なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

イースター礼拝説教(2022年)

4月17日(日)イースター礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から解き放つ神」。   

                                                                            (詩編68:20-21)

③ 讃美歌    18(「心を高くあげよ!」)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-018.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編114編1-8節(讃美歌交読詩編127頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  コリントの信徒への手紙一15章1-11節(新約320頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     479(喜びは主のうちに)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-479.htm

⑨ 説  教    「最も大切なこと」     北村慈郎牧師

  祈  祷

  • 今日はイースターです。今年のイースターは、ある意味で戦時下のイースターであると言えるのではないでしょうか。実際に戦争をしているのは侵略戦争をしかけているロシアと、それに抵抗して防衛のための戦争をしているウクライナによる二国間の戦争ですが、経済制裁や武器供与とう形で多くの国がこの戦争に間接的に加わっています。ウクライナを支援している国々は、主に欧米を中心とした、一応「民主的な」国々と言えるでしょうが、まだ民主化が進んでいない専制主義的な国々は、どちらかと言うとロシア側に立っているのではないかと思われます。その意味で、ウクライナで行われている戦争は、東西冷戦時代における二国間の戦争という様相を帯びていて、ある意味で、第三次世界大戦とは言えないまでも、それに類する世界大の戦争といえるのではないでしょうか。

 

  • イエス・キリストの福音からすれば、イエスの復活によって私たち人間は、人類史的にも戦争など決してしない新しい人間に変えられているのであります。そのことを、今日はパウロのコリントの信徒への手紙一、15章の復活について記されているところから聞きたいと思います。

 

  • まずⅠコリント15章の1節、2節ですが、ここには、パウロがコリントの教会の人々に伝えたのは「福音」(よきおとずれ)であることが、しっつこい位に強調して語られています。その言い方の感じは、新共同訳よりも田川訳によく出ていますので、田川訳で読んでみたいと思います。<兄弟たちよ、あなた方に福音を知らしめる。すでにあなた方に福音として伝えた福音を。あなた方がすでに受け取った福音を。その中にあなた方も立っている福音を。またそれによってあなた方が救われることになる福音を。私がいかなる言葉によってあなた方に福音を伝えたことか。もしもあなた方が覚えているならば。もしもあなた方が無駄に信じたのでなかったとすれば>。

 

  • そしてパウロは、3節で<最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです>(新共同訳)と言って、コリントの教会の人々に伝えた福音は、自分も受けたものであると言っているのであります。新共同訳では「最も大切なこととして」と訳されている言葉は、原文では「第一に」です。ですから、この3節は<第一に私は、私自身が受け取ったことをあなた方に伝えたのである>(田川訳)と訳されます。

 

  • そしてパウロがコリントの教会の人々に「第一に」(最も大切なものとして)伝えた福音とは何かと言えば、イエス・キリストの十字架と復活の出来事です。3節後半以降にそのことが記されています。田川訳で読んでみます。<すなわちキリストは書物(聖書)に従って我らの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、書物(聖書)に従って三日目に甦られたこと、そしてケパ(ペテロ)に現れ、次いで十二人に現れたこと。それから五百人以上の兄弟たちに同時に現れた。その中の多くの者は今日もまだ生きている。何人か亡くなった人もいるけれども。それからヤコブに現れ、次いですべての使徒たちに現れた。すべての最後に、生まれそこないのような私に対しても現れた>(3節後半―8節、田川訳)。

 

  • そのように語った後、パウロは自分自身について、9-11節でこのように語っています。これも田川訳で読んでみます。<私は使徒たちの中で最も小さな者であって、使徒と呼ばれるに十分ではない者である。神の教会を弾圧したのであるから。神の恵みによって私は、今日の私たるを得ている。そして私に注がれた神の恵みは無駄ではなかった。彼らの誰よりも私は努力したである。いや、私が努力したのではなく、私とともにある神の恵みが努力してくださったのである。だから、私であろうと彼らであろうと、そのように私たちは宣べ伝えているのであり、あなた方はそのように信じたのである>(9-11節、田川訳)(下線筆者)。

 

  • ここ(下線部分)には、教会を弾圧していたかつてのユダヤ教徒としてのパウロが、ダマスコ途上で復活のイエスに出会って回心し、使徒として歩むようになってからは、自分自身と言うよりも、「神の恵み」が自分を突き動かしているのだと、パウロ自身の自己告白として記されているのであります。

 

  • エスの十字架と復活の出来事というイエス・キリストの福音には、そのような人間を突き動かす命の力があるのだと、パウロは語っているのであります。パウロがこのように語ることができたのは、復活のイエスが<生まれそこないのような私に対しても現れ>て下さったと、パウロ自身が言っているように、復活のイエスのとの出会いによるものです。

 

  • 復活のイエスと言えば、ボンフェッファーが<この人を見よ。この復活した人を見よ>と語りかけているのが印象的です(以下基本的にボンフェッファー『主のよき力に守られて~一日一章~』4月9日による)。

 

  • 神は、み子イエスを十字架にまで引き渡し、私たち人間の罪を裁き、その罪に死の宣告を与え、葬られたイエスを甦らされて、私たち人間に、罪と死から解放された新しい人間として生きる可能性を切り拓いてくださったのです。

 

  • <人間に対する神の「然り」は、裁きと死を通り越して、復活にまで達した。人間に対する神の愛は、死よりも強いのである。神の奇跡によって、新しい人間、新しい生命、新しい被造物が造られた。「生命が勝利を得た。生命が死に打ち勝った」。神の愛が、「死」に死をもたらし、人間の生命となった。十字架につけられ、よみがえったイエス・キリストにおいて、人類は新しくなったのである。キリストに起こったことは、すべての人間の上に起こったことである。なぜなら、キリストは人間そのものなのであるから‥‥。今や、新しい人間が、創造されたのである>(ボンフェッファー)。

 

  • 先ほど、「イエス・キリストの福音からすれば、イエスの復活によって私たち人間は、人類史的にも戦争など決してしない新しい人間に変えられているのであります」と申し上げたのは、このようなボンフェッファーのイエスの復活理解に基づいています。ボンフェッファーは<十字架につけられ、よみがえったイエス・キリストにおいて、人類は新しくなったのである>と言っているのです。このように<十字架につけられ、よみがえったイエス・キリストにおいて新しくなった人類>が、国家によって分断され、互いに戦争をするなどというようなことはあり得ません。<キリストの復活の奇跡は、われわれを支配している「死」という偶像を完全に無力なものとする>からです。

 

  • けれども、現在ロシアによるウクライナへの軍事侵攻という戦争が行われており、それを私たちは止めることができないで、その戦争による犠牲者を日々出し続けています。そのことは、私たち人類としては、キリストの復活の奇跡を信じていないために、「死」という偶像に未だ支配されていることを意味しています。ボンフェッファーは、このように語っています。

 

  • 〔死が偶像化されているところでは、すなわち、<死が最後のものである>と考えられているところでは、死に対する恐怖と死に対する思い上がりとが容易に結びつく。<死が最後のものである>と考えられるところでは、地上の生命は「すべて」であるか、あるいは「無」であるかのどちらかである。それゆえにこそ、地上で永遠的なものを求めようとする思い上がった態度が生まれるのであるが、それは生に対する軽率な遊戯にすぎない。生を自分で肯定しようとする懸命な努力は、かえって生に対する無関心を生み、生を軽視する結果に至るのである。ある時代が永遠性を獲得しようと要求する時、まさにそれゆえに、その時代が何ら生きるに値しなくなるということがある。これから追究されるべき新しい人間、新しい世界、新しい社会について偉大な言葉が語られる時、この新しいものがすべての現存している生命の否定によってしか存在し得ないという場合がある。これこそ何ものにもまさって、死の偶像化をはっきりと示すものである。新しい世界をもたらすのだといって、すべてを奪い取ったり、すべてを捨てたりすることは、「死」を熱狂的に信じる者のとる誤った行動にほかならないのである〕。

 

  • ボンフェッファーが<新しい世界をもたらすのだといって、すべてを奪い取ったり、すべてを捨てたりすることは、「死」を熱狂的に信じる者のとる誤った行動にほかならないのである>と記した時には、その背後にはヒットラーの存在があったのではないかと思われます。もしプーチンが、ルースキミール(ロシア世界)を、かつての帝政ロシアソ連邦を思い描き、ウクライナへの軍事侵攻を試みているとすれば、ある意味でヒットラーと同じ誤りを犯していることになるのではないでしょうか。

 

  • ボンフェッファーは、続けてこのように語っています。〔しかし、<死の力がすでに破られている>ということが認識され、復活の奇跡が、すなわち新しい生命が造り出されるという奇跡が、死の世界のただ中において光り輝いているところでは、人は自分の限られた生命に永遠性を要求するようなことはせず、その生命が与えるあらゆるものをそのまま受け入れるのである。自分の望むものを<すべて手に入れる>か、あるいは<何も手に入れない>かという二者択一は誤っている。「良いもの」も「悪いもの」も、「重要なもの」も「重要でないもの」も、「喜び」も「悲しみ」も、あらゆるものを受け入れるのである。<死の力がすでに破られている>ということが認識されるところでは、人は、一生懸命に生命にしがみつこうとしたり、また、軽率に生命を投げ捨てたりはしない。人は、限られた時間に満足し、地上にあるものに永遠性を認めようとはせず、死に対しても、死が所有している限定された正当性というものを正しく認識する。そして人は、新しい人間と新しい世界を、ただ死のかなたから、すなわち、死に打ち勝った方の力からのみ待ち望むのである〕。

 

  • 私たちも、イエスの復活の奇跡を信じる者として、そのような<新しい人間と新しい世界を、ただ死のかなたから、すなわち、死に打ち勝った方の力からのみ待ち望む>者でありたいと願います。

 

  • 〔復活したキリストは、新しい人間性を身に負う。それは新しい人間に対する神の究極の輝かしい「然り」である。人類は、今なお古い生命を生きているけれども、すでに古い生命を越えているのである。人類は今なお死の世界に生きているけれども、すでにその死を越えているのである。人類は今なお罪の世界に生きているけれども、すでにその罪を越えているのである。夜は今なお過ぎ去っていないが、朝日はすでに輝き始めている〕。

 

  • ボンフェッファーは、ナチズムの時代のただ中を生き、そして政治犯の一人として獄中生活を送り、最後には処刑されて死んだ人です。そのボンフェッファーがイエスの復活信仰を、このように記しているのであります。収容所の医師は、ボンフェッファーが、控えの間で(おそらく処刑される前ということではないかと思われます)、ひざまずき、熱心に祈るのを目撃している、と言われています。

 

  • 私たちも、イエスの復活信仰による新しい人類を信じるがゆえに、戦争をしかける力には抵抗して、戦争反対・即時停戦・ロシア軍のウクライナからの撤退を訴え続けていきたいと思います。同時に私たちが属する日本の国が、軍事力によらない、憲法第9条に基づく世界平和の構築に努力するように訴えていきたいと思います。

 

  • 主がウクライナに平和をもたらしてくださいますように!

 

祈ります。

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 今日はイースターの礼拝です。イエスの復活の出来事が、私たちとって何を意味するのかを、ボンフェッファーの復活理解を通して聞くことができました。「十字架につけられ、よみがえったイエス・キリストにおいて、人類は新しくなったのである」というメッセージが心に響きました。また、「人類は今なお死の世界に生きているけれども、すでにその死を越えているのである。人類は今なお罪の世界に生きているけれども、すでにその罪を越えているのである。夜は今なお過ぎ去っていないが、朝日はすでに輝き始めている」との言葉にも、慰めと励ましを覚えました。今なお戦争を繰り返す人類に絶望することなく、主にある新しい人類と世界の到来を信じて、その証言者として歩み続けることができますように、私たちを導いてください。
  • ウクライナでの戦争が一刻も速やか終わりますように。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌      575(球根の中には)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-575.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。