なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(78)

5月24(日)復活節第7主日礼拝(通常10:30開始)

 

(注)讃美歌はインターネットで平井さんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 

② 招きの言葉 「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。

この神はわたしたちの神、救いの御業の神。主、死から

解き放つ神」。     (詩編68:20-21)

 

③ 讃 美 歌  12(とうときわが神よ)を歌いましょう(各自歌う)。

讃美歌21 12(とうときわが神よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-012.htm

⓸ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

 

⑤ 交 読 文  46編2-12節(讃美歌交読詩編51頁)

        (当該箇所を黙読する) 

 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書16章13-28節(新約31頁)

        (当該箇所を黙読する)

 

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

 

⑧ 讃 美 歌    518(主にありてぞ)

讃美歌21 518(主にありてぞ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-518.htm

 

説教 「関係としての信仰」  北村慈郎牧師

祈祷

 

  • 長く教会に関わっていますと、「教会とは何か」という問いや疑問をもたざるを得ないような問題にぶつかることがあります。今私が渦中にあります日本基督教団における「戒規免職問題」もその一つであります。私の戒規免職処分は、2007年の教団常議員会で当時の山北宣久教団総会議長が、私が聖餐式で洗礼を受けていない者にも陪餐をさせているという理由で、私に教団の教師を退任するように勧告したことが発端でした。その時山北さんと山北さんを支持する人たちは、日本基督教団信仰告白と教憲教規を守らない者は、教団から出て行って、別の教会を作ればいい、ということをしきりに言っていました。私は、未受洗者にも希望すれば陪餐できる、いわゆる「開かれた聖餐」をしているからと言って、日本基督教団信仰告白や教憲教規に違反しているとは思っていませんので、「教団を出て行け」という主張は完全に無視しました。教会は、信仰告白や教憲教規を大切にしつつも、それらを絶対視しない、教会を教会たらしめるのは聖書であり、イエス・キリストご自身である、と思うからです。

 

  • 福音書の中には直接教会について触れている箇所は、ほとんどありません。しかし、今日の箇所は福音書の中で教会について触れている、ほとんど唯一の箇所です。

 

  • 今日のマタイ福音書の記事では、「イエスは誰か、何者か、メシア、救い主なのかどうか」ということが問題になっています。

 

  • マタイのこの記事では、イエス自身が弟子たちにそのことを尋ねたとされています。≪イエスは、フィリポ・カイザリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。≫(13節)と記されている通りです。

 

  • 弟子たちはそのイエスの問いに答えて、≪「『洗礼者ヨハネ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」≫(14節)と言いました。

 

  • すると、イエスは≪「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」≫(15節)と、弟子たち自身に問いかけます。そのときシモン・ペトロが、イエスに向かって≪「あなたはメシア、生ける神の子です」≫(16節)と答えました。これはペトロの信仰告白です。

 

  • ≪すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」≫(17-19節)と。

 

  • この箇所はご存知の方もいらっしゃると思いますが、ローマ・カトリック教会の首位権の根拠となっている箇所です。天国の鍵をイエスから授かったペトロの権威をローマ法王が継承しているという信仰です。

 

  • 16章13節から20節だけを読みますと、ペトロは信仰告白をして、イエスからその上に教会が建てられる岩と言われているのですから、教会にはペトロのような中心になるものが必要なのだと考えられるでしょう。カトリックはペトロを継承するローマ法王にそれをみているのも当然と思われるかもしれません。

 

  • けれども、13節から20節は、次に続く21節から28節の記事と密接に関連しているように思われます。21節以下では、天の国の鍵を授けると言われたペトロが、同じイエスによって「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(23節)と厳しく叱責されているのです。

 

  • それは、イエスが「自分は必ず苦しみを受け殺されて、三日目に復活する」と弟子たちに予告した時に、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白したペトロが、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と、イエスをわきへ連れて行き、いさめたからです(22節)。

 

  • ペトロはイエスを栄光のメシアとして思い描いていたのかも知れません。イエスを信じて従っていけば、自分も栄光を受けられるかも知れないと。ところが、受難と十字架のイエスを示されて躓いてしまったのでしょう。「このときから、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(21節)からです。

 

  • このイエスの受難と復活の予告は三回続きますが、これは、第一回目の予告になります。この予告を注意深く読みますと、ここでイエスは、「ご自分が苦しみを受け、殺されて、三日目に復活することになっている。」と言っているのです。この「・‥‥ことになっている」という表現は、<神の約束に基づいて、当然そうなる>という必然性を言い表すものです。

 

  • エスは、今や神の必然によって苦しみを受け、殺されなければならないのです。ボンフェッファーはこのように言っています。「この必然的なことを妨げようとする企ては、それが悪魔みずからが企てるものであろうと、あるいは弟子たちの群れから出てくるものであろうと、すべて悪魔的である。なぜなら、それはキリストをキリストでないものにしようとするからである。『教会の岩』と言われたあのペデロは、イエス・キリストに対する信仰を告白し、教会の基礎としての権威をキリストによって与えられた直後に、この悪魔の企てに加担する罪を犯した。このことは、教会がそもそもの初めから、キリストが苦しみを受けるということにつまずいたということを意味する。教会は、苦しみを受ける主を欲しない。教会はキリストの教会でありながら、苦しみを伴う律法を主から押しつけられることを決して好まない。ペテロがキリストの受難の預言に異議を唱えたのは、その苦しみにあずかることを決して快く思わないペテロの本心から出たことであった。こうして悪魔が教会に忍び込んだのである。この悪魔は、教会が教会の主である方の十字架から離れ去ることを望んでいる。」(ボンフェッファー『主のよき力に守られて』99-100頁)。

 

  • ボンフェッファーは、「悪魔は、教会が教会の主である方の十字架から離れ去ることを望んでいる」と言っています。そしてイエスの受難予告を聞いて、それを諫めたペテロは「悪魔の企てに加担する罪を犯した」と言うのです。

 

  • 今日の説教題は「関係としての信仰」としました。信仰は「信じる」私、あるいは信じる私達である教会と、「信じられる」イエス・キリスト、イエスがアバ父よと祈った神との関係です。

 

  • 前にも申し上げましたが、「信じる」信仰と「信じられる」信仰。信仰告白を含め私たち人間の側の「信じる」信仰には弱さや過ちがつきものなのです。

 

  • そういう意味では、ペトロがイエス信仰告白をし、「あなたは幸いだ」とイエスに言われた直後に、受難と復活予告をしたイエスを諌めて、イエスから「サタンよ、引き下がれ」と言われたのですが、それがペトロをはじめ人間の現実ではないでしょうか。わたしたち人間の側は、信仰と不信仰を自らの内に抱えている者に過ぎないのです。

 

  • 確かなものがあるとすれば、「信じる」私たちの側にではなく、「信じられる」神と神への信を貫いたイエスの側にあるのではないでしょうか。

 

  • ペトロに≪「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」≫(23節)と言われた後、イエスは弟子たちにこう言われました。≪「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」≫(24-26節)。

 

  • マタイ福音書のイエスは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と、弟子たち、すなわち信仰を告白した私たちキリスト者服従へと招き給うのです。このイエスの招きは、キリスト者だからと言って、イエスに従うことが自明なわけでないことを示しています。イエスに従うことは、その都度その都度の決断によるのです。

 

  • 「自分を捨て、自分の十字架を背負って」です。

 

  • 「『自分を捨てる』ということは、ただキリストだけを知って、自分をもはや忘れるということである。ただ先立ち行くキリストだけを見て、われわれにとって歩むことが困難と思われる道を見ないということである。自分を捨てる者は、<キリストが先立ち行く。このキリストにしかりと結びつこう>と言うことが出来るだけである」(ボンフェッファー)。「自分を捨てる」ということについての、このボンフェッファーの言葉を心に留めたいと思います。

 

  • 十字架を負うということは、イエス・キリストと共に苦しむことを意味します。「自分の」と言われていますから、それぞれに与えられている他の人とは違った、イエス・キリストと共に苦しむ自分の十字架があるということです。

 

  • パウロは、≪今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています≫(コロサイ1:24)と語って、異邦人伝道者としての自分の働きを、自分の背負うべき十字架としています。そして、≪…このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています≫(同1:28,29)と語っています。

 

  • 私たちにとって、キリストの苦しみに連なる自分の十字架とは何でしょうか。それぞれに与えられている自分の十字架があるはずです。その自分の十字架を負って、イエス・キリストに従って行く服従を伴わない信仰は、イエス・キリストの福音に安易に信仰の慰めだけを見出そうとします。そうすると、イエスの十字架は私たちの罪を贖う贖罪という教えに還元されてしまいます。そこからは、自分の十字架を負ってイエス・キリストに従う服従の信仰は出て来ません。私は日本基督教団において信仰告白と教憲教規を声高に主張する人々の中に、このような傾向があるように思えてなりません。

 

  • 私たちは「自分を捨て、自分の十字架を負って」イエス・キリストに従う、その都度の服従を大切にする信仰によって歩んでいきたいと願います。イエス・キリストが私たちの中で、私たちに代わって中心を占めてくださるときに、苦しみの中にも喜びと希望が私たちに支配するに違いないからです。そのようなキリスト者である私たちによって構成される教会こそが、パウロが言う「キリストのからだ」なる教会と言えるのではないでしょうか。

 

  • 私たちはイエス・キリストの招きを受けて、そのような教会を形成していきたいと思います。

 

  • 祈ります。

 

神さま、今日も自宅での各自分散の礼拝を守ることが出来、ありがとうございます。そろそろ新型コロナウイリス感染の緊急事態宣言が首都圏でも解除されようとしています。緊急事態宣言が解除されたら、コロナ感染を気を付けながらですが、私たちはまた船越教会に集まって共に礼拝をするようになります。

神さま、私たちの教会は十字架を掲げています。それにふさわしく、私たちの教会をイエス・キリストの十字架を負うものとしてください。それぞれが自分の十字架を負ってイエス・キリストに従って生きて行くことができますようにお導き下さい。

その服従の信仰を通して、イエス・キリストの十字架による和解と平和を、問題が山積している今日の社会の中で証言していくことができますように。

今も様々な苦しいの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。

   今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

  この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 411(うたがい迷いの)

讃美歌21 411(うたがい迷いの)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-411.htm

 

⑪ 献  金

(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

                     

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)

讃美歌21 28

https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

 

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 

 これで礼拝は終わります。