なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(361)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(361)復刻版を掲載します。2006年8月のものです。

       黙想と祈りの夕べ通信(361[-48]2006・8.27発行)復刻版

 20日(日)~21日(月)に教区社会福祉小委員会主催の第21回障がい者と教会の集いが都筑の横

浜あゆみ荘で行われました。この集いの副題には「知り合うこと、触れ合いこと、生活を共にして」とあ

ります。そして今年度のテーマは「生きにくさの中で」でした。私は20日(日)礼拝後に紅葉坂教会で

Hさんの沖縄についてのお話を聞く会があり、その後Hさんと数人で食事をしていましたので、障がい者

と教会の集いに行けたのは、午後4時過ぎになり、3時から始まっていた集いには途中参加という形に

なってしまいました。ちょうど開会礼拝と教区からの挨拶が終わって、オリエンテーション・自己紹介が

始まっていました。それが終わって発題者のSさんは、障がい者手帳を見せて、自分は障がい者だが、障

がいを誇りにしているとおっしゃいました。後の質問でどなたかが、障がいが誇りであるということはど

ういうことでしょうかと質問していました。翌日の発題兇任Tさんが、20代で神経症を患ったご自身

の経験からお話をしてくださいました。それぞれご自身の体験に基づいたお話でしたので、聞かせていた

だく私には、その人でなければ紡ぎ出せない言葉の中から新しい発見が与えられ、自分の目が開かれた思

いがいたします。別の差し迫った用件がなければ、必ず毎年この集いに私が出るのも、そのような出会い

があるからかも知れません。今年は帰りに全盲のFさんを横浜駅東口のバスターミナルまで誘導しまし

た。Fさんを誘導しながら、先日電車で出会った見ず知らずの全盲の方に、その方が立っていましたの

で、座っていた私の席にどうぞと手を触れて言いましたら、いいですと言われたことを思い出しました。

私は自分で結構混雑していた車内でその方が立ったままよりも座っていた方が安心ではないかと思って、

自分の席を譲ろうと声をかけたのです。「いいです」というその方の言い方が、余計なお世話だと言わん

ばかりのように私には感じました。後で良く考えたら、私ははじめにその方の意志を確認せず、手に触れ

て席にどうぞと声をかけたことがいけなかったのではないかと思いました。自分が全盲で突然車内で誰か

が自分の手に触れてきて、席にどうぞと言ったらどうだろうか、その人の身になって考えたら、確かに何

だと思うかもしれないと思えました。私のしたことは善意の押しつけだったのかもしれません。

 さて障がいをもつ者がありのままに生きられる社会が望ましいのですが、私たちの社会が現実にはなか

なかそういう社会に近づいているとは思えません。自立支援法の施行は、障がい者の作業所やグループ

ホームをはじめ障がい者自身にも負の重荷となってきているようです。私たちとしては、これらかます

すこの国の社会の在り様を障がい者の生活が保障されるようにと厳しく問うていかなければなりません

し、と同時に、障がいをもった方々も社会の構成員として他の人たちと全く同等・対等な存在としてみん

なが受けとめられる社会になっていかなければならないと思います。しかし、そのためには、障がいを

もった方々と生活を共にする共同体がもっと生まれ、そのような共同体にさまざまな形で関わる人々が多

くなっていくことが望まれます。そのようにして、障がいをもった方々が、ありのままにみんなから理解

され、受けとめられて、障がいをもった方々自身も、周りの者たちも、お互いに差異を認め合って自然と

一緒に生活するというところまでいけば、障がい者問題はほとんど問題ではなくなると思うのです。

 夢かもしれませんが、障がい者と教会の集いに参加してそんなことを思いめぐらしました。