なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(550)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(550)復刻版を掲載します。2010年4月のものです。

     
         黙想と祈りの夕べ通信(550)[Ⅺ-28]2010・4・11発行)復刻版


 3月17日付で教団の審判委員会から手紙をもらい、戒規免職を不服として上告している私に、4月13日ま

でに審判委員会委員長石橋秀雄宛に「上告理由書」を出すように言ってきました。さっそく私は上告理由

書を書き上げ、対策委員会の方々とお二人の弁護士の方に見てもらい、いろいろご意見を伺いました。そ

の意見を参考にして、書き改めた「上告理由書」を、4月9日の対策委員会で委員5名と弁護士お二人に見

てもらい、最終的なものを完成させて、10日に横浜中央郵便局にもっていき、親展で審判委員長宛投函し

ました。これで戒規免職に対する直接的な私の対応は、ほぼ終えたことになります。後は審判委員会から

の呼び出しがあれば、直接私の考えを述べさせてもらいますが、呼び出しがあるかどうかは分かりません。

今後できることは、秋の教団総会に向けて私の戒規免職問題を教団の諸教会・伝道所、信徒・教師に広く

知っていただくこと。聖餐の問題を教憲・教規違反として法的に問題にすること自体、教会としてはいか

におかしなことであるかということを訴えていくこと。そして、私を戒規免職処分にした教師委員会の決

定が、教憲・教規解釈においても、手続き上においても、いかに不当なことであるかを分かってもらうこと

ではないかと思っています。

 4月11日(日)19:00から日本基督教団蒲田教会で、新教出版社主催の第1回新教・神学セミナー「教会と

は何だろうか~『免職』牧師北村慈郎さんに連帯しよう~」という集会があります。この集会は私の『自

立と共生の場としての教会』への応答を通して、免職問題を問い私への連帯を広げることをめざして行わ

れます。どんな会になるか分かりませんが、このことを通して「教会とは何か」を、共に考え合うことが

できれば、うれしく思っています。教団の中には、未受洗者の陪餐をする教会とは一線を画して、教団の

「再編と一致」をめざすグループの動きもあります。そのようなグループの動きに政治的に対応するより

も、「教会とは何か」をめぐって、自由にもっと本質的な議論ができればと願っています。

 福音と世界の最新5月号の「神学の履歴書」の中で、佐藤優さんは「日本基督教団で起きている聖餐論争

について」書いています。佐藤さんは、「日本基督教団で起きている聖餐論争に関して、筆者は実にばかば

かしい騒動と思う。聖餐に未授洗者を参加させるか否かは、個々の教会と牧師の判断に委せればよい」。自

分は日本基督教会の伝統で育ち、神学校時代改革派系の神学に惹きつけられたので、洗礼を受けた者が聖餐

に与るべきだと思うが、同志社の神学部と大学院時代通っていた教会では、「開かれた聖餐式」が行われ、

未受洗者も聖餐に与っていた。「その牧師が信仰的良心に基づいて聖餐式を執行し、教会員がそれに文句を

言ってなければ、それでいいのである。日本基督教団のよさは『いいかげん』なところにある。それを現在

の教団執行部が、ソ連共産党のような『鉄の規律』で、牧師や教会を律しようとしていること自体が大問題

だ」。そう述べて、佐藤さんは、自分は現在「見えない教会」のメンバーであるという意識を持もっている

が、「実を言うと、日本基督教団の教会に籍を置いて、『見える教会』での教会生活を再会しようと思って

いたのだが、本誌に報じられた聖餐騒動に関する記事を読んで、再び教会に行く気が失せてしまった」とい

うのです。そして、「キリスト教の本質は救済宗教だ。イエス・キリストを信じることで、救われると確信

することを重視すべきだ。信仰の問題を処分や統制などの行政的手法で解決しようとする宗教団体は、突き

放して第三者的に見ると、宗教的生命が枯渇しかけている。末期症状を示しているということだ。」と、極

めてまともで適切な論評を加えています。教団の中に佐藤さんのような認識が広がっていくようにしていき

たいものだと思わされました。


            「権威と服従」        4月11日


 あらゆる人々があらゆる権威を持つ一方で、他の人々に従うだけ、というように権威と服従とを切り離す

ことは決して出来ません。このように引き離してしまうと、一方は権威主義的な態度をとり、もう一方には

他人に言われるがままに従う態度が生まれてきます。これは従順ばかりでなく、権威までも腐敗させてしま

うでしょう。目上の人がいないほどの権威の位置にある人は、大きな霊的な危険にさらされているといえま

す。また自分に従う人を誰も持たない、従うだけの人の場合も同じような危険にさらされます。

 イエスは偉大な権威をもって語られました。同時に、イエスは全生涯を御父への完全な従順の内に送られ

ました。御父に「わたしの願いどおりではなく、み心のままに」(マタイ26:39)と言われたイエスは天と地

の一切の権能が授けられていた方でした(マタイ28:18)。自分自身に尋ねてみようではありませんか。従順

の内に権威ある生活を送っていますか。また権威をもって従順な生活を生きていますか。


                    (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)