黙想と祈りの夕べ通信復刻版(121、2002・1・20 発行)
最近ヘンリー・ナウエンの著作を何冊か読みました。今朝の日曜学校中高科の礼拝でも引用させてもらいましたが、ナウエンはカトリックの司祭ですが、20年間位大学で教えた後、バニエがはじめたラルシュ共同体のコロニーで働きました。そこでアダムという癲癇をもち、薬の処方の間違いにより、全身麻痺になった子の世話をするようになります。そして、アダムのために働くナウエンを見て、彼が大学で研究生活をしていたことを知っていた神父は、ナウエンのなすべきことは学究活動であって、障がい者のサポートではないのでは、何て無駄なことをしていることか、と言ったといいます。しかし、ナウエンは自分は寝たきりのアダムから沢山のことを学んでいるので、学究生活に戻るつもりなはないと、64歳で亡くなるまでそのコロニーでの働きを続けました。
ナウエンはアダムの物語を書いています。今日の通信のローズンゲン主日聖書箇所の一つはイエスの洗礼の箇所です。イエスはバプテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼を受けた後、水から上がられる時、聖霊が鳩のように降って、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とい声が天から聞こえたと記されています。ナウエンはアダムにもこのイエスと同じ言葉が語られていると言います。そしてアダムの物語はイエスの物語と重なっていると。貧しさや弱さの分かち合いでしょうか。自分の貧しさや弱さを繕って、何かをすることに意味を見出す生き方とは対照的な生き方ですが、貧しさや弱さの分かち合いの生き方は、イエスの物語の根底なのかも知れません。
もう一つ、ナウエンからは「サクラメンタルなキリストのからだ」について教えられました。私たちは聖餐においてイエスの肉と血とに与り、キリストのからだに連なります。このキリストのからだは、過去・現在・未来にわたって、この世界でさまざまな形で苦しむ人々の苦しみ、悲しみを自らのものとし、その苦しみ、悲しみの癒しと救済をもたらします。そういうサクラメンタルなキリストのからだと、そのキリストのからだへの私たちの参与について考えさせられました。
以上の私の発言に続いて、一人の姉妹が以下のような発言をしてくれました。
この集いの前に、「ようこそ先輩」というテレビ番組があり、その番組を観て、この集いに参加するので、ここでもその番組の話をよくするが、今日も観た。授業が終わって、先輩が子供たちと別れて行く時に、先輩も子供たちも「ありがとう」と言い合って別れていく。自分は日曜学校での関係も、教師と生徒という枠組みをはずして、どんなに年齢が違っても、対等な関係でありたいと思っている。対等な関係での人と人とのつながりでは、「ありがとう」とお互いに自然に言い合えると思う。
今日この集いに少し遅れて来たのは、いつも電話をくれるFさんからの電話を受けていたからである。今日は彼から意外な言葉を聞けた。「僕はあなたに悪いことをしてしまった」(彼は以前私を殴ったことがある)と。彼は紅葉坂教会を貧しい者を差別すると、批判し続けているが、時間をかけて関係を修復することが可能なのではと思った。彼から学ぶことも多い。彼の電話を受けて、ありがとうと言いたいこともある。対等な関係をもつことの大切さを痛感させられた。子供たちとの関係も、これからも「ありがとう」と言い合える関係を持って行きたいと思う。
もう一人の姉妹は、かつて自分が参加した信徒の友「夏期集会」について話してくれました。
「慈悲と博愛の福音」(『ルターによる日々のみことば』より)
ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れた。 テトス3:4
このように、神は、わたしたちにたいする慈悲と博愛の福音のうちに、自らを示されました。いかなる人をも喜んで受けいれ、だれも軽べつせず、わたしたちのあらゆる悪をゆるし、決してきびしく追いやることのないものです。福音はまことの恵みを知らせ、その恵みによって、わたしたちを救い、博愛の道で囲んでくださいます。ここでは、だれも自分の価値や働きによって扱われることがありません。今は恵の時ですから、あらゆる人は、完全な信頼をもって、神のみ座に近づこうではありませんか。
福音のうちに、神はその慈悲を啓示してくださいましたが、それは、人々を助け、ご自分に近づくことを許されるだけでなく、さらにしっかりと支え、彼らとともにあることを望み、たえず、めぐみと友情を与え続けてくださることです。たしかに、このみことばは、わたちたちの神の愛と慰めに満ちたみことばであり、約束です。神は、どこまでも、わたしたちに恵みを差し出し、わたしたちを捨てることなく、近づこうと願うすべての人を、いつくしみ深い方法で受けいれてくださるのです。これ以上に神がなさることがありましょうか。ここで、福音が、なぜ、キリストにある神の慰めと愛のメッセージであると呼ばれているのか考えてください。よこしまな罪に満ちた良心に、これ以上やさしいことばを告げることができるでしょうか。
1522年の説教から