なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(51)

    マルコ福音書による説教(51)マルコによる福音書12:18-27、

・今日の記事に登場してくるのは、「死人の復活」などはあるはずがないと思っていたサドカイ人たちです。「死人の復活」などあるはずがないということは、死人の復活が蘇生を意味するとするならば、ここにいる私たちも同じ考えであるかも知れません。サドカイ人たちは、この世的には現実主義者で、「地位と特権」を盾にして安定した生活を送っていたと思われます。彼らは、「ユダヤの大きな党派では」ありませんが、「貴族的であり、金持ちでした」。「エルサレムにおいて大きな影響力をもつ一大門閥を形成」していました。「その職分と地位から実利的行動と現実的な状況判断を取るようになっていた」ようです。「大祭司をはじめとする祭司長たち、長老たちと密着して、体制を思想的に擁護する役割を果たしていました」。そういう彼らの神信仰は、差別を再生産し続けている現実をそのまま肯定するものであったと思われます。疑いもなくその信仰によって単純に現実を肯定することは、そこにある矛盾を隠蔽する結果になりかねません。事実彼らの目には、恐らく貧しい人々の存在や彼らが支えていた体制の中で様々な苦しみを身に負っている人々の存在は入ることはなかったに違いありません。「彼らの現実肯定は、一面では力ある者との妥協であり、一面では自分たちの生活だけが豊かであることについての良心的苦痛の忘却で」ありました。ユダヤ人を支配していましたロ-マの権力にもユダヤ人の支配層の人たちと同様協力的であったと思われます。伝統主義的、保守主義的な彼らの体質は、神信仰をも現実を肯定するイデオロギ-に変質させていたのであります。

・そのようなサドカイ人たちは、「死者の復活」を否定していました。それは、彼らが拠り所としていました成文化されたモ-セ律法であります旧約聖書の最初の五書の中には、死者の復活という考え方がないからです。死者の復活は、「人間の本性という点から想像することはできないし、人間の生活形態のさまざまな可能性によって根拠づけられもしません」。サドカイ人は、実際にはありそうにありませんが、けれども全くないとは言えない例を引いて、死者の復活の無意味さを主張するのです。七人の兄弟の話です。旧約聖書では、男が子供を得ることなく死んだ時、彼の兄弟がその妻を引き取って結婚し、彼の兄弟に世継を与えなければならないと定めている(申命記25:5以下)からです。次々に七人の兄弟が死に、長男の妻をすべての兄弟が妻としたとすると、復活したときこの女は誰の妻なのか、という質問です。

・ここでイエスは、そのような質問をしたサドカイ人に対して、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」と答えています。「あなたたちは全く間違った前提から判断しているので、聖書に書かれていることの意味も理解できないし、神の力の可能性を予想することもできない。なぜなら死者の復活は、この世と自己との関係をあの世に延長させてはくれないからだ。死者の復活においては、もはや娶ったり、嫁いだりということはなく、復活した人々は天上で天使のようになるであろう」と言うのです。

・サドカイ人の異議がこのようにして退けられた後に、死者の復活の希望の根拠となる積極的論拠が述べられます。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エジプト3:6)。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」。

・このように見てきますと、サドカイ人の現実主義的、現実肯定的な在り方がどこから出てきているかが明らかです。イエスによって「あなたがたは、…そんな思い違いをしているのではないか」(24、27節)と言われているわけですが、それは、「死人の復活」を否定するサドカイ人たちが「死は変えられない現実」として受け入れてしまっていることを指しているのです。死がすべての人を襲い、死によって無に帰する。これは厳粛な現実のように思われます。その中で人間は「死んだ状態」にあるのです。

・ロ-マ4:16以下で、パウロアブラハムを引き合いに出して、このように語っています。「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ100歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方であと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけのです。しかし、『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためにだけ記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられるのです」。アブラハムの信仰についてパウロはこう書いています。

・生ける者の神、イエス・キリストを死人のうちからよみがえらせた神は、死の現実に抗ってわたしたちを生かしたもう神なのす。私は、以前復活日の説教で、復活は往路ではなく復路を生きることだということを申し上げました。「福音と世界」に書いた随想メッセージでもそのように書きました。人間のすべての営みが死に極まるとすれば、復活信仰というのは、その死からのよみがえりです。死という私たちにとって最後の最後から、立ちあがってくる命の力です。失望し、絶望し、あきらめざるを得ない死の状態から新たな光がさしてきて、その光に導かれていくときに、私たちは失望落胆の中で希望を信じて生きることができるのではないでしょうか。

・先週Mさんは、今学校現場でできることは、出来る限り子どもたちの声に耳を傾け、子どもたちに寄り添うことだとおっしゃいました。そして、「聞いてあげたから、寄り添っていったから、不安に満ち満ちた社会の枠組みが変わるわけではないが、社会のあり方が変わることを願いながら、日常的なそれぞれの場で、問いを持ちながら生きていくことではないか」とおっしゃいました。このことが決して無意味ではないということに、私たちはどこで確信することができるのでしょうか。私は、それは復活信仰ではないかと思っています。復活信仰についての「福音と世界」の随想メッセージの中でも紹介しましたが、フランクルの『夜と霧』の中の一節をここでも紹介させていただきます。

・ご存知のようにフランクルは精神医家としてナチスドイツの強制収容所の体験をこの本で書いています。この本の中にフランクル自身が経験した強制収容所で亡くなった若い女性の物語が記るされています。〈若い女性は、自分が数日のうちに死ぬことを悟っていた。なのに、じつに晴れやかだった。「運命に感謝します。だって、わたしをこんなひどい目にあわせてくれたんですもの」。彼女はこのとおりにわたしに言った。「以前、なに不自由なく暮らしていたとき、わたしはすっかり甘やかされて、精神がどうこうなんて、まじめに考えたことがありませんでした」。その彼女が、最後の数日、内面性をどんどん深めていったのだ。「あの木が、ひとりぼっちのわたしの、たったひとりのお友だちなんです」。彼女はそう言って、病棟の窓を指さした。外ではマロニエの木が、いままさに花の盛りを迎えていた。板敷きの病床の高さにかがむと、病棟の小さな窓からは、花房をふたつつけた緑の枝が見えた。「あの木とよくおしゃべりするんです」。わたしは当惑した。彼女の言葉をどう解釈したらいいのか、わからなかった。意識障害の状態で、ときどき幻覚におちいるのだろうか。それでわたしは、木もなにかいうんですか、とたずねた。そうだという。ではなんと? それにたいして、彼女はこう答えたのだ。「木はこういうんです。わたしはここにいるよ、わたしは、ここに、いるよ、わたしは命、永遠の命だって・・・・」〉(新版116~117頁)。

・彼女にとって、マロニエの木は復活者イエスの象徴ではないかと思います。死に打ち勝った復活の命を生きるイエスが、私たちと共に、またすべての人と共に、あのサドカイ人のような人にも共にして、私たちの人生に同伴してくださっているのではないでしょうか。

・不安に満ち満ちたこの社会の枠組みを、神に、主イエスに、ドラスティック(劇的に)変革して下さいと、私たちは祈り願うかも知れません。しかし、イエスは、そういう形ではなく、不安に満ち満ちたこの社会の重荷を黙々と背負い、苦しむ人々と共に歩み、十字架の人となりました。そのイエスのこの地上での歩みが、死を命に変える復活そのものであることを見失ってはならないと思います。