なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(1)

               使徒言行録による説教(1)
            
・今日から使徒言行録によって順次メッセージを与えられたいと思います。最初に犠1~5節。

・さて、私たちはの中には、人生の中で一度も挫折を経験しない、恵まれているというか、恵まれていないというか、そういう人がいるかも知れません。しかし、他の人には話すことはできない、挫折の経験をもっている人も案外多いのではないでしょうか。

・私ももう70歳を過ぎましたから、自分の若い時の挫折の経験をお話しさせてもらいます。実は、私は牧師の養成校であります東京神学大学を学部4年の卒業で、牧師になりました。大学院2年の終わりまで在学していましたが、卒業論文を書けなかったものですから、大学院卒業ではありません。大学院卒業ですと、日本キリスト教団の教師検定試験は学科は免除されて、教憲教規(規則)の試験と後は説教や神学論文だけ提出すればよいのです。私は学部卒業の資格で教師検定試験を受けましたので、大学院卒業者よりも旧約聖書新約聖書の4科目の試験を別に受けました。それで合格して日本キリスト教団補教師になったわけです。

・何故卒論を書けなかったかと言いますと、私は結構自尊心があって高望みをして結局殆ど手をつけることができなかったのです。卒論提出期限の前後の私は鬱状態でした。それ以来しばらくは、まとまった文章を書くことができませんでした。牧師になって当時月刊キリストという雑誌があって、その編集者からローマの信徒への手紙のパウロの信仰義認論のテキストで説教を書くように依頼されました。その時も、締め切りを過ぎて、何とか書いて編集者に渡しましたが、内容のない形だけのものだったと記憶しています。その頃までは、そういう文章を書く依頼を受けると、鬱っぽくなっていました。そのうち段々ずうずうしくなりましたが。

・大学院2年の卒論提出の時期にほとんど鬱状態だった私が、何とかその時期を乗り越えることができたのは、妻の存在でした。私は大学院に入る時に結婚していましたので、彼女が随分助けてくれました。自分は多少出来る人間だという自負心と、結構恰好をつけるところが自分の中にありましたので、卒論が書けなかったということが自信喪失と自己嫌悪を増幅して、精神的にはにっちもさっちもいかない状態でした。そんな私を妻がだまって受け止めてくれましたので、段々と立ち直ることが出来ました。今でも感謝しています。

・人が挫折した時に、その挫折した人をありのままに受け入れて共に居てくれる他者の存在は大きいと思います。非難したり、責めたりすることなく、だまって受け止めて一緒に歩いてくれる人です。

・さて、イエスの死後、イエスを裏切り、逃亡し、挫折した弟子たちは、生き残り、バラバラになってイエスと出会う以前のそれぞれの生活に帰っていってしまったのでしょうか。今日の使徒言行録の記事によれば、弟子たちは復活した生けるイエスから、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と命じられたと記されています。この使徒言行録の記事によれば、弟子たちはバラバラになってイエスと出会う前のそれぞれの生活に帰ってしまったのではなく、このイエスの命令を受けて一緒にエルサレムを離れないでいたということになります。

・しかし、使徒言行録の記事は、その著者ルカの神学に基づいて書かれたもので、単に歴史的事実を書き連ねたものではありません。ルカが使徒言行録を書いたのは、1世紀の終わりごろと思われますから、その頃は既にキリスト教ユダヤ教の一分派(行伝24:5,14,26:5,28:22)であることを止めて、ユダヤ教から独立した世界宗教になっていました。そのような状況のもとで、ルカは「まず、神の救いの歴史における〈時の中心〉として、イエスの地上における出来事を「はじめから詳しく調べ」「それを順序正しく」書きました(ルカ1:3)。それが、先ほど読んでいただいた使徒言行録犠1,2節に記されている書物になります。「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、・・・」と記されている通りです。

・そして、それに続く出来事を、つまり、〈教会のはじめの時〉の出来事を書き続けようと」(荒井注解書11頁)、ルカは使徒言行録を書いたのです。歴史的な事実に基づいていないわけではありませんが、歴史的事実を順を追って書いたのではありません。たとえば、「エルサレムから始まって、地の果てまで」というルカの考え方に合わせて出来事が記されています。

・ですから、実際には弟子たちはエルサレムにとどまっていたのではなかった可能性が高いと思われます。マルコによる福音書16章7節によれば、イエスの墓を訪れた女たちに、天使がこう告げたと言われています。「イエスはあなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう」。
このマルコの言葉からすれば、弟子たちはガリラヤに帰ったと思われます。

ヨハネによる福音書21章にも、7人の弟子たちがティベリア湖半(ガリラヤ湖畔のこと)で復活したイエスに出会ったという物語が記されています。7人の弟子たちはガリラヤ湖に漁に出ます。その夜は何もとれませんでした。夜明けごろ岸辺に立っていたイエスが、弟子たちに「何か食べるものがあるか」と声をかけたというのです。弟子たちにはその人物がイエスだとはその時は分かりませんでした。「ありません」と答えると、イエスは「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と言われました。そこで弟子たちが網を打って見ると、魚が余りに多くて、網を引き上げることが出来なかったというのです。その時、ヨハネ福音書に出てくるイエスの愛しておられた弟子が、イエスに気づき、「主だ」と言いました。ペトロは「主」と聞いて、裸同然だったので、上着をまとって海に飛び込んだというのです。その後イエスと7人の弟子たちはガリラヤ湖半で食事をしたという、イエスが弟子たちに顕れた、復活したイエスの顕現物語です。

・こういう物語が言い伝えられていたということは、イエスの死後弟子たちはエルサレムを離れずに一緒にいたというよりも、ガリラヤが故郷であったペトロやゼベダイの子らはガリラヤに帰って、元の漁師になっていたのかも知れません。イエスの受難と十字架の出来事に出会って、イエスを裏切ったり、逃げてしまったり、イエスを知らないと言ってしまったりした弟子たちは、自分に後ろめたさを覚えながら、イエスの死によって失望落胆し、エルサレムにいたのではイエスを十字架に賭けた人たちからの追及もあり、それを恐れて弟子たちは自分の故郷ガリラヤに逃げ帰ったのでしょう。マルコ福音書のように、「イエスはあなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう」という天使のお告によって、弟子たちがガリラヤに帰ったということであれば、弟子たちの帰還は単なる逃避行ではありません。そのところはよくわかりませんが、何れにしろ、イエスという中心を失い、大祭司らやイエスを「十字架につけろ」と叫んだ群衆の敵意を恐れて、弟子たちがエルサレムから四散したと考えるのが自然に思えます。

・とすれば、後にイエスの直弟子たちが中心になってエルサレムに教会が誕生するわけですが、そのためには四散した弟子たちが再びエルサレム集まって来ていなければなりません。一度挫折した弟子たちが、再びエルサレムに集まって来て、教会を形成し、イエスの弟子として再出発するようになったのは、弟子たちの中に何かが起こらなければあり得なかったと思います。それは一体何でしょうか。

・イエスの生前、イエスの招きを受けて弟子たちは、職業も家庭も、すべてを捨ててイエスに従いました。ところが、イエスの十字架死によって深刻な挫折を経験し、ばらばらに散らされてしまったのです。弟子たちがイエスに従ったとき、弟子たちはこの方によってこそイスラエルの民は救われるのだと思ったのでしょう。イエスの権威に圧倒され、その力に惹かれて、すべてをイエスに賭けたと思われます。身命を賭してイエスに従った弟子たちの中には、その意気込みや決断という自らの中にある熱い思いが満ちていたのでしょう。しかし、イエスの十字架の下で、そのような弟子たちの意気込みとか決心というような人間的な熱情は見事に粉砕されてしまったのです。それが弟子たちの挫折の内実だと思います。その挫折は、その後女性たちから知らされ自らも確認したイエスの遺体を治めた墓が空っぽだったとか、復活を告げる天使の告知だけでは、すぐにはイエスの復活を信じて立ち直ることはできなかったのではないでしょうか。

・今日の使徒言行録の個所に、「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らの現れ、神の国について話された」(1:3)と記されています。ここには、弟子たちがイエスの復活を信じて、挫折から立ち上がって再び結集するためには、相当長い期間が必要であったことが示されています。つまり、そう簡単には弟子たちは挫折から立ち上がることは出来なかったということです。「イエスが生きていることが、多くの証拠をもって示されなけば」、また「四十日にわたって復活のイエスが彼らに現れなければ」、弟子たちは挫折から立ち直ることが出来なかったということです。

・高橋三郎さんは、深い挫折からの弟子たちの立ち直りを、「第二の召命」と言って、このように述べています。「ペテロは三度もイエスを知らないと否認したのち、イエスの愛のまなざしにじっと見据えられて、激しく号泣したとルカは語っている(22:62)、彼はそこで自分の罪を突きつけられると共に、赦しの中に担われていることを知ったに違いない。ヨハネ福音書の中には、イエスがペテロに「わたしの羊を飼いなさい」と三度言われたとしるされているが(21:15-17)、これは三たび主を否んだペテロの復権を語る趣旨だと、解せられている。このように、罪の赦しを経由した弟子たちの新しい出発を第二の召命と呼ぶならば、それは人間的な意気込みや決意によって支えられる余地はなく、全き恵の賜物として、復活の主から与えられたものであった」と(『使徒行伝講義』13頁)。

・人間の意気込みや決心という自分の側にあるものによって生きるのではなく、自分を支え生かす関係というものがあるということではないでしょうか。人はその関係の中で良く生きることが出来るのだと思います。他者である人との関係もそうですが、より根底には私たちを存在せしめる命の神との関係だと思います。その命の神との関係がイエスという方を通して具体的に、私たちがどのような方向に隣人と共に生きていけばよかということを示してくれているのだと思います。

エルサレムに集まった弟子たちは、復活のイエスと食事を共にしていたとき、イエスからこう命じられたと言います。「エルサレムから離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがた間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである」(1:4,5)と。聖霊によるバプテスマを授けられるとは、神の霊によって生きるということです。命の神との関わりの中で命の神からの息吹(いき)(聖霊)を受けながら生きるということです。

・弟子たちが人間的な挫折を乗り越えて、再びイエスの弟子として立ち上がることができたのは、彼ら自身の力によってではなく、復活のイエスとの出会いによってです。挫折して四散したであろう弟子たちを執拗に追い求めて、その関係を決して放棄しない方の存在によってです。

・弟子たちを挫折から立ち直らせた方が、今も私たちとの関係を執拗に追い求め、その方との関わりの中で私たちが隣人と共に生きるようにと招いていることを信じます。