なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(83)

6月28(日)聖霊降臨節第5主日礼拝(通常10:30開始)

 

(注)讃美歌はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

 

③ 讃 美 歌  19(み栄え告げる歌は)を歌いましょう(各自歌う)。

讃美歌21 19(み栄え告げる歌は)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-019.htm

⓸ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

 

⑤ 交 読 文  詩編84編2-13節(讃美歌交読詩編93頁)

        (当該箇所を黙読する) 

 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書18章10-20節(新約35頁)         

        (当該箇所を黙読する)

 

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

 

⑧ 讃 美 歌    470(やさしい目が)を歌いましょう(各自歌う)。

讃美歌21 470(やさしい目が)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-470.htm

 

説教 「心を一つにして」 北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 先程司会者に読んでいただきました「『迷い出た羊』のたとえ」(新共同訳表題)は、有名なイエスの譬えです。100匹の羊の中の一匹がその群れからはぐれたというのです。
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  • 並行記事のルカによる福音書では、その一匹の羊は、群れから「失われた」羊と言われています。それが、マタイによる福音書では「迷い出た」羊と言われています。「失われた」と「迷い出た」という小さな言葉の違いですが、そのニュアンスは大分違います。

 

  • ルカの場合のように、群れから「失われた」羊という言い方には、単純に、たまたま群れからはぐれていなくなってしまった羊とう意味で言われていると思われます。けれども、「迷い出る」という言い方は、少し否定的な感じがします。99匹の羊たちは群れの中にちゃんといて、一匹だけが群れから迷い出て行ってしまったという感じです。「迷いでない99匹の羊のようでなければなりませんよ」という教訓的なニュアンスを、「迷い出た」という言い方から感じます。

 

  • 実際マタイによる福音書では、10節の「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」という、教会の指導者への勧告との関連からも、「迷い出た」一匹の羊は、「いったんキリスト教信者になった教会員の中で、その後になって信仰が不安定になり教会を離れそうになった者」のことを言っています。マタイは「教会の指導者はちゃんと探しに行って、教会にもどるようにさせなければいけない、という説教にして」〔田川〕いるのです。

 

  • こういう教会を前提にした言い方を、実際にイエスはしたのでしょうか。

 

  • 多分イエスが100匹の羊の譬えを語ったときには、ルカの並行記事のように、99匹を野原に放置して、「失われた」一匹の羊を探し、見つかったら喜び祝うというこの譬えだったと思われます。この譬えによって、当時のユダヤの社会の中で疎外されて、周縁に追いやられていた人々の回復を喜び祝ったイエスの振る舞いが言い表されたのでしょう。

 

  • マタイは、そのようなイエスの譬えを、ある面で換骨奪胎して、自分たちの教会の教えとして用いているのです。15節以下には、よりはっきりとこのマタイの立場が出ています。そこには、罪を犯した兄弟への忠告が記されています。

 

  • まず、「兄弟があなたに罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」(15節)と言われています。そこで言うことを聞かない場合は、証人を立てなさいと言われます。「聞き入れなければ、ほかに一人が二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるため」(16節)だというのです。

 

  • これは、基本的には申命記19章15節に記された律法の規定に基づいて言われています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」。
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  • 「それでも聞き入れられなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なさい」(17節)。

 

  • こんなことをイエスが言ったとはどうしても考えられません。これは、明らかにマタイの教会がイエスをして語らしめているものです。ひどい物言いです。マタイの教会は、「自分たちの『教会』公認の者以外はすべて滅びる」と考えていたようです。
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  • 洗礼を受けて教会員になった者以外は、自分達とは違うという枠組みを、今でも教会によっては強くもっているところがあります。そういう考え方からしますと、教会公認以外の人たちは、伝道の対象であって、共に生きていく仲間ではないことになります。

 

  • マタイによる福音書の18章17節にでてくる「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」ということは、「異邦人と徴税人」が否定的な存在と見られていたことを示しています。「いかにマタイの教会の信者たちが、異邦人や徴税人を蔑視していたか、という露骨な表現」です。田川建三さんは、このようなことを平気でマタイは書くのだから、「宗教的独善意識のしつこさは何ともはやと申し上げる以外に言いようがない」と言っています。
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  • 18節以下でも、「あなたがた」は、明らかにマタイでは教会指導者を意味します。ここで「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とは、何を意味するのでしょうか。一つは、「あなたがたが地上で正しいとすることは天でも正しいと認められるが、間違っていると判断するものは天でもそのように認められる」という解釈です。もう一つは、この「つなぐ」とか「解く」を、教会員として認めるか、破門するか、を意味するという解釈です。マタイ18章は「教会指導者の権限」について語られているところなので、ここの意味は後者ではないかという人がいます。

 

  • 今の私たちであれば、教会員を破門されたとしても、ほとんど痛痒を感じないかも知れません。けれどもマタイの教会では、そういうわけには行かなかったのではないでしょうか。マタイの教会の教会員であるということは、マタイの教会の共同体の一員で、教会共同体は生活共同体でもありましたので、そこから破門されたら、どこにも行き場がなかったのでしょう。極端に言えば、マタイの教会を破門されたら、その人はユダヤ教徒の多いところで、生きていくのも難しかったのかも知れません。

 

  • 20節に「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とう言葉があります。

 

  • この言葉は、イエスの名によって2、3人が集まるところに、イエスも共におられるということで、必ずしも教会に限らず、人が2,3人イエスの名によって集まるところにイエスもおられる、というように、比較的自由に解釈して、わたしたちの中で語られてきたのではないでしょうか。

 

  • しかし、ここの「わたしの名によって」は、原文からはそうは訳すことができず、ここは「わたしの名に向かって」と訳すべきであるというのす。そして「イエスの名へと向かって洗礼を受ける」という言い方があって、ここもそれに類するものと思われますから、洗礼を受けた2,3人が集まるところに、わたしもその中にいる、というように読めるところだというのです。

 

  • こういう教会の閉鎖性は、マタイの教会にとっては大切なことだったのでしょうが、今の私たちには同じように考えることはできません。神の宣教(ミッシオ・デイ)の考え方からしますと、神―教会―世界ではなく、神―世界―教会です。神はイエス・キリストをと通してこの世界(全人類と全被造物)を救うために働いているのです。イエスとともに生きる群れである教会は、その神の働きに証言をもって参与しているに過ぎないのです。私たちはそのことを大切にしたいと思って、開かれた教会をめざし、聖餐も開いているのではないでしょうか。

 

  • しかし、残念ながら私たち人間の歴史が続く限り、そのような神に救済された世界は完全には到来しません。ただイエスは、そのようなあるべき神の未来(=神の国)を先取りして、その福音をこの世に生きる私たちにもたらしてくださったのです。そして、あるべき神の未来の物語を人間の物語としてこの世を生きる道を、私たちに与えてくださっているのではないでしょうか。

 

  • 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ人への手紙11章1節)と言われていますが、この信仰に関する聖書のことばも、信仰があるべき神の未来の先取りであることを言い表していると言えるでしょう。

 

  • そういう意味で、教会はあるべき神の未来としての神の国のスタートとでも言える人間の集まりで、毎日曜日の礼拝はその喜びの祝祭とでも言えましょうか。そしてイエスを信じて、イエスとともに生きる群れの一員として生きる者は、この世では「旅人」「寄留者」と聖書でも言われていますから、この世に生きながら、この世から自由に生きられる人間ではないかと思います。実際にはそれがなかなか困難なのですが。でも教会に連なっている人は、多かれ少なかれどこかにその福音の自由という魅力を感じているのではないでしょうか。

 

  • 経済成長という偶像神を信じ、グローバリズムの社会の中で世界大に膨らんだ自分さえよければという自己中心的な人間の罪が、世界を滅びに誘導しているかに思われるのが現代です。その現代社会の中で、一人も滅びない平和と正義と喜びの満ちる神の国を先取りして、私たちは今ここで、イエスとともに生きる群れの一員として生きていることを、改めて自覚させられたいと思います。

 

  • マタイ福音書のように、洗礼を受けた信仰者の「二人または三人がわたし(イエス)の名によって集まるところには、わたし(イエス)もその中にいるのである」としても、そのイエスは、信仰者に先立って歩んでいるのです。教会から迷い出た信者を教会に引き戻すだけでなく、この社会から疎外されて苦しんでいる、信仰があろうがなかろうが、いと小さくされている失われた一匹の羊を、99匹を野原に放置して、探し求める方がイエスなのです。そして見つけたら、その羊を肩に担いで、その羊の回復をみなと共に喜ぶ方なのです。

 

  • マタイ福音書で、二、三人の信仰者がイエスの名によって集まるところに、その中にいると言われるイエスは、そのような方なのです。現代社会の中で、イエスが誰と共にい給うのかを見極める目を与えられて、私たちに先立って歩んでおられるイエスを見失わずにいたいものです。

 

  • また、私たちの教会も、そのようなイエスとともに生きる群れとして成長していきたいと願います。主がその力を私たちに与えてくださいますように!祈ります。 神さま、今日もこの船越教会で礼拝を共にできましたことを、心から感謝いたします。 今世界中の人々が、新型コロナウイリス感染に対する不安と恐れによって、また、それに伴う経済活動の停滞により、大変な混乱の中に置かれています。そういう中で、人間による人間の差別が顕在化し、その抗議行動も広がっています。 私たちの教会とイエスを信じる私たち一人一人が、今そのイエスの福音の力を証しすることができますようにお導きください。そして多くの人がそのことに気づき、今までの生活を変えていくことができますようにお導きください。  今も様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン⑩  495(しずけき祈りの)を歌いましょう(各自歌う)。
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  •  今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  •  今日礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  •  このような今だからこそ、誰一人見捨てずに、その尊厳が大切にされて、互いに愛し合い、支え合い、助け合って、共に生きる道へと私たちを導くイエスの福音の力が求められているのではないでしょうか。
  •  今日のマタイ福音書の個所から、私たちの教会には、イエスを自分に都合よく変えてしまう誘惑があること、そしてその誘惑に私たちの教会は弱いことを示されました。神さま、どうか私たちを、私たちの思いの中にイエスを引き入れるのではなく、私たちがイエスの思いと行動に与かる者としてください。
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讃美歌21 495(しずけき祈りの)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-495.htm

⑪ 献  金

(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

                     

⑫ 頌  栄  28(み栄えあれや)

讃美歌21 28(み栄えあれや) https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo 

祈 祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

 これで礼拝は終わります。