なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(117)

4月4日(日)イースター礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう

(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    204(よろこびの日よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-204.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編66編1―9節(讃美歌交読詩編69頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書28章1-10節(新約59頁)

    (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌  425(こすずめも、くじらも)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-425.htm

説教     「恐れながらも喜び」  北村慈郎牧師

祈祷

  • 今日は、十字架に架けられ、殺されて、葬られた、イエスが復活した日です。このイースターの出来事によって、一度十字架を前にして、自らの弱さと過ち(罪)によってイエスとの関係を、「裏切り、逃亡、否認」という形で、自分から断ち切った弟子たちが、再び新たにイエスとの関係を築き直し、イエスの弟子として生きていくようになります。ですから、イエスの復活がなければ、ガリラヤから始まったイエスの運動は、イエスの死によって終わってしまったに違いありません。

 

  • その意味で、イエスの復活によって、イエスを信じる人々の群れである教会が誕生したと言えます。聖霊降臨は、復活して今も私たちと共にいてくださるイエスを信じて、私たちが生きていけるようにしてくださる神の霊です。命の風です。教会に連なる私たちは、その神の命の風を日々受けながら信仰者として生きているのではないでしょうか。今日はそのことをもう一度確認することができればと思います。

 

  • 実は、マタイ福音書28章1-10節をテキストにイースターの礼拝説教を、船越教会で今までにも2回はしています。以前にした説教と重なるところが少しあるかも知れませんが、ご容赦ください。

 

  • さて、キリスト者にとっての神信仰は、十字架の死からイエスを甦らせてくださった、イエスが「アッバ、父よ」と祈り、信じた神を信じる信仰です。その神は、十字架上のイエスが、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と叫んだ神です。

 

  • このイエスが叫び祈った神は、十字架からイエスを引き剥がして助けてくださる神ではありません。むしろ、十字架の苦しみをイエスと共に担っている神です。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と叫ぶイエスと共におられる神です。そして十字架につけられて殺され、葬られたイエスと共に、使徒信条によれば、「陰府に」まで降られた神です。

 

  • 昨日清水ヶ丘教会で教区総会がありました。定足数不足で総会は成立しませんでしたが、総会出席者は陪席という形で、常置委員会決議で3人の方の按手礼式が行われました。質疑応答のときに一人の按手礼志願者の方が、こんなことをおっしゃいました。昨日は土曜日です。教会歴では一昨日がイエスが十字架につけられた受難日で、今日の日曜日にイエスが復活したわけですから、昨日の土曜日は、イエスはお墓にいたことになります。そのような日に総会が開かれ、自分が按手礼を受ける意味を自分なりに考えさせられたというのです。その方は、この日イエスは「陰府に」に下り、既に召された人々に福音を語り、慰め励ましておられたのではないかという趣旨のことをお話ししました。イエスの埋葬にも共なる神は、死者たちにもイエスによって福音を伝え、慰め励まし、生きている者だけなく、死者たちをも救おうとされたというのです。

 

  • エスが十字架に架けられ、殺され、そのように墓に埋葬されてから、「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアの二人が、イエスの埋葬された墓を見に来ました。二人は安息日が始まる前にあわただしく葬られたイエスのことが気になり、安息日が終わった日曜日の朝早くイエスが埋葬されたお墓にやって来たのでしょう。

 

  • マタイ福音書では、このイエス復活の記事の前に、イエスの遺体を弟子たちが盗み出して、復活したと言いふらすのを恐れて、ファリサイ派の人々はピラトに願って、イエスの葬られた墓の前に番兵を置いたと記されています(27:62-66)。しかし、二人の女性が墓に来た時、これもマタイ福音書にしか記されていないのですが、「大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(2-4節)と言われています。

 

  • 「天使は婦人たちに言った。恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かにあなたがたに伝えました」(5-7節)と。

 

  • 「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び(「恐れと大きな喜びとをもって」)、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行きました」(8節)。

 

  • 「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』(喜びあれ、平安あれ)と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる』」(9-10節)

 

  • この記事によりますと、二人のマリアは、空っぽの墓の前で復活した、十字架につけられたイエスの足を抱いたと言われています。ここで二人のマリアに出会っているのは、十字架につけられて殺されたイエスご自身なのです。殺されて、死んで、墓に埋葬されている筈のイエスが、復活して二人のマリアの前にいるのです。そしてそのイエスの体の一部である足を、二人のマリアは抱いたというのです。この時二人のマリアは、イエスの十字架において感じた死の恐れや死の支配から自由になっていたに違いありません。「イエスは死んだ」から「イエスは生きている」に変わっていました。

 

  • 十字架のイエスである、復活のイエスに出会って、イエスの足を抱き、その前にひれ伏している二人のマリアに、十字架を前にしてイエスを否認し、逃亡した弟子たちをイエスは「兄弟たち」と言って、このように語ったというのです。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と。

 

  • エスが十字架に架けられたとき、弟子たちは「裏切り、逃亡、否認」によって、イエスを捨ててしまった者たちです。イエスの十字架による処刑後も、弟子たちは、自分たちも捕まるのではないかと恐れて隠れていました。そんな自分たちのことを、弟子たちは、イエスが「わたしの兄弟たち」と、イエスを裏切ってしまった今も思ってくれているとは、想像すらできなかったことでしょう。けれども、二人のマリアに復活したイエスは、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と、確かに語ったというのです。

 

  • この世に生きている以上、私たちは「恐れ」から自由になることはできません。病気や貧困、拷問など、その恐れは、つきつめて言えば「死」への恐れではないかと思われます。けれども、復活のイエスによって、その「恐れ」から解放されて、「大きな喜び」が私たちには約束されているのです。復活の主イエスがこの世にあって恐れの只中にある私たちに「恐れることはない(喜びあれ、平安あれ)」と言ってくださるからです。

 

  • ガリラヤからイエスに従ってきた弟子たちや群衆は、イエスを十字架にかけて殺した権力者たちを恐れて、イエスを裏切ったり、イエスの下から逃げ去ってしまいました。自分たちもまた、イエスのように十字架に架けられて殺されてしまうのを恐れたからです。この恐れから解放されない限り、ガリラヤにおいてイエスが宣べ伝えた神の国の到来を信じて、イエスに従った弟子たちや群衆が、これからもその道を生きていくことは不可能だったでしょう。十字架に架けられ殺されて、イエスがいなってしまったのですから。

 

  • けれども、聖書はその十字架に架けられ殺されたイエスが復活して、霊において弟子たちや群衆と共にあると告げているのです。ガリラヤからエルサレムのコルゴダまでは、肉のイエスが弟子たちや群衆の先頭に立って、神の国の到来を告げ、この世にあって神に国にふさわしく歩んできたのです。ジャン・バニエが書いた『きいてみたいな イエスさまのおはなし』という本があります。イエスの言葉とそれ対応する絵が描かれている本です。その一節にこのようにイエスの言葉が記されています。

 

  • 「また、イエスさまの 声がきこえます“困っている人、よわい人、くるしんでいる人のために お祈りしたり できれば 近くで あなたの力を わけてあげましょうね。平和をつくるために はたらく人たちと こころをあわせて あなたの近くに ひとつづつ 平和をつくってくださいね 天の神さまが きっと たすけて しゅくふくを おくってくださいますよ”」

 

  • ガリラヤからイエスに従ってきた弟子たちも群衆も、イエスのこのような声を聞いて、イエスと共に平和をつくるために働いてきたのではないでしょうか。その道がイエスの十字架によって、ある意味で断たれてしまったように思われます。弟子たちや群衆は、自分の死を恐れて、イエスを捨て去って逃げてしまったからです。このような自分かわいさにイエスを裏切り、イエスの下を逃げ去ってしまった弟子たちや群衆が、復活したイエスに出会って、もう一度イエスの下に集まってやり直していく。それがイエスに従う者たちの群れである教会の誕生なのです。

 

  • エスを信じて生きる者は、イエスの十字架において自分自身の古い自己の死を経験し、新しい人として、イエスに結ばれて、神に対して生きているのです。けれども、私たちが肉体において存在する限り、古い自己が自分の中で生き返ることはいつでも起こり得ることです。天使から「恐れることはない」と言われた婦人たちはが、「恐れながらも大いに喜んだ」と言われていますが、この「恐れながらも大いに喜ぶ」という言葉の中に、復活のイエスに従って生きる信仰者のあり様が言い表されているのではないでしょうか。イエスの復活に出会って、命が死に打ち勝ったという喜びを胸に秘めながら、信仰者は悩み多いこの世を神に対して生きていくことが出来るのです。

 

  • 同じ信仰の真実を、ヨハネ福音書の言葉で言いかえれば、このようになります。「あなたがたは世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(16:33)。そのような視座から、もう一度ジャン・バニエの本のイエスの声に耳を傾けたいと思います。「また、イエスさまの 声がきこえます“困っている人、よわい人、くるしんでいる人のために お祈りしたり できれば 近くで あなたの力を わけてあげましょうね。平和をつくるために はたらく人たちと こころをあわせて あなたの近くに ひとつづつ 平和をつくってくださいね 天の神さまが きっと たすけて しゅくふくを おくってくださいますよ”」

 

  • 復活のイエスを信じて、「平和をつくるために はたらく人たちと こころをあわせて あなたの近くに ひとつづつ 平和をつくる」業に、それぞれの場で参与していくことができれば幸いに思います。

 

 

祈ります。

  • 神さま、今日はイースターです。この会堂で共に礼拝することができ、感謝いたします。
  • けれども、緊急事態宣言は解除されましたが、コロナウイルス感染者の拡大が各地に見られます。私たち一人一人が十分な感染防止に努めると共に、コロナウイルス感染拡大を防ぐ適切な対策が政府や自治体によって行われますように。またコロナウイルス感染拡大により困難を覚えている方々への適切な支援がなされますように。
  • 神さま、私たちには、今なお古い自分が生きていて、自分の十字架を背負って、イエスに従って生きることに全力を傾けることができない弱さがあります。どうか私たち一人一人に、イエスによって贖われた新しい人として生きる命を豊かにお与えください。

そして、今暴力と差別と格差が露になっているこの社会の中で、平和と公正と和解のために少しでも働くことができます、私たちをお導きください。

  • 神さま、今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    575(球根の中には)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-575.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。