なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(25)

先週の21日の日曜日は、連れ合いの納骨のために休暇をもらいましたので、船越教会の礼拝説教は信徒講壇でした。ですから、21日(日)の私の説教はありません。

 

11月28(日)待降節第1主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。」

詩編100:1-2)

③ 讃美歌   204(よろこびの日よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-204.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編82編1-8節(讃美歌交読詩編91頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙5章12-14節(新約280頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     230(「起こよ」と呼ぶ声)

 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-230.htm

 

⑨ 説  教   「新しい世界―その1」         北村慈郎牧師

  祈  祷

  • パウロはローマの信徒への手紙5章1-11節で、神に敵対していた私たち人間が、キリストの十字架によって神と和解し、神との平和の関係に組み入れられ「新しい人」となったことを語っていました。そのパウロの記述の中で記されている「新しい人」とは、イエス・キリストによって神の恵みに信仰によって導き入れられており、≪神の栄光にあずかる≫(5:2)、将来に対する≪希望を誇りとして≫おり、現実に起こる≪苦難をも誇りにして≫(5:3)いる人間のことです。≪それだけではなく、(神の愛が聖霊によってその人の心に注がれているがゆえに)、神を誇りとして≫(5:11)いる人間なのです。

 

  • けれども、私たちが日常の生活の中でそのような新しい人として、自らを自覚して生きているかどうかは、はなはだ疑わしいのではないでしょうか。むしろこの世の現実にまみれて、あたふたしているのが、私たちのありのままの姿なのかもしれません。

 

  • このところ刃物で人を殺傷する事件が立て続けに起こています。つい先日も愛知の弥冨にある中学校の校舎の中で、中学生が同級生を刃物で刺して殺したという事件が起きました。学校の中で殺人が起こるとしても、外部から侵入した人によって起こされた事件はこれまでもありましたが、今回の事件は、学校の内部で、しかもその学校に通う中学生同士の中で、同級生の腹を刃物で刺し殺し、その刺し傷は刺された子供の腹深く肝臓を貫通して背中付近まで達していたという、余りにも衝撃的な事件でした。

 

  • 私たちが暮らしているこの日本の社会が、ここまで人間を壊していしまっているのかという思いと、そのような社会をつくってきた私たちの責任の重大さを思わざるを得ません。今までも、そのことは貧困や差別の問題、格差の広がりや若い人の自死の多さや人殺しのような事件が起こるたびに感じさせられてきたことですが、今回の事件はその極みのように思えてなりません。

 

  • そのことは、同時に、聖書からキリストの十字架によって罪を贖われた者として、互いに愛し合い、仕え合い、支え合って生きていく「新しい人」の可能性を知らされている、私たちキリスト者の責任の重大さを思わないわけにはいきません。

 

  • ボンフェファーは、『主のよき力に守られて』(一日一章)の「教会にはどれだけの場所が必要なのか」という表題が掲げられている11月16日の箇所で、教会についてこのように述べています。「教会という場所は、自分自身のためにあるのではなく、常に自分自身を越えたもののために、はるかに広い射程を持って存在しているのである。それはまさに、教会が、この世の中で自分自身の存続のために戦わなければならないような文化団体ではなく、イエス・キリストによるこの世のあらゆる現実の根拠について証しが得られる場所だからである」(564頁)と。

 

  • ボンフェッファーは、教会は「イエス・キリストによるこの世のあらゆる現実の根拠について証しが得られる場所」だと言うのです。

 

  • イエス・キリストによるこの世のあらゆる現実の根拠」とは、正にロマ書5章1-11節で記されている神の恵みによる「神との和解と平和」ではないでしょうか。信仰によってその「神との和解と平和」に組み入れられた「新しい人」として、≪神の栄光にあずかる≫(5:2)、将来に対する≪希望を誇りとし≫、現実に起こる≪苦難をも誇りにし≫(5:3)、≪それだけではなく、(神の愛が聖霊によってその人の心に注がれているがゆえに)、神を誇りとして≫(5:11)生きることのできる人間として、私たちが生きていくことができるということではないでしょうか。

 

  • ボンフェッファーは、先ほど紹介したところに続けて、このように述べています。「教会は<神がこの世をキリストにおいて自分と和解させ、神がそのひとり子を賜うほどにこの世を愛した>ということが証しされ、真剣に考えられる「場所」である。教会という場所は、この世と縄張りを争い合うために存在しているのではなく、まさに<この世がこの世である>ということ、すなわち<神によって愛され、和解を受けた世である>ということをこの世に証しするために存在しているのである。したがって教会は、その場所をこの世に広げようとしたり、またそうしなければならないと考えたりする必要はない。むしろ教会は、イエス・キリストについての証しと、イエス・キリストによって神とこの世とが和解されたことの証しを持って、この世に奉仕するために必要な場所以上のものを要求すべてきではないのである。教会は、自分自身のためにではなく、この世の救いのために戦うことによってのみ、自分自身の場所を確保することができるのである。そうでなければ、自分自身の利益のために戦う「宗教団体」となり、神とこの世の教会であることを止めてしまうであろう」(564-565頁)。これがボンフェッファーの言う「この世のための教会」であります。

 

  • 先ほど最初の申し上げましたように、学校内において子供同士による殺傷事件が起こるような状況は、「<神によって愛され、和解を受けた世である>ということをこの世に証しするために存在している」教会の証しが、この世である今の日本の社会の中に、全くと言っていいくらい、届いていないことを如実に示しているのではないでしょうか。それは、そもそも教会がこの世にのみ込まれてしまっていて、そのような証しが全くなされていないか、或いは、教会はそれなりにこの証しをしていても、全く不十分であるかのどちらかであるに違いありません。

 

  • その意味で、14歳の子どもに同級生の腹をナイフで刺して殺させてしまったのは、イエス・キリストによって神の前に互いに愛し合い、支え合い、助け合って生きる「新しい人」として招かれている私たちが、その証言をこの世に届かせることができなかったという、私たちの責任でもあると言えるのではないでしょうか。

 

  • パウロがロマ書5章12節以下で語っていることは、そのイエス・キリストによる「新しい人」が生きる「新しい世界」についてであります。イエス・キリストによる新しい世界は、それ以前の古い世界と根本的に違っています。イエス・キリストによる新しい世界の到来を知る者は、古い世界がいかに否定的な世界であるかがよく分かります。その古い世界は罪と死が支配する世界なのです。

 

  • 5章12節を、バルトの敷衍訳で読んでみます。「このようなわけで、というのは、新しい人がキリストの死においてあらわれる新しい生(5:1-11)によって基礎づけられていることを知るならば、さらに視野の広い洞察が生まれるのである。一人の人によって罪が力をもって人間のこの世にはいり、また罪によって死がこの世の最高の律法としてはいってきたように、また、こうして死が、まさに罪を犯したすべての者としての全人類にはいり込んだように――「きたるべき」一人の人としてのキリスト(5:14)は、その型がかの一人の人(これはアダムを意味する)なのであるが、まさに正反対の世界関連(5:18-19)を開くのである」。

 

  • このことをバルトは、「『アダムにおいて』が意味するのは、古いものがかつてあり、現在もあり、未来にもあるであろう、またそれは、かつても、現在も、未来においても新しいものでないということであるならば、『キリストにおいて』とは、古いものは過ぎ去った、見よ、新しくなった(コリント第二書5:17)ということでる」と言っています。

 

  • つまり、世界は「アダムにおいて」見る場合と、「キリストにおいて」見る場合では根本的に違って見えると言うのです。その正反対の世界は5章18節、19節にこのように記されています。

 

  • 「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされたのです」(新共同訳)。

 

  • イエス・キリストにおいて義と命が支配する新しい世界が到来していることを知る者が、アダムにおいて罪と死がすべての人を支配している世界を、すでにイエス・キリストによって克服された古い世界として知ることができるのではないでしょうか。
  • 私たちキリスト者は、それをただ知ること、認識することだけで留めることはできません。アダムにおける罪と死の支配する古い世界とキリストにおける義と命の支配する新しい世界を、並列したものとしてただ眺めているだけでは、私たちはキリスト者とは言えません。

 

  • またバルトになりますが、バルトは、「二つの道は分かれることによって、また出会いもする。キリストにおける神の再発見、生命への侵入は、かならず人間がアダムにおいて神から転落して死の判決の下に立つその地点ではじまる」と言っています。

 

 

  • この「キリストにおける神の再発見、生命への侵入」に、私たちキリスト者は与っているのではないでしょうか。「キリストが第二の、そして最後の(コリント第一書15:45)アダムであること、新しい世界が古い世界の一変形以上のものであること、死から生じるあの生は、なお死を解きはなち、なお死に変化しうるあの生を、無条件的に越えていること、したがって死の死であるような死が存在するということ・・・それが救いの音ずれの内容であり(1:1、16)、神の力であり、復活の力であり、われわれの生の内容としては、信仰の『驚くべき戦い』(ルター)であり、逆説であり、根源的なものであり、創造的なものである。神の力があり、信仰があるところには、かれが現にないところの者としての、新しい人としての人間が、新しい世界の、すなわち生命の世界の戸口に立っている」(バルト)のです。

 

  • 私たちは、この新しい世界に新しい人としてこの世で生きるようにと招かれていることを肝に銘じたいと思います。

 

 

  • 罪と死に支配されているこの世界が、イエス・キリストによって「新しい世界」に根底から変えられていることを、私たちが証言していくことができますように。そのことによって、少しでもこの世界が「古い世界」であることも知らずに、罪と死に支配されて翻弄されている方々に、そこから脱出する道を指し示すことができれば、それに優る幸いはありません。

 

  • 主が私たちにその証言の力を与えてくださいますように!

 

祈ります。

  • 神さま、今日も会堂に集まって礼拝をすることができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、今私たちの日本の社会は、経済成長が停滞していることが問題である以上に、人間そのものが壊れかかっていることが問題であるように思えてなりません。他者の命と生活への優しいまなざしが失われ、命と命がぶつかり合って火花を散らしているかのような状況が露呈しています。
  • 神さま、私たちはキリスト者としてその責任を痛感するものでありますが、どうか私たちに、イエス・キリストによってもたらされた新しい人と新しい世界を証言する力を与えて下さい。それと共に、神さま、死と滅びに向かって驀進しているかに思えるこの世界とそこに生きる人々を救い出してください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     419(さあ、共に生きよう)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-419.htm 

 

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。