なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

4月4日の説教の補足

皆様へ

 

昨日イースターの礼拝説教を配信しましたが、今朝

毎朝読んでいますボンフェッファーの『主のよき力に守られて

~ボンフェッファーの一日一章~』の4月4日と4月5日を読みました。

私は昨日の説教で「イエスの十字架を共に担う苦しむ神」について

少し触れました。今日読んだボンフェッファーの一日一章には、

そのことが豊かに展開されていましたので、昨日の説教の補足として

下記に紹介します。センテンスごとに文章を切っているのは、私がメモした

ときにしたものです。本文はいくつか段落はありますが、一続きの文章です。

ご参考にしていただければ幸いです。

では、新しい一週の皆さまの歩みの上に主の支えを祈りつつ。

 

4月4日 神の苦難にあずかる

  • ・・・人間は、この神の失った世界に対する「神の苦しみ」に共にあずかるように、呼び出されている。
  • したがって、人間は、実際に神の失った世界の中で生きなければならず、しかも、この世界の無神性を何らかの仕方で、宗教的に覆い隠したり、美化したりしてはならない。
  • 人間は、「この世に」生きなければならず、まさにそのことによって神の苦しみにあずかることになる。
  • <人間が、「この世に」生きることを許されている>ということは、<人間が誤った宗教上の拘束や抑制から自由にされている>ということを意味する。
  • キリスト者であるということは、ある特定の仕方で宗教的であったり、また何らかの方法に基づいて、自分を何にか(「罪人」とか、「悔い改める者」とか、「聖徒」とかに)仕立てあげることではない。
  • キリスト者であるということは、人間であるということなのだ。キリストは僕たちの中に、ひとつの型にはまった人間ではなく、生きた人間そのものを造り出す。そして僕たちは、宗教的行為によってキリスト者となるのではなく、この世の苦しみの中で神の苦しみにあずかることによって、キリスト者となるのである。
  • 自分の困窮や、自分の問題、自分の罪、自分の不安をまず考えるのではなく、イエス・キリストの道に、メシヤの出来事に、自分も入っていく、その結果イザヤ書53章が成就されるようになること、――これこそが「悔改め」である。
  • イエス・キリストにおける神のメシヤとしての苦しみの中に、人間が引き入れられていくとういことは、新約聖書の中に様々な仕方で記されている。弟子たちへの服従への呼びかけによって、罪人と共にした食卓の交わりによって、狭い意味での「回心(心を神に向けること)」によって、「罪の女」の行為(それは罪の告白なしに行われた)によって(ルカ7:36以下、「イエスに香油を塗った女」について書かれている箇所)、病人のいやしによって、また幼い子を受け入れることによって、‥‥これらのことによって人々は神の苦しみの中に引き入れられたのである。「ほんとうのイスラエル人」であったナタナエル(ヨハネ1:47)から、アリマタヤのヨセフ、墓のかたわらの女たちに至るまで、彼らすべてに共通している唯一のことは、彼らがみな、キリストにおける神の苦しみにあずかっているということである。これこそが、彼らの信仰なのである。

 

4月5日 われわれを見捨てる神

  • 僕たちは、<たとえ神がいなくても、この世のただ中で生きていかなければならない>ということを認識することなしに、誠実であることはできない。しかも、僕たちがこのことを認識するのは、まさに、神の前においてである。神こそが、僕たちにこのことを認識させるのである。僕たちは「成人となる」ことによって、神の前における自分たちの状況を正しく認識するようになる。神は、僕たちが「神なしに生活を営むことができる者」として生きなければならないということを、僕たちに知らしめる。僕たちと共にいる神とは、僕たちを見捨てる神なのである(マルコ15:34)。
  • もちろん、「神」という作業仮設なしに僕たちをこの世に歩ませる神の前に、僕たちが絶えず立ち続けることに変わりがない。僕たちは、したがって、神の前で、神と共に、神なしで生きるのである。
  • 神はご自分をこの世から十字架へと追いやる。神はこの世においては無力で弱い。しかし、神はまさにそのようにして、しかもそのようにしてのみ、僕たちのもとにおり、また僕たちを助けるのである。
  • キリストが自分の全能によってではなく、自分の弱さと自分の苦難によって僕たちに助けを与えるとうことは、マタイによる福音書8章17節の「彼は、わたしたちの弱さを身に受け、わたしたちの病を負った」という言葉からも全く明瞭である。
  • この点が、あらゆる宗教との決定的な相違点である。人間がもつ宗教は、人間が困窮に陥ったときに、この世において神の力を示す。ところがその場合の神とは、人間の陥っている境遇に、無理やり引き寄せられた「神」にほかならない。
  • しかし聖書は、人間に神の無力と苦難とを示す。そしてこの苦しむ神こそが、人間に助けを与えることができる神なのである。その限りのおいて、<この世が成人となる>ということは、<誤った神概念が一掃される>ということであり、<僕たちの目が解放され、その結果、この世の中で「無力さ」によて「力」と「場所」とを獲得する聖書の神を見るようになる>ということなのである。