なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(47)

「人々のあざ笑いの中で」、マタイ9:18-26、2019年8月18日(日)船越教会礼拝説教

               

  • マタイ福音書の先ほど読んでいただいた箇所では、イエスが断食問答をしていたところに、「ある指導者がそばに来て、ひれ伏した」と言います。そして「わたしの娘がたった今死にました。でも、お出でになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」と、その指導者はイエスに言ったというのです。
  • この指導者の振舞を描くこの聖書の箇所を読んで、みなさんはどのように思われるでしょうか。
  • 「たった今娘が死んだ」という状況において、父親であるこの指導者は、悲しんで呆然と立ち尽くしていたとか、その悲しみを胸に秘めながら、愛する娘の葬儀のために、いろいろと周りの人たちに指示を出して、気丈に振舞っていたというのなら、私たちもこの指導者の振舞をよく理解できます。
  • けれども、この聖書の箇所のように、死んだ娘をそのままにして、先ずイエスのところに来て、「わたしの娘がたった今死にました。でも、お出でになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」と言ったというこの指導者の振舞は、私たちには意外すぎるものです。
  • また、この父親である指導者の嘆願に対する、イエスの反応も驚きそのものです。「そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった」というのです。
  • この死んだ少女の父親である指導者とイエスとの会話においては、少女が死んだということが、あたかも全く無きに等しいものであるかのように思われます。これは不思議なことです。
  • 私は名古屋時代に小学6年生の少女が白血病で亡くなった家族と出会いました。日赤病院に入院しているその少女を見舞いましたが、抗がん剤のためか、髪の毛がなくなって毛糸の帽子をかぶっていました。お母さんに、かける言葉が無く、ただ祈っていますと一言いうほかありませんでした。その後確かお父さんから骨髄移植を受けたように思いますが、しばらくして召されました。日曜学校に来ていた子どもですので、仏式で葬儀が営まれ、私も参列しました。少女の死はその家族だけでなく、その少女を知る者には本当に痛ましい出来事です。
  • それなのに、この聖書の記事は一体どういうことなのでしょうか。
  • 同じことは、ヨハネによる福音書11書のラザロの復活の箇所でも、イエスの中に感じます。
  • エスはラザロが死んで葬られた後、ラザロの姉たちであるベタニヤ村のマリヤとマルタのところにやってきます。二人の姉妹も、彼女らを慰めに集まってきた人々も悲嘆にくれていました。しかし、イエスは今日のマタイによる福音書の箇所と同じように淡々としています。
  • エスは、「あなたの兄弟は復活する」とマルタに言われました。マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えました。すると、イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、だれも決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11:25-26)とマルタに問います。するとマルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(11:27)と答えます。
  • その後、既に墓に葬られていたラザロがイエスによって復活します。
  • 今日のマタイ福音書のところでも、23節以下を見ますと、ラザロと同じことが起こります。「イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちが騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。『あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。』人々はイエスをあざ笑った。群集を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった」というのです。死んだ少女を前にして、人々があざ笑う中で、イエスはその少女をよみがえらせたというのです。
  • キルケゴールは、『死に至る病』の中で、このように語っています。「…一体人間的に言えば、死はすべてのものの終わりである。人間的にいえばただ命がそこにある間だけ希望があるのである。けれどもキリスト教的な意味では死は決してすべてのものの終わりではなく、それは一切であるものの内部におけるすなわち永遠の命の内部における小さな一つの事件にすぎない。キリスト教的な意味では、単なる人間的な意味におけるよりも、無限に多くの希望が死のうちに存するのである。-この生命がその充実せる健康と活力のさなかにある場合に比してもそうである」。
  • キルケゴールがここで、私たち人間は永遠の命の中に生きていて、正しくは「生かされていて」かも知れません。その永遠の命の中においては、死は一事件に過ぎない。そして、「生命がその充実せる健康で活力のさなかに比しても」、「無限に多くの希望が死のうちに存するのである」と言っているのです。
  • 死は、甦り、復活の命の背景にある一事件に過ぎないというのです。そういう意味で、死も病も私たちにとっても全てではないのです。病み死すべき者である私たちが、永遠の命、死に打ち勝つ甦り、復活の命に包まれてあるからです。
  • 今日の箇所は、ある指導者の娘のイエスによる癒しの物語の中に、「十二年間も患って出血が続いている女」のイエスによる癒しの物語が挟まっています。出血の女の物語の中での、この女の振舞とエスの言葉に注目したいと思います。
  • 出血の女はイエスに近寄り、≪後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからです。それに対してイエスは≪彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った≫(マタイ9:21-22)というのです。
  • 必死な思いで、後ろからイエスの衣に触れる出血の女に対するイエスの言葉は、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」です。このイエスの言葉には、直接的な病気治癒を示す言葉はありません。「娘よ、元気になりなさい」は、病気によって失望落胆し、不安でいっぱいの出血の女に対して語られたイエスの言葉です。この言葉は、病気に支配されている出血の女をその支配から解放する言葉ではないでしょうか。出血の女は、イエスによって「娘よ」と呼び掛けられることによって、最愛の父母と娘の関係の中にいる自分自身を、イエスとの関係において見出したことでしょう。そして「元気を出しなさい」とイエスから励まされることによって、病気による自分自身の存在の揺らぎから立ち直って、イエスが神に愛された独り子であるように、出血の女も神に絶対的に愛されている「娘」のような存在であることに気づかされたのです。その時、出血の女は既に病気から解放されていたのではないでしょうか。
  • 病気の支配に優る神の支配の確かさへの信頼、それがこの出血の女の信仰です。この出血の女に対する「あなたの信仰があなたを救った」というイエスの言葉は、すべてに優る神の支配の確かさを生きる「救い主」(メシヤ)イエスに対するこの女の信仰が、この女を救ったことを意味します。
  • このことは、ヨハネ福音書のラザロの復活物語によれば、先ほども紹介しましたように、イエスとマルタとの問答に示されています。繰り返しになりますが、もう一度その個所を読んで見たいと思います。
  • エスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、だれも決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11:25-26)とマルタに問います。するとマルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(11:27)と答えます。
  • エスを信じるということは、「復活であり、命である」イエスを信じるということです。
  • そのイエスが、マタイによる福音書8章17節では、イザヤ書の苦難の僕の歌からの引用になりますが、「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」と言われているのです。イエスの命の中に、健康で活力のある時だけではなく、私たちは病んでいる時も、死の時もいるのです。
  • ですから、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」という、出血の女にたいするイエスの言葉は真実なのです。
  • 皆さんもご存知のように、私の連れ合いは、ちょうど1年になりますが、癌におかされて、医者もはっきりおっしゃっていますが、治る可能性はほとんどなく、召される時がくるまで、癌と付き合っていかなければならない状態で、今生活しています。幸いに連れ合いは、死ぬことは恐れてはいません。私の方が恐れているかもしれません。ただ治らないのに、癌の広がりをできる限り遅らせるための抗がん治療をどこまで受けるのか迷っています。
  • 毎日連れ合いと一緒に生活していて、連れ合いが痛みや抗がん剤による体のしんどさをこぼすことはありますが、病や自分の死についての不安や恐れはほとんど感じられません。本当の所どうなのかは分からないところもありますが、十分に生きて来たので何時召されても という気持ちのようです。病そのもの、死そのものへの恐怖や不安がほとんどないということは、そばに一緒に生活する私にとっては救いです。
  • 私は、病や死に対する恐れや不安を余り感じていないと言う連れ合いの中にも、先ほどの出血の女へのイエスの言葉、「「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」が生きているのではないかと思えてなりません。
  • 癒しとは、ただ病気の癒しだけではなく、病と死を絶対的なものとして受け止めて、恐怖と不安にさいなまれる人に、病も死の支配からの解放を告げる福音の出来事ではないでしょうか。信じる者に、病も死も、神の「永遠の命の内部における小さな一つの事件にすぎない」ことを悟らせてくれます。カナダ合同教会の新しい信条の最後にこう言う言葉があります。
  • 「生きるときにも、死ぬときにも、死を超えた生にあっても、神はわたしたちと共におられます。わたしたちはひとりではありません。神に感謝をささげます。」
  • この告白において、私たちは病と死の支配からも自由に生きていくことができるのではないでしょうか。