なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(10)

       使徒言行録による説教(10)使徒言行録2:37-41、
           
原発の問題、経済の問題、安全保障の問題という人の命と生活に深くかかわる課題が山積している中で、私たちは2013年という新しい年を迎えました。この年も聖書から私たちの進むべき道を示され、また勇気と希望を与えられて、それぞれの日々の生活の場で、与えられている課題に向き合って歩んでいきたいと思います。

・今日は使徒言行録2章の37節から41節までのテキストから、私たちへの語りかけを聞きたいと思います。この個所は使徒言行録2章14節からのペトロの説教の結末の部分になります。ルカによれば、2章36節でペテロはこのように語っています。「だから、イスラエルの全家は、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と。

・すると、ここではユダヤの人の聴衆ですが、それを聞いた人々が、「大いに心を打たれた」(新共同訳)というのです。この「大いに心を打たれた」と訳されている言葉は、「元来『刺す』『抉(えぐ)る』の意味で、不安や後悔の際に感ずる激しい心の痛みを表現する時に用いられる」(荒井)と言われます。「深く心を抉られ」(荒井)とか、「心を突つかれ」(田川)とも訳されています。ルカはペテロの説教によって、その聴衆であるユダヤ人たちは、自分たちの在り方を問われ、今までの自分たちの在り方をそのまま続けていくことはできないという反省を迫られる程に心を揺さぶられたというのです。そして、「ペトロと他の使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」(37節)というのです。

ユダヤ人一般の聴衆に対して「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」という言い方には、イエスを十字架にかけたローマ帝国の総督ピラトや、イエスをピラトに引き渡したユダヤの権力者である大祭司らの責任を曖昧にしかねないということは、前にも触れました。けれども、「あなたがたがイエスを十字架にかけて殺した」という問いかけを、自らに向けられた問いかけとして受け止めるということは、このペトロの説教の聴衆であるユダヤ人たちだけでなく、私たちにとっても大切なことではないかと思います。

・それは、この「お前がイエスを十字架につけて殺した」という問いかけが、私たち自身の今ある姿を抉り出すからです。私たちは生来自分を第一にして生きている自己中心的な者です。このエゴイストである私たちは、自分の存在と生活によって、他者である隣人にとっては抑圧者であるのです。そのようなエゴイストである己自身に気づき、そのような己の現実から脱出して、新しく変わることは至難なことです。けれども、「お前がイエスを十字架につけて殺した」という問いかけによって、この自分が十字架にかけたイエスの苦しみを想い起すことによって、自分は何という罪深い人間なのかということに気づき、神の前に自分の罪を認めざるを得なくなるのです。「救いとは、神の前に自分の敗北を告白せしめられることにほかならない」(高橋)のです。

・そこから生まれる「わたしたちはどうしたらよいのですか」という問いに対して、使徒言行録のペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38節)と答えます。

・ここでいう「悔い改め」とは、個々の悪事を後悔して、これからはやめるといったような、外的・個別的次元にとどまるものではなく、従来の自分の生きざまを根源的に放棄し、180度の方向転換をすることであって、具体的には、イエスの殺害に加担した自分の倒錯を、何の抗弁もなく認め、これからはイエスを救い主と信じ受けて、その御旨に従うということです。バプテスマを受けるということは、ここに古き自己を葬って頂き、生けるキリストの恵みの支配下に受容していただくということの、象徴的表現として、ここで言及されているのでしょう(高橋)。

・そしてこの日、バプテスマを受けて信徒の仲間に加わったものが、三千人ほどあったとルカは語っていますが、私たちはこの記事を、史実の忠実な記録として受け取ることはできません。なぜならば、まず第一に、初代の教会において、洗礼という形式が定着したのは、かなり後のことであったことが、ほぼ確実に推定されているからです。マタイ福音書の終わりには、『父と子と聖霊の名によってバプテスマを施せ』(28:19)という復活者イエスの命令が記録されています。この『父・子・聖霊』という三位一体の神を語る定式は、最初期の教会にあったとは考えられませんので、後期の発展段階を示していると思われます。洗礼もまた最初期の教会で行われていたとは思われません。ある程度教会が組織的にも整ってきてからではないかと思われます。しかしながら、時の経過と共に、教会においてバプテスマという形式が定着したことは事実でしょう。しかしそれがこの五旬節のことであったとは考えられません。つまりルカは、この使徒言行録を執筆していた当時、自分のまわりに目撃していた事実を、この五旬節の記事に反映させたのではないでしょうか。

・三千人という大勢の信徒が、一挙に獲得されたということも、史実の忠実な記録ではなく、むしろ神の恵みによって、多くの魂が救いに導かれたということの、ルカ的表現と解すべきでしょう。ユダヤ人の罪に鋭く切り込んだペテロの第一声と共に、神の御手が多くの人々の魂をとらえたという趣旨を、ここから読み取ることができるのではないでしょうか。

・さて、私たちの多くもかつて洗礼を受けてキリスト者としての歩みを始め、現在に至っていると言えるでしょう。今使徒言行録から学びましたように、洗礼は、「あなたがたはイエスを十字架につけて殺した」という問いかけによって、180度方向転換して、自己中心的な古き己に死に、新しくなってイエスに従う者になるということを表す教会の儀礼です。パウロは、洗礼についてローマの信徒への手紙6章1-14節に詳しく述べています。長くなりますが、その個所を朗読します。

・「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちは皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(3-11節)。

・「イエスを十字架につけて殺した」という罪責は、現代の状況においてそれを理解するならば、原発事故を起こさせてしまったという、原発反対運動を長年続けて来た人の言葉に現れているものであり、沖縄で反基地闘争を続けている人が、沖縄の基地からイラクへ、アフガニスタンへ米軍の攻撃を行わせてしまったと言っていることに通じるのではないでしょうか。また、日常的に沢山の自殺者を出させてしまっているこの日本の社会の一員としてのわたしたち一人一人の罪責とも言えるでしょう。

バプテスマを受けて、古き己に死に、「イエス・キリストに結ばれて、神に対して生きている」ということは、そのような罪責を担って、そんなことのないみんなが平和に豊かに生きられる神の支配する神の国を信じ、私たちの日々の生活の中で祈り、求めて、その働きの一端を担って行くことではないでしょうか。「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38節)と使徒言行録で言われていることも、このこと以外の何物でもないと思うのです。賜物そしての聖霊は、いのちを生かす神の力、神の働きだからです。