なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(88)

8月2(日)聖霊降臨節第10主日(平和聖日)礼拝(通常10:30開始)

 

(注)讃美歌はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

③ 讃 美 歌  202(よろこびとさかえに満つ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-202.htm

 

⓸ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

 

⑤ 交 読 文  詩編68編2-11節(讃美歌交読詩編71頁)

        (当該箇所を黙読する) 

 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書20章17-28節(新約38頁)

        (当該箇所を黙読する)

 

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

 

⑧ 讃 美 歌   494(ガリラヤの風)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-494.htm

⑨ 説教 「命をささげる」 北村慈郎牧師

  祈祷

 

  • 私は、まだ帰天した連れ合いのことが心にあって、なかなか集中して本も読めないでいますが、それでも最近鈴木範久著『日本キリスト教史~年表で読む~』を、少しずつ気が向いた時に読んでいます。その本を読んでいて、植村正久のこんな言葉に出会い、びっくりしました。これは雑誌『労働世界』の記者に対して答えたものですが、本の著者は、「雑誌『労働世界』の記者に対して答えた次の植村正久の意見は名高い」と言って、このように記しています。
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  • ≪今日の労働問題と教会とは相容れない者です。何(な)せと云ふに今日の教会は資産家の寄付で維持されて居る者でありますし牧師も亦ツマリ資産家に養はれて居るのでありますから。/其の上に今の教会の趣味と云う者が全く労働者の趣味とは違ごうて居ります。/而して自分一個から云いひましても、私は労働者の教会へ来ることを好みません。腕まくりする様な連中の教会へ来ることを好みません。労働者などは相手にするに足らない。(『労働世界』六年一三号、1902年8月10日)≫。

 

  • 明治33年が西暦1900年ですが、江戸時代末期から明治時代にかけて日本に入ってきたキリスト教はこの頃より初期の労働運動を担った信徒に代わり、教会を形成する信徒層に変化が現れてきます。「都市部の教会には、産業界の変化にともない、会社員、教員らとその予備軍の学生が中心となりつつあった」のです。そういう背景があって、植村のこの言葉が出てくるのです。植村は富裕層を志向した中産インテリ階層を担い手とした教会を考えていたと言えるでしょう。

 

  • それにしてもこの植村の言葉はひどいものです。

 

  • 私の紅葉坂教会牧師時代に、牧師と役員会が提案者となって、牧会方針と年度計画を毎年3月の総会で諮りましたが、その中の基本方針の一つに、「最も弱い立場に置かれた者の視点を大切にして教会の宣教を考え、その課題を担う。」という項目がありました。これは私自身も大切な課題にしているものです。今紹介した植村正久の言葉に示されている教会の宣教の考え方からしますと、真逆な方向性かも知れません。

 

  • さて、今日私たちに与えられましたマタイによる福音書の箇所(20:17-28)も、この基本方針に通じるものがあるように思われます。17節から19節には、十字架を前にしての三度目のイエスの受難と復活の予告が記されています。そこには、「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである」(18-19節)と言われています。これはイエスの「下に降る」姿と言えます。

 

  • フィリピの信徒の手紙26節以下に出てくる初代教会のキリスト讃歌に歌われていますイエス・キリストの姿に通じます。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(2:6-8節)というのです。

 

  • 低みに降る神と言いましょうか。小さく貧しい人々のところに率先していかれる神が聖書の神で、その神の御業をイエスが体現しておられるのだというのです。力をもって人々を自らの支配下に入れるというのではなく、命をささげるまでに他者に仕える方がイエスであるというのです

 

  • ところが、そのイエスに従っていた弟子たちは、イエスとは全く逆に、自分が他の人よりも高くなること、「上を求めていた」ことが、今日のマタイの後半(20:20-28)のところで明らかになっています。ゼベダイの子ヤコブヨハネの母親が、二人を連れてイエスのところにやって来て、ひれ伏し、何かを願おうとしたというのです。イエスは、「何が望みか」と言われると、彼女は「私のこの二人の息子があなた様の御国において(新共同訳では、「王座にお着きになるとき」、これは意訳)一人があなた様の右に、一人があなた様の左に座るようにと、おっしゃってください」(田川訳)と言ったというのです。
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  • ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」(24節)というのですから、十二弟子たちはみんな上にあがりたがっていたのでしょう。イエスはそのような弟子達一同を呼び寄せて言われました。「あなた達も知っているように、諸民族を支配している者たちが彼らに対し君臨し、地位の高い者たちが彼らに対して支配権力をふるっている。あなた達の間では、そうであってはならない。あなた達の間で大きい者となりたい者はあなた達(新共同訳「皆」)に仕える者となり、あんた達の間で第一者となりたい者はあなた達(新共同訳「皆」)の奴隷となるがよい。それは、人の子が来たのは仕えられるためではなく仕えるためであり、自分の生命を多くの者のために身代金として与えるためであるのと同様である」(25-28節、田川訳)。

 

  • マタイ福音書2027節のマルコ10:44節の並行記事は、「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」とあります。マタイの「皆の(あなた達の)僕」はマルコでは「すべての人の僕」です。マルコが「すべての人の(田川「万人の」)と言うことによって、視野を大きく社会全体に広げているのに、マタイは狭くるしい教会内の人間関係のことしか考えていない」(田川)のです。

 

  • ここには低みに立って仕えるというあり方と、上に立って支配するというあり方が対照的に描かれています。

 

  • 今迄もしばしばこのマタイ福音書の説教で紹介していますが、マタイ福音書の注解を書いているルツはこの個所についてこのように述べています。少し長くなりますがお聞きください。
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  • ルツは≪マタイにとって、教会の奉仕構造は教会における支配構造の放棄を意味している≫と言っています。

 

  • そして、≪それは教会の法構造にとって何を意味するだろうか。≫という問いを立て、≪教会史においては、20:24-28(仕えらえるの人ではなく、仕える人になれ)や18:1-4(自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ)のような箇所はかつてほとんど教会法に対する原則とは理解されなかった≫。≪大教会のどれも、その構造においてマタイ的意味での「奉仕」教会ではない。・・・・マタイ的意味で原則として下方に、すなわち奉仕へと方向づけられ、上方に、すなわち力へと方向づけられてはいない教会において、そもそも構造というものが、すなわち「上位者」と「下位者」、牧師=司祭と「平信徒」が存在して良いのだろうか。そもそも制度化された教会「政治」が存在して良いのだろうか。制度化された教会においては何らかの形の支配が不可避であるように思われる。いかなる特別の「奉仕」も、とりわけそれが権限や知識あるいは特別な天賦の才能と結びつけられているなら、それは常に力の行使でありまた支配ではないだろうか。自らの法を実際にこのマタイ(およびイエス!)的指針にそって整えた教会がいまだ一つも存在しないことは正しいことなのだろうか。≫

 

  • ≪それよりずっと頻繁に、われわれのテクストは(しばしば意識されることさえなしに)教会に非常に現実的に存在していた、そして今も存在している支配を覆い隠したり「言い換え」たりすることに用いられてきた。しかし、教会において(ほとんどただ一人!)代表発言をする者たちが自分たちは謙虚な「牧会者」であると名乗ったり、あるいは教会でプロートス(筆頭者)である者が自分は謙虚な「神の奴隷のなかの奴隷」であると名乗ったりしたとしても、それでわれわれのテクストに十分なことをしたわけではない。≫

 

  • エスやマタイの指針は一つのユートピアなのだろうか。いずれにせよ、教会の法を「奉仕・法」として展開させることはすべての教派でこれから先もっとも真剣に受け取られなければならない課題である
  • (ルツ『マタイ』204-205)。

 

  • ルツは、「制度化された教会においては何らかの形の支配が不可避であるように思われる。」と言い、「自らの法を実際にこのマタイ(およびイエス!)的指針にそって整えた教会がいまだ一つも存在しないことは正しいことなのだろうか。」「イエスやマタイの指針は一つのユートピアなのだろうか。」と問いかけ、「いずれにせよ、教会の法を「奉仕・法」として展開させることはすべての教派でこれから先もっとも真剣に受け取られなければならない課題である」と言っているのです。
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  • 十字架に向かうイエスの生き方と、上に立って支配するという生き方が対照的に描かれています今日のこの聖書の箇所は、私たち一人一人においてはどのように受け止められているのでしょうか。
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  • ヘンリ・ナウエンは正直にこのように語っています。

 

  • 私の内にあるものはどれも、上を目指すことを求めます。イエスと共に下に向かうことは、私の意思に徹底的に反します。周りの世界からくる忠告に反しますし、私もその一員である文化に反します。ラルシュ(意味は「箱舟」、ジャン・バニエによって創設された精神障がい者とそうでない人との少人数の共同体。ヘンリー・ナウエンは神学者の生活から晩年ラルシュのメンバーになる。そのラルシュ)に住む貧しい人々と共に貧しくなる選択をしても、いまだに私はそう選択したことへの賞賛を得たいと望んでいます。私がつねに直面させられることは、十字架へと向かうイエスの生き方に従うことへの頑固なまでの抵抗です。それが物質的であろうと、知的であろうと、感情的であろうと、どんなことでも貧しくなるのを、手を尽くして避けたい自分がいます≫。

 

  • ただイエスだけが、すなわち、ご自身に神のすべてを宿らせている方だけが、何のこだわりもなく、すべての面で完全に貧しくなることを選択することができました。今の私にはっきりしてきたことは、貧しくなる選択とは、人生の旅路のあらゆる場面で、イエスと共に歩むことを選ぶということです。自分の力で真に貧しくなることはできませんが、「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)≫。

 

  • ≪イエスにあって、イエスを通して、真の貧しさは自ずと私の前に開かれると信じます。すなわち、私の貧しさではなく、神の貧しさこそが価値あるものであり、それが私の人生を通して目に見えるようになるのです≫。

 

  • ≪これは、非現実的に聞こえるかもしれません。しかし、イエスと共に、また貧しい人々と共に歩む誓約を宣言した男性たちや女性たちを目にすると、下に向かうというイエスの道が、いかに現実的であるかを見ることができます≫。

 

  • ≪また、その道を歩むとしても、決して一人ではなく、「イエスの体」の一員として歩むのだということが分かります。個人的なヒロイズムと共同体的な従順の違いを、これほどまでじかに私が体験したことはありません≫。

 

  • ≪貧しくなることを、何か達成せねばならないもののように考えますと、私は落胆します。しかし兄弟姉妹たちが、イエスに従う道を共に歩もうと招いていることに気づいてからは、希望と喜びで満たされています≫(以上、ヘンリ・ナウエン『福音書』18-19)。
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  • 私たちの教会が十字架に向かうイエスに従う者たちの群れとなるように祈りたいと思います。また、私たち一人一人が社会における日々の生活にあって、十字架に向かうイエスに従って、貧しく、小さくされている方々と共に歩もうとする仲間の一員として、希望と喜びをもって日々を歩んでいけますようにと祈りたいと思います。

祈ります。 

  • 神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。イエスは、今も十字架に向かう歩みを私たちの中で続けています。そして、そのイエスに私たちが従って生きるようにと、私たち一人一人をイエスは招いておられます。神さま、どうぞそのイエスの招きに、私たちが従って生きて行けますようにお導きください。 
  • 今日は平和聖日です。平和は人が下に降り、互いに仕え合うことによって到来します。上を求めて、他者を支配し、奪い合う私たちからは平和は失われ、むしろ戦争が引き起こされます。今のこの世界の現実は戦争状態に等しく思われます。どうか私たちをイエスに従って平和を作り出す者にしてください。
  • 今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • この奪い合う社会の中で、命と生活が脅かされている方々を支えてください。また、様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

⑩ 讃 美 歌   469(善き力にわれかこまれ)                      https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)       

   讃美歌21 28(み栄えあれや)

  http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-469.htm

⑬ 祝  祷

  •  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン