なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(426)

船越通信、№426    2019年9月1日   北村慈郎

  • 8月18日(日)は何時ものように礼拝後残れる人でお茶を飲み懇談の時を持ち      ました。その後、私は次の日曜日25日は夏期休暇の前半になりますので、25日(日)の週報を印刷して、受付に置き、その日の午後3時から19日(月)午後3時まで横浜地下鉄グリーンライン都筑ふれあいの丘」にある横浜あゆみ荘で開催される第34回「障がい者と教会の集い」に行きました。一昨年までは全日程参加していましたが、昨年からは日曜日だけ参加しています。病気を抱えて連れ合いが家にいますので、船越教会に泊まる土曜日に日曜日も二日続けて外泊することを避けているからです。この日も開会から夕食を終えるまで参加しました。今回の「障がい者と教会の集い」のテーマは、「寄り添って 共にー安心を求めてー」でした。チラシの呼びかけ文にはこのように記されていました。「昨年の『集い』は、『寄り添って 共に』のテーマを掲げ、主に教会での取り組みを伺いながら様々なことを考えさせられる時でした。今回は、昨年のテーマを受け継ぎながら、『安心』をキーワードに私達が寄り添って共にあるための課題を共有したいと思います。安心出来る<関係><場>とはどのようなものでしょう。教会が安心出来るところであるためには何が課題なのでしょう。そもそも<安心>とは何であるのでしょう。今年も具体的な報告を受けながら、『知り合うこと、触れ合うこと、生活を共にして』語り合いながら、テーマを深めてまいりたいと思います。」安心して共に生きる関係・場を持っている人は、障がいがあろうとなかろうと、その人の日々の生活は生き易くなると思われます。昨年は教会員である障がい者とその所属教会の牧師が、確か二組それぞれの立場から発言しました。今年は障がいのある夫と特に障がいの無い妻の一組のカップルによるそれぞれの立場からの発言が一日目にありましたので、私も伺いました。「寄り添って 共にー安心を求めてー」は、連れ合いが癌になって私たち夫婦にとっても大切な課題であることに気づかされています。
  • この週は集会等への出席がありませんでしたので、終活の一環である本の整理に時間を使いました。24日の土曜日にはM人さん家族が連れ合いを見舞ってくれました。
  • 先週の8月25日の日曜日は牧師夏期休暇の前半で、船越教会の礼拝をお休みしました。その日の船越教会の説教は「お話」としてWさんが担当してくださいました。私は、連れ合いが元気な時に行っていた渋沢で行われている日曜日の集会も8月中はお休みでしたので、連れ合いと二人で自宅で礼拝をしました。
  • 26日(月)は、3か月に一回の私の前立腺の診察日で午前中秦野日赤に行きました。3年前の8月第一日曜日の夜中に尿が出なくなり、救急車で秦野日赤に緊急入院して、前立腺肥大という診断を受けて以来、組織検査を2回しましたが、どちらも白で、ずっと経過観察を続けています。今回は血液検査の結果数値が9点台で高いことには変わりがないのですが、今までの10点台以上からすると、少し下がりました。ということでこれからも経過観察を続けることになりました。
  • 28日(水)夜に紅葉坂教会で支援会の世話人・事務局会がありました。7月に通信第23号を印刷発送(支援者と教団全教会・伝道所に)しましたので、その報告、反響について、第24号を今年度中に発行すること、キリスト新聞への意見広告も今年も出すこと、それに私が教師委員会へ免職戒規撤回の再審請求をすること及び免職戒規撤回のそのための教団執行部との話し合いの可能性などについて、S先生も出席して下さり、私を入れて10名でこの日の協議をしました。この支援会世話人・事務局会を何時も10名強の方々が支えて下さっていますので、支援会の運動が途絶えることなく続けることができています。有難いことです。なお、「宣言賛同者」もあと少しで4,000名になります。力強い限りです。感謝。
  • 支援会が終わって、久しぶりに4人で野毛のアリサンで杯を交わし、午後10時過ぎに私はそのまま船越教会に向かいました。29日(木)~30日(金)に船越教会を会場にして行われる第37回フェミニスト神学の会への参加と準備のためです。29日(木)は本来ならば連れ合いの抗がん剤投与の日でしたが、フェミニスト神学の会の為に一週間延期してもらいました。今回のフェミニスト神学の会では「クィア神学」についての学びが中心でした。なか伝道所牧師のHさんの紹介で、滋賀に住んでいる朝香知己さんという方に「クィア神学」について講演してもらいましたクィアqueer)〔英〕は「奇妙な、変な、怪しい、悪い」という意味の英語で、「主に男性同性愛者に対する侮蔑的表現として用いられてきた」言葉です。この言葉が、「1990年前後から、英語圏において、アクティヴィスムとアカデミズム〔運動と学問?〕のそれぞれの領域で従来とは異なる積極的(肯定的)な意味や自己表象として用いられるように〔なり、〕また現在では、多様な性的マイノリティー〔少数者〕を包括的に呼ぶ用語として用いられている」(朝香、〔 〕は筆者)。詳しくここで紹介することは出来ませんが、クィアの特長として挙げられている「包括性、反規範性、反本質主義」からすると、差異をもった個がそのままで全てが尊厳ある者としえ承認されることがめざされているインクルーシヴに近いのかも知れません。私は朝香さんの話を聞きながら、アナキストと共通するのではないかと思いました。