なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(552)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(552)復刻版を掲載します。2010年4月のものです。


         黙想と祈りの夕べ通信(552)[Ⅺ-30]2010・4・25発行)復刻版


 私は橋爪大三郎が書いたものを好んで読んでいます。最近90年代半ばに単行本として出版された『橋爪

大三郎の社会学講義』が出版社の倒産で絶版となっていたのが、ちくま学芸文庫に形を変えて入っている

ことを知って、買い求めて読んでみました。橋爪のキリスト教を含めた諸宗教への理解は相当のものだと

思っていますが、この本の中にも考えさせられる指摘がありました。少し引用してみます。「宗教によっ

て人は癒されるか? それは宗教が、何を約束するかによる。先進国の気弱な若者たちが、気の迷いです

がりつくタイプの宗教など、私にはどうでもよい。私が興味があるのは、人口爆発に苦しむ地球で、軽す

ぎる生命にまっとうな意味を与えるため、必死で編み出される宗教だ。想像するのさえむずかしい苛酷な

状況で、なお人間の尊厳をかちえようとする行為。それを宗教が可能にするなら、宗教は人を癒すと言っ

ていいのかもしれない」(253-254頁)。キリスト教に限って言えば、確実にアフリカのキリスト教が盛ん

になっているようです。2050年頃には地球の人口が約100億人になり、食糧不足が深刻になる。市場経済

グローバルになったが、国民国家の枠組みが取り払われない限り、現在豊かな先進国に冨がますます集中し、

人口の増加が激しい発展途上国はますます貧しくなっていくに違いない。そういう貧しい人々の中で宗教が

力を発揮し、場合によっては宗教的信念に裏付けられたテロリストの活動が激化するかもしれない。橋爪は

そのように2050年頃の地球の姿を想像しているのです。地球という舟に乗り合っている私たちにとって、橋

爪が想像する2,050年頃の、豊かな北の世界と貧困にあえぐ南の世界の格差の広がりではなく、南北問題の

克服をどのように実現することができるかが、これからの大きな課題だと思います。

 上記の私の発言に続いて一人の方の発言がありました。加齢による老いによって気持ちの変化を感じてい

る。私は太平洋戦争が終わった時点で、心救われてキリスト教に結びついた。3,4年前までは、はっきりと

政治と信仰を分けて考えていた。ここにきて辺野古の問題から教えられたこともきっかけとなったが、自分

の体力の衰えと共に考えも変わった。政治が信仰とは関係なく隔たりをもつという考えが、政治が大切であ

り、毎日の生活の中でも感じたり、ひらめいたり、身近かに思えるようになった。これも幸せなことだと感

謝している。

別の人の発言がありました。今朝バスに乗ったら、以前から気になっていたが、声をかけたことのなかっ

た障がいをもった若い男性がバスに乗っていたので、「おはようございます」と声をかけた。その人が「自

立支援法廃止、新しい法を」という署名用紙をもっていた。話をしたら、署名が集まらないのでと、署名を

頼まれた。この方の障がいは先天性であり、手の障がいもあり、コミュニケーションがなかなか取れないの

ではないかと思っていたが、話して見ると、思っていたよりコミュニケーションが取れた。自分に偏見があ

ったことを反省する。この方とは違って、コミュニケーションをとってみると、思っていたより障がいが重

いという方もいる。どうであれ、同じ人間として共に生きる者でありたいと思う。

もう一人の方の発言もありました。今日はよいお天気で久しぶりに散歩してきた。横浜公園のチューリップ

を見て、レンガ倉庫の方へ回って一周してきた。公園の楠の木は今の時期に葉が落ちる。御器所教会時代に

は、大木の楠の葉を毎日かき集めて、燃やした。楠の葉は燃やすと匂いが良い。レンガ倉庫ではフラワー

ショウーの花の香りを楽しんだ。最近若い人たちは香り「アロマ」の癒しを好む。逆に不快な匂いにも敏感

に反応する。娘から「お母さん、加齢臭に気をつけないと」と言われたりする。今日も戸田建設の人が牧師

館の間取りを見にきたが、犬と猫がいるのでと、娘が消臭剤をした方がといいと置いていった。かつてタバ

コの煙の匂いがいろいろあってすれ違い際に良い匂いと感じたことが有ったが、最近は街で通りかかった人

からタバコの匂いがすると、この人はベビースモーカーではと思ったりする。最近火事を心配してか、近所

迷惑なのか楠の葉も、秋には教会の壁一面に広がった蔦の葉も燃やすことができない。自然との共生よりも

人工的なものとの共生が多くなって、本来の自然の豊さが失われ、ますます人工的なものに囲まれた生活に

なっている。嫌煙権の行き過ぎも気になる。快適に過ごそうという欲望が過剰になっているのではないか。

自然と人が一体となった生活したいという思いを持って、今ここにいる。


             「質問の答え」       4月25日


 私たちは質問をすることに多くの時間とエネルギーを費やします。果たしてそれだけの価値があることな

のでしょうか。私たちはどうしてこの質問をしたいのかと自分に問いかけてみるのは常に意義あることだと

思います。役に立つ情報を欲しているのでしょうか。賢明になりたいのでしょうか。聖なるものになるには

どうしたらよいのか知りたいということでしょうか。

 聞きたく思う質問自体を口にする前に、こうした問いについてよく考察してみると、聞きたく思っていた

質問がそれほど時間もエネルギーもかけなくてすむものだったことが分かるかもしれません。ひょっとして

すでに情報は手にしているかもしれません。また誰かが間違っていることを明らかにする必要はないかもし

れません。ただ自分の心に本当に注意深く耳を傾けるなら、尋ねようとしている質問に対する答を私たちは

すでに持っていることに気づくでしょう。 


                     (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)