なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(551)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(551)復刻版を掲載します。2010年4月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(551)[Ⅺ-29]2010・4・18発行)復刻版


 「上告理由書」を審判委員会委員長に出して、免職問題で私のやるべきことは一段落しました。そこ

で、昨日と今日と、横須賀に行って来ました。「沖縄から基地撤去を求め、教団の合同のとらえなおし

をすすめる」の第3回全国集会が6月27日(日)-28日(月)と横須賀で行われることになっているから

です。横須賀に行ったのは、集会する場所や宿泊するホテルを調べるためでした。大体の見当がつきま

した。ところで、基地の問題は、現在5月までに普天間の移設先の決着をつけるという鳩山首相の発言

の信憑性が問題になっていますが、その根底には日米安保条約があるわけです。60年以上も続いている

冷戦時代につくられた日米安保条約が、未だに全く変わらないであるということが、そもそもおかしな

ことです。東北アジア一体構想が掲げられている時代に、アメリカの基地を日本が温存すること自体が

問題にされなければならないのではないでしょうか。軍事力によらない世界平和の構想を、憲法9条に基

づいて日本は世界に先駆けて実践していくべきだと思います。その意味で基地撤去が不可欠です。「求

めすすめる連絡会」の全国集会が、原子力空母ジョージ・ワシントンの母港である横須賀米軍基地の近く

で行われますが、沖縄の基地撤去と共に日本にあるすべての米軍基地の撤去を求めると共に、軍隊とし

ての自衛隊の解体再編を求めていきたいと思います。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。去る日曜日夜に蒲田教会で行われた「『免

職』牧師北村慈郎さんに連帯する会」へ行った。そこにTさんが来ていた。久しぶりにお会いしたので、

帰りに品川駅で話をした。Tさんは憲法を護る署名活動にも参加している方だが、免職のことは知らない

で、その日に聞いて集会に来たという。免職問題は教団の信徒の人はほとんど知らないので冊子を作っ

て欲しいと言われた。翌日メールをくれた別の人も、前にこの問題は信徒が知らなければいけないので、

マンガにでもしてもらいたいと言っていた。私も今までは紅葉坂教会という自分の所属する個教会が安

定していれば、教団には目を向けることがなかった。しかし、第33合同後18回教団総会に陪席して、性

差別委員会がお金のことでつぶされたのを知って、おかしいと思った。今もそうだが常議員会に陪席し

ていると、意見を言わせるが、ともに考えようとする姿勢がない。権威主義的である。「あらゆる人々

があらゆる権威を持つ一方で、他の人々に従うだけ、というように権威と服従とを切り離すことは決し

てできません。このように引き離してしまうと、一方は権威主義的な態度をとり、もう一方には他人に

言われるがままに従う態度が生まれます」という今日のナウエンの言葉そのものである。イエスを神に

従った人として信じる私たちが、余りにもおかしなことが行われていることに気づくことなく、牧師か

ら一方的に教えを聞き、祈っていればいいという風に受身の信仰者になっていたのではないか。今は自

立して自分で考え歩まないと、教団がますます誤った方向にいくのではないかと思う。自立した人が多

くなることによって、正していくことができるのではないか。紅葉坂教会にとっては、教師退任勧告・

戒規免職問題に役員会が丁寧に対応し、真剣に取り組んでいることが、教団を意識するよいチャンスで

はないか。とことん否定的な教団の内実が分かっても覚悟している。その教団の内実には自分もその一

人として関わっているので、早く目覚めなければ、どんどん腐敗していくからである。多くの人と連帯

していき、教団の現実を伝え、よりよいものを求めていきたいと思う。性差別や辺野古の基地建設反対

で繋がっている大きなうねりを起こす会の友人が与えられているので、ジタバタせず、御心のままに

思っている。

 もう一人の方の発言がありました。今日午前の学びのときに、Sさんが、ひとりの神を信じることが排

他的になるのでこわいと語られた。その素朴な見方に教えられた。聖餐も一つのあり方しかない。安保

は絶対だ。牧師の言うことは正しい。みな一つしかないという視点に囚われている。牧師を飛び越えて

信徒同士が繋がると、教会を乱すことになる。牧師が知ったら、今まで親切にしていたのに、裏切られ

たと思わせはしないかと、いろいろ思って何もできないという声を聞くことがある。


        「聖霊画私たちの内にあって語られる」  4月18日


 霊的に自由であるなら、予期しないような困難な状況にあっても何を言い何をしようかと心配する必要

はありません。人々が私たちをどのように見、また私たちのすることがどんな利益をもたらすことになる

のかを気にしないなら、言うべきこと、なすべきことは私たちの心の中心からわき起こってきます。なぜ

なら、私たちを神の子として、自由にしてくださる神の霊が、私たちを通して語り行動されるからです。

エスは言われました。「引き渡される時は、何をどう言おうかと心配してはならない。その時には、言

うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の

霊である」(マタイ10:19-20)。

 私たちの内におられる神の霊をいつも信じましょう。そうすれば、私たちを裁いたり値踏みする人々に

絶えず私たちを引き渡す世界にあって、自由に生きることが出来ます。


                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)