「イエスの苦難に参与する」 マタイ10:16-25
2019年10月6日礼拝説教
- マタイによる福音書の著者は、10章全体をイエスが弟子たちを宣教に派遣するに当って与えられた訓告(教えや注意)という形に編集しています。今日の部分では、弟子たちの前に迫害の苦難が待ち受けていることが予告されています。つまり弟子たちは派遣された所で迫害の苦難を味わわなければならないというのです。
- この部分は実際にイエスが語られたというよりは、最初期の教会が直面した迫害に基づいて、教会が後からイエスの発言として弟子派遣説教の中に入れたと考えられています。パレスチナのユダヤ人を中心とした最初期の教会はユダヤ教徒との軋轢で苦しんだと思われます。また、非ユダヤ人を中心としたヘレニズムの教会はローマ皇帝の権力との軋轢に苦しんだと思われます。今日のマタイの箇所にはそういう最初期の教会が直面した迫害が想定されます。その迫害に対して教会が伝道者に対して語ったと思われる言葉が、イエスから語られたものとしてここに記されているものと思われます。
- 前回のマタイ福音書10章5-15節の、12人の弟子派遣説教では、≪町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい≫(11節)と言われていますから、弟子たちが派遣された所で迫害の苦難を味わうということは考えられていないように思われます。
- ≪帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である≫(10節)と言われていますので、「伝道に携わる弟子たちの生活は厳しいとはいえ、彼らは彼らの言葉を聞く者に対しては明らかに優位に立っています。相手が弟子たちの言葉を聞かない場合、彼ら(弟子たち)には平和が〔13節〕、相手には滅びが約束されています〔15節〕」。10章13節から15節にそのことが記されています。≪その家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃(ほこり)を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む≫と。
- そこでは迫害は何ら言及されていません。
- ところが今日の箇所では、「相手が平和を受け入れるか考える余地もなく≪人々を警戒しなさい」(17節)と言われているのです。「伝道者は人々から憎まれ中傷されるのみでなく、逮捕された上、裁判と処刑が待ち構えているというのです」。その中にあってひるむことなく、信仰を告白しつづけるように勧めています。
- そのためには、≪蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい≫(16節)と勧められているのです。
- その点をもう一度、マタイによる福音書の10章17節以下を読んで確かめておきたいと思います。
- 17節から20節まで。
- ≪人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである≫。ここには≪地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる≫と言われていますから、弟子たちを迫害するのはユダヤ教徒でることが示されています。≪また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる≫。ここには≪総督や王の前に引き出され≫とありますから、ローマの国家権力による迫害が考えられています。≪引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくれる、父の霊である≫。
- このイエスが弟子たちを教えさとしているマタイによる福音書の言葉は、イエスが十字架にかかったように、同じように弟子たちも十字架の苦しみを受けるということが語られています。そしてそれがイエスの弟子としてイエスを証(あかし)することであると言うのです。
- ここでは、裁判にかけられ、政治的権力によって弾圧が加えられるという、まさにゴルゴダの丘でピラトに十字架にかけられたイエスの苦しみを弟子たちが追体験するというのです。佐藤研さんが言うとおり、「自分の十字架を負うて私に従いなさい」というイエスの招きは、私たちがそれぞれ日常の生活で負っている苦しみとしての重荷ではなく、ゴルコダの丘のイエスの十字架を負って私に従いなさいということなのです。
- マタイはその時、「言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」と言っています。
- 私はこのマタイの箇所を読んでいて、この言葉に引っかかりました。イエスを信じて従う者には、深いところで自分ではなく「父の霊」に突き動かされて生きているところがあるのだということを、改めて気づかされました。
- そこで、イエスのゲッセマネでの祈りを想い起こします。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)と、イエスは十字架の苦難を前にして祈られたと言われます。
- このゲッセマネのイエスの祈りは、イエスもまた、自分の願いと神の御心の成就との狭間での葛藤を経験されたことを意味します。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という信仰によって、イエスは神に自らを委ねて十字架の人となりました。そして、十字架上でも「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、イエスは叫ばれたと言われます。神に自らを委ねたイエスにおいても、自分がなくなるわけではありません。そういう自分を父の霊が包み込んでイエスは十字架にかかったのでしょう。
- 国家権力による迫害について考える時に、私は、国家権力と対峙せずに迎合することによって、国家権力による迫害と十字架の苦難を回避した戦時下の日本基督教団のことを想い起こさざるを得ません。当時の教団の指導者は、驚くべきことに、イエスの福音宣教と日本の天皇制国家の戦争行為が相反するものだとは考えなかったのではないかと思われます。教義としての復活信仰が否定されたときには迫害を覚悟したと言われていますが、日本の侵略戦争には迫害を覚悟して反対することなく、むしろ積極的に協力しているのです。私たちは戦争責任告白をして、その過ちを反省したことを忘れてはなりません。
- マタイによる福音書の今日のところの後半の21節から23節にはこう記されています。
- ≪兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る≫。
- すごいですね。先ほど述べましたように、今日のマタイの箇所の前半では、弟子たちに対するユダヤ教徒やローマの国家権力による迫害が問題になっていますが、後半の箇所では、家族からの圧迫が問題になっているのです。日本人である私たちには、大変厳しいことが語られています。
- 私たち日本の伝統文化では、個々人よりも家族が中心に考えられてきました。本当の意味で個々人の人権が家族関係の中でも大切にされているかと言えば、はなはだ心もとない状況が私たちの中には今でも強くあるように思われます。かつては子どもが父親をバットで殴り殺すという事件が起きましたが、今は幼い子どもが親によって虐殺されるかのような事件が起きています。このような事件の背後には、個の尊厳と子どもの人権が十分認められていない日本の文化的な状況があるのではないかと思われます。私たちは「私」という一人称単数の形で自分を言い表しますが、その「私」は本当に個の尊厳に基づいた、神の前に単独者として立っている「私」であるのかがが問われます。「私」とは言いますが、その「私」の中身は、集団主義的な村的な共同性を強くもっている「私たち」ではないか。神の前でのかけがえのない「私」をもって、一人一人生きているでしょうか。私たち日本人の多くは、他者との共依存の私になりやすく、神の前での単独者としての私として立つことが、なかなか難しいのではないでしょうか。その意味で家族からの圧迫の問題は、私たちにはなかなか厳しい問題です。
- 迫害される弟子たちは、ユダヤ教徒やローマ国家や家族からの圧迫だけでなく、「わたしの名のために、あなたがたは、すべての人に憎まれる」と言われています。弟子たちはイエスの弟子なのです。十字架のイエスは、まさしく全ての人に憎まれて十字架の人となったのです。キルケゴールはキリスト者は「愛を十字架につけ、バラバの命乞いをするこの世の中において、あの方が苦しみ給うことを、自分も及ばずながら苦しむという、ただ一つのこと」をねがうのである、と言っています。
- このことが信仰告白ということです。
- イエスの十字架は、イエスがこの世の権力者によって命と生活が脅かされていた病者や差別されて苦しんでいる人への共感をもって、神の支配の下で対等同等な他者であるそのような人々と共に生きられたために、この世の権力者はイエスを恐れて十字架に架けて殺した出来事です。
- 私たちキリスト者も神によってこの世に派遣されている一人ひとりであると、私たちは信じています。派遣されてこの世にあるということは、最初期の教会の伝道者や信徒が直面した、同胞の人々との軋轢、国家権力との軋轢、家族の者との軋轢を私たちも避けることは出来ないということではないでしょうか。そのことは、私たちもまた、イエスの十字架を負わざるを得ないということです。
- 今この時代における、「「愛を十字架につけ、バラバの命乞いをするこの世の中において、あの方が苦しみ給うことを、自分も及ばずながら苦しむという、ただ一つのこと」をねがう信仰告白とは、私たちにとって何であるかもう一度考えることができれば、幸いです。