なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(105)

12月27(日)降誕節第一主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 ⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。            (ヨハネ3:16)

③ 讃美歌   357(力に満ちたる)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-357.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編27編1-6節(讃美歌交読詩編28頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   マタイによる福音書25章31-46節(新約50頁)

      (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  469(善き力にわれかこまれ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-469.htm

説教 「最も小さい者」  北村慈郎牧師

祈祷

   今年も日曜日としては、今日の日曜日が最後になりました。新型コロナウイリス感染に世界中が振り回されて、この一年が過ぎた感じです。船越教会の会堂での日曜礼拝も、春に緊急事態宣言が出て、4月12日(日)イースター礼拝から5月24日の日曜日までお休みしました。そのために4月12日のイースターから礼拝式と説教原稿をメールで毎日曜日配信するようにしています。それは会堂での礼拝が再開してからもずっと続けています。会堂での礼拝再開は5月31日のペンテコステ礼拝からでした。先週の12月20日のクリスマス礼拝まで続いていましたが、特にここにきて、新型コロナウイリス感染の第三波の拡大が、神奈川を含めた首都圏で続いていますので、役員と相談して、とりあえず今日の日曜日と1月3日の日曜日は、会堂での礼拝をおやすみにさせてもらいました。ということで、今日の礼拝はメール配信のみになります。

  私は、2009年に新教出版社から『自立と共生の場としての教会』という本を出しました。2009年は、2007年に当時の日本基督教団総会議長の山北宣久さんの主導によって、洗礼を受けていない人にも「開かれた聖餐」を行っているという理由で私が常議員会から教師退任勧告を受けて、ちょうど2年後になります。この私の問題が教団の中でいろいろと論議されていましたので、新教出版社の小林さんが、今までに書いたものがあれば、それをまとめて本にしてみないかと言ってくださり、出したものです。

  この本の序章「問題の所在、今、問題は聖餐なのか?」の最後に、私はこう書きました。「開かれた聖餐は、教会の礼拝に集うすべての人とともに、この世で最も小さくされた者のために全存在をささげられたイエスの出来事を想起する教会的行為だ」と。

  ここでの「この世で最も小さくされた者」は、今日の説教の聖書箇所であるマタイによる福音書の25章40節と45節にでてきます「この最も小さい者の一人」から来ています。

  このマタイによる福音書の記事は、最後の審判(世界審判)について記されたものです。そのことは、特に31節から33節までのところから明らかです。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」

  ヘンリー・ナウエンの『今日のパン、明日の糧』の中に「愛の生けるしるし」と題してこのような言葉があります。少し長くなりますが、引用させてもらいます。

  「イエスの全生涯は、御父がどれほど愛してくださる神であるかを証しするものでした。イエスは、従う者たちに、ご自分の名によってその証しをし続けるようにと呼びかけています。私たちはイエスに従う者として、神の無条件の愛の、目に見えるしるしとなるようにこの世界に遣わされています。したがって、私たちが裁かれるのは何よりもまず、私たちが何を言ったかについてではなく、私たちがどのように生きたかについてです。「見てごらん、あの人たちがどれほど互いに愛いしあっていることか」と人々が私たちについて語る時、人々はイエスがお告げになった神の国をかいま見、磁石に引き付けられるように神の国に引き付けられるでしょう。/対立、怒り、憎しみによってこのように引き裂かれている世界にあって、すべての隔てを取り払い、すべての傷を癒す愛の生きたしるしとなるというすばらしい使命を、私たちは与えられているのです。」

  最後の審判は、このナウエンの言葉からしますと、イエスが証した神の無条件の愛の生きたしるしとして生きた人が神の国を引き継ぎ、そうでない人は神の国を引き継ぐことはできないということです。

  そういう意味で、最後まで残るものは、「愛」であることを、最後の審判は示していると言えるでしょう。ご存じのようにパウロも、いつまでも残るものとして、「信仰と、希望と、愛の三つ」であると言って、「その中で最も大いなるものは、愛である」と、有名なコリントの信徒への手紙一の13章の「愛の賛歌」の中で語っています。

  そのことが信じて生きる者には、最後の審判(世界審判)は希望以外の何物でもありません。

  さて、この最後の審判(世界審判)の記事の中に出て来る「最も小さな者」とは、誰のことを言っているのでしょうか。

  注意深い人はお気づきになるかも知れませんが、新共同訳聖書では40節の方は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」となっています。しかし、45節ではただ「この最も小さい者の一人」です。45節の方には「わたしの兄弟である」はありません。実はこの「わたしの兄弟である」がついているか、いないかで「最も小さい者」が誰なのかが違ってきます。

  「わたしの兄弟である」がついていると「最も小さい者」はキリスト者を指します。ついていなければ、「最も小さい者」はこの世の社会的弱者を意味します。飢え渇いている人、よそ者(新共同訳では「旅をしていたときに宿を貸し」だが、田川訳では「私はよそ者であったが、あなた達は私を迎え入れ」)、裸の人、弱っている(病気の)人、獄(新共同訳では「牢」)にいる人のことです。社会的弱者と言ってよいでしょう。

  40節の方は、ほとんどの訳で「わたしの兄弟であるこの最も小さな者」となっていますが、田川建三訳では40節も45節も「最も小さい者」と訳されています。

  聖書は原本がなく沢山の発見された写本から原本を想定しているのですが、40節の写本の中に少数ですが「わたしの兄弟である」のないものがあるのです。田川さんは少数の写本が元来のものだという立場ですが、多くの人は40節には「わたしの兄弟である」のついている写本を元来のものとしています。

  「わたしの兄弟である」がついている場合、キリスト信者のために何かをしてやるのは、キリスト自身に対してしてあげるのと同じことであるという意味になります。マタイによる福音書の著者は、「わたしの兄弟であるこの最も小さな者」を、教会から派遣された伝道者、放浪しながら町や村にキリストの福音を述べ伝える人を指してしるという解釈があります。そういう放浪の伝道者に親切にする人は、キリストにしたことになり、神の国を受け継ぐ者になるだろうというのです。

  「わたしの兄弟である」がない場合には、この社会で、食うに困っている人、その他困難な生活状況に直面している人に何かをしてやることは、キリスト自身に対してしてあげるのと同じことであるという意味になります。

  私が「開かれた聖餐は、教会の礼拝に集うすべての人とともに、この世で最も小さくされた者のために全存在をささげられたイエスの出来事を想起する教会的行為だ」と言う場合、後者の理解に立っているわけです。

  どうしてこういう違いが生まれるのでしょうか。

  それは、イエスの語った言葉を、解釈を通して教会が受け継いでいくときに、イエスに倣うよりも、教会の神学(解釈)の枠組みの中にイエスの言葉や行為を当てはめていく作業をするからだと思われます。

  私は、イエスだったらどう語り、何をなしたのかということを大切に聖書を読んでいきたいと思っています。そういう意味で、「最も小さい者」と共に生き、食卓を共にされたイエスを想い起こしつつ、聖餐という主の食卓を誰にも開かれた形でしているのです。

  ところで、このマタイの記事においては、「正しい人たち」にしろ、「呪われた者たち」にしろ、彼らが、社会的弱者を助けた行為をしたにしろしなかったにしろ、彼ら自身には全く「する」「しない」という自覚がなかったと思われます。

  「主よ、いつわたしたちは、・・・したでしょうか」(37,38節)と「主よ、いつわたしたちは、・・・しなかったでしょうか」(44節)が、彼らには、その自覚がなかったことを示しています。

  これは何を意味するかと言えば、「正しい人たち」も「呪われた人たち」も、彼ら自身にとっては、当然のことをしていたからです。なぜ「正しい人たち」は助けることを当然と思え、「呪われた人たちは」何もしないことを当然と思ったのでしょうか。

  この違いの中には、それぞれが何に基づいて生きているか反映されているように思われます。隣人である他者をどう見るか、です。前者の「正しい人たち」は隣人である他者を自分と同じようにかけがえのない存在としてみています。そのために、もしその隣人である他者が飢えていたら、自分が飢えているように感じたのではないかと思われます。ですから、そのような飢えた隣人に手を差し伸べるのは当然のことと思っていたに違いありません。

  他方、後者の「呪われた人たち」は、隣人である他者は自分とは異なるあかの他人であって、自分とは関係のない人だったのです。その隣人がどのような状態であっても、自分には関係ないので、何もしない。それが当然であるとして生きていたと思われます。

  私には両者の違いがこのように考えられます。前者の人たちは、誰一人除外されない、すべての人が対等同等で、それぞれが互いに愛し合って生きる。ヘンリー・ナウエンによれば、見えない神の国の住民としてこの世を生きている人たちではないかと。

  それに対して後者の人たちは、上層階層の人たちを生み出すと同時に、最下層の人たちを生み出す資本や権力が幅を利かせている現実社会に包括された一員として、そのことに何の矛盾も感じないでか、感じていても、それ以外の道はないので仕方ないとあきらめて生きている人たちではないでしょうか。

  イエスに従うキリスト者である私たちが、どちらの道を歩むかは自ずから明らかです。願わくは、神が私たちを現実社会のしがらみから解き放ってくださって、イエスに倣って、自分を愛(=大切に)するように隣人である他者を、特に「最も小さくされている人たち」を愛(=大切)にして生きていけますように、私たちに命の力を与えてください。利己的な私たちにはできなくても、あなたにはできないことはありませんので。

 

祈ります。

  神さま、今日も礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。新型コロナウイリス感染再拡大のために、教会で皆が集まってする礼拝はできませんが、このようにメール配信によって共に礼拝にあずかることができ、感謝します。 

 ヘンリー・ナウエンは、「私たちが裁かれるのは何よりもまず、私たちが何を言ったかについてではなく、私たちがどのように生きたかについてです」と言っています。私は牧師として毎日曜日に説教を語っています。その語る言葉が、自分がどのように生きているかと乖離していることに恐れる者です。

 神さま、イエスによって現実社会の規範から自由にされた者として、イエスと共にあなたの御心を大切に、互いに愛し合って生きていけますように。そして平和で人権が脅かされない社会を築いていくことができますように、私たちを導いて下さい。

 今コロナの問題で、仕事を失い、生活が困窮している人がたくさん出ています。どうか政治の力によって、その人たちの命と生活が守られますように、政治に携わる人たちにその力をお与えください。医療の現場を担っている人たちを支えてください。

 グローバル・サウスの人たちは、私たち以上に厳しい状況に置かれていると思われます。どうか助けの手が与えられますように。

 私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。

 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。

 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

 この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

⑩ 讃 美 歌   563(ここに私はいます)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-563.htm

 ⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                               

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

 ⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。       アーメン     

⑭ 黙  祷(各自)

 

これで礼拝は終わります。