なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(165)復刻版

 今日は、黙想と祈りの夕べ通信(165)復刻版を掲載します。

 現在積んであった一冊の本を偶然に読み始めています。その本は子のブルームハルトが中国で宣

教師として働いている娘婿に送った書簡を編集したものです。まだ半分も読んでいませんが、読ん

でいて実に爽快感をあたえられています。序文でこの本の編集者は、「ブルームハルトは、『イエ

ス・キリストの福音』と『キリスト教徒の福音』とを鋭く区別している。『キリスト教徒の福音』

は、等しいかあるいは類似した信仰を持つ者たちの教義学的で信仰告白に適った組織的統一化とい

う意味での教会と教会建設とを目指す。『イエス・キリストの福音』は神の国を目指し、それはど

んな宗教的分派主義とも無縁である。・・・・・『キリスト教徒の福音』は窮屈さへ向かう。それ

は、神の国に取って代わり、人間を自らに服従させようと欲する『宗教』と『教会主義』とに向か

うが、その際『教会のキリスト』が『支配の原理』となることは避け難い。それに対してイエス

キリストの福音は、広さへと向かい、神の国へ通じている。それが意味するのは『宗教』と『教会

主義』に対する裁きであり、神の国に捉えられた人々を、人間に対する支配者ではなく、神の奉仕

者とする。この意味において『キリスト教徒の福音』はキリスト教あるいは宗教と同一であり、ま

た『イエス・キリストの福音』が、キリスト教や宗教に対立するのもこの意味においてである」9-

10頁)。

 うなずきながら読んでいます。
 

       黙想と祈りの夕べ通信(165[-8]2002.11.24発行)復刻版

 今日は礼拝後に三ツ沢の教会墓地にて墓前礼拝が行われました。教会では毎年春のイースター

秋のこの時期に2回墓前の礼拝を行っています。墓所に納骨されています先達の遺族が主にこの墓

前礼拝に集まって参ります。この春のイースターの時には途中まで来ながら、墓前礼拝に間に合わ

なかった一人の方がいらっしゃいました。その方の兄が教会墓地に分骨されていて、今朝礼拝前に

電話があり、墓地への行き方を知らせてほしいということでした。説明して電話を切りましたが、

三ツ沢の墓地にいらっしゃっているか心配しながら、私は墓前礼拝が始まる10分前くらいにYさん

の車に乗せていただいて墓地に着きました。ちょうど朝電話を下さったその方が着いたところで、

私は安心しました。「迷わないで来れましたか」と声をかけましたら、どうも迷ったらしく、やっ

と来ることができたという様子でした。この方は現在天蓋の孤独です。一人で東横線都立大学駅

くのアパートに住んでいます。多分保険の外交員をしておられたと思われます。今はもう70代後半

ではないかと思いますが、大分体も弱って来ています。若い時に結婚されてお子さんもいらっしゃ

る方ですが、早くに離婚して子どもは夫が再婚してそちらの方で育ち、夫と別れてからは子どもに

も会ったことがないということです。自分は一人で死んで行くのだとおっしゃっていました。遠慮

勝ちな方ですので、人からの世話には極力ならないという姿勢を貫いています。墓地の帰りにも横

浜駅まで車に乗せてもらったらと、私は勧めましたが、頑として受け入れようとはしませんでし

た。ふらふらしながら帰って行かれました。教会の墓地に分骨してあるこの方のお兄さんは聖歌隊

のAさんです。こういう方がいらっしゃるということを、私は忘れないようにしています。何かで

きるというわけではありませんが、祈りの内に覚えていきたいと思っています。みなさんもこの方

を覚えていただければ幸いです。 

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。先週日米野球を東京ドームに行って友

人と観戦してきた。始球式の後、カナダ国歌、合衆国国歌、君が代(日本の国歌)の斉唱があっ

た。その間それぞれの国旗が東京ドームの大きなテレビ画面に映された。観客にアナウサーが国旗

に向かって「起立してください」と言った。僕は立たなかった。そばにいた青年はカナダ、合衆国

のときには立ったが、君が代のときには座った。起立している殆どの観客からの視線を感じた。

「お前は何者なのか」と責めている視線である。改めて国家について考えさせられた。国家は行政

機構という機能的な面では必要だと思うが、民衆を統合したり象徴として現われるナショナリズ

ム、国粋的な国家観はない方がよいと自分は思っているが、そういうものを肌で感じて恐ろしかっ

た。それぞれの自由意思が脅かされるのを感じる。そのような国家観は前近代的な価値観だと思う

が、これkらの日本ではそのような国家観にますます脅かされるようになるのではと思わされた。


    「キリストにあって歌を歌う」(『ルターによる日々のみことば』より)

 「死は勝利にのまれてしまった。
  死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
  死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」  
                   第一コリント15:55

 この歌を、今、わたしたちは、キリストの人格と、キリストとともにすでに死からよみがえらさ

れている人の人格とについて歌います。彼らはすでに死を通り、死に打ち勝っているからです。し

かし、わたしたちもやがてよみがえるとき、この歌をわたしたちに関係させて歌います。その時、

わたしたちも死を笑い、死をあざけって言います、「死よ、おまえは今どこにいるのか。ここには

生命があるのみだ。わたしはおまえの主人であり、君主である。以前にはわたしはおまえをおそれ

たが、今は、あまえはもはやわたしを傷つけることはできない。以前におまえは、わたしを墓の中

のうじ虫の中におき、わたしをおそろしくみにくい姿にしたが、今は、わたしは死からよみがえ

り、太陽よりも明るく輝いている。死よ、おまえはわたしをどのようにしたいのか。以前にはおま

えはわたしをおそれさせた。今は、おまえに髪の毛一本もふれさせない」。

                                 1545年の説教から