、県庁及び教区・教団に代務者変更届を出し、そ

れをもって代務者変更に関するすべての手続きを終了したいと思っています。

・27日木曜日夜には聖書研究会がありました。扱いました聖書箇所はガラテヤ人の手紙4章21-31節

です。この箇所は、パウロユダヤ教の聖書解釈の方法であるミドラーシュに倣って、サラとハガル、イサ

クとイシマエルのアブラハム伝承の解釈によって、割礼と律法を救いの条件とするユダヤ主義的な福音理解

に対する律法から自由なパウロの福音理解の正統性を主張しているところです。この部分を読んでいると、

何だか屁理屈をこねて自分の正統性を、パウロが主張しているように思えてきます。例えば、24節<これに

は、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分

に産む方は、シナイ山に由来する契約を表わしていて、これがハガルです>。「パウロはここで旧約聖書

ハガルとサラの物語のアレゴリカルな解釈を展開している。この解釈によると、この二人の女性は二つの性

格が異なる契約(ディアセーケー)を象徴している。ハガルはモーセを通してシナイ山で与えられたシナイ

契約を表し(出19:1-24:18)、それは人を隷属させる律法の規定を内容としているとされる(ガラ3:23-25;

4:1-3)。パウロは、このアレゴリーのもう半分を形成する、サラが象徴する契約(ディアセーケー)が何

であるかを明らかにしていないが、3:15-18でアブラハムに与えられた契約が遺言(ディアセーケー)とし

て、シナイ契約によって与えられたモーセの律法に対照されているので、アブラハム契約を象徴していると

考えてよい。ハガルとシナイ契約を直接結びつける要素は創世記と出エジプト記にはないが、ハガルが奴隷

の身分にあったことと、シナイ契約の中核を形造る律法が人間を隷属させる効果を持つことから、パウロ

思考の中で両者が結びついたものであろう。社会的身分上の隷属が、宗教的戒律への隷属のメタファーとし

て捉えられているのである」(原口)。

・こういう聖書研究に意味があるのかと言われますと、意味があると即答することにいささか躊躇を覚えま

す。確か田中正造はほとんどマタイによる福音書だけで、「聖書は読むにあらず、行うものだ」という趣旨

のことを言っていたように思います。パウロの手紙を読んでいて、イエスとの違いを感じると共に、イエス

との連続性もあるようにも思いますが、聖書研究会でガラテヤ人への手紙を読むたびに、何とも言えない違

和感を覚えるのは、私だけではなく、参加者一同(3人)の共通した感覚のようです。でも話し合いの中では

いろいろな発見を与えられています。