なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

復活節説教「望みに賭ける」

   「望みに賭ける」汽灰螢鵐硲隠機В隠押檻横押2017年4月16日(日)イースター礼拝

・今日はイエスの復活を記念するイースターの礼拝です。パウロがコリントの信徒への手紙15章で、コリ

ントの信徒たちに《兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。

これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわた

しが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはその福音によって救われます。さもな

いと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう》(1-2節)と言って、語っている

のがイエスの十字架と復活について、特に復活についての信仰です。15章の3節以下で、パウロはこのよ

うに語っています。《最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたもので

す。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこ

と、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後十二人に現

れたことです》(3-5節)と言っています。そして《次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れまし

た。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブ

現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わ

たしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値

打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵み

は無駄にならず、わたしは他のすべての使徒たちよりすっと多く働きました。しかし、働いたのは、実は

わたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。とになく、わたしにしても彼らにしても、このよ

うに宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした》(6-11節)と語っているので

す。

・今日の箇所では、コリント教会の中のある者が「死者の復活などない」と言っていることに対して、

「死者の復活がなかったとするなら、キリストの復活もなかっただろう」とキリストの復活信仰を弁証し

ているのであります。そして、《死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来

るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人

が生かされることになるのです》21,22節)と。パウロは語っているのです。このコリントの信徒への手

紙一の15章を読みますと、私たちを生かす命として復活信仰が諄々と説かれているのであります。

・12年前になりますが、紅葉坂教会時代にイースター礼拝の案内を出した方の一人から、お手紙をいただ

きました。その時はちょうど紅葉坂教会の牧師になってから10年が経ち、11年目になる時でしたので、

イースター礼拝の案内と共に、11年目に向けての挨拶に代えてという短い文章も加えて送っていました。

・そのお手紙を下さった方のお姉さんは若い時に洗礼を受けて、紅葉坂教会の教会員でした。詳しいこと

は聞いていませんが、結婚してしばらくして心を病み、離婚して実家でご両親の支えの下で生活していま

した。お父さんがお亡くなりになり、お母さんが元気だった頃は、お母さんがずっと世話されていたので

すが、お母さんがお年を召してお姉さんの世話をすることができなくなってからは、弟のその方が8年間

ほどお母さんとお姉さんの世話を続けておられたのです。お手紙をいただいた時からしますと、3年半く

らい前にお母さんもお亡くなりになりました。その時は、特別養護老人ホームに入っていますお姉さんの

世話をしておられますが、お姉さんを見舞っても反応が全くなく、暖簾に腕押しの接触なので自分の気力

も失いつつあり、また、最近そのホームから長期療養型の病院に移ってほしいと言われていて、今後のこ

とを考えると、自分も年をとってきているので不安でたまらないというのです。

・そして、このように書いて来られました。「ついついグチを申してしまいました。ご容赦ください。ク

リスト教徒でない小生には神は居るとは思えない今日この頃なのです。

・北村様も、紅葉坂教会で10年とか。いろいろご苦労もおありかと思います。書かれた言葉を読み返して

みましたが、今の私にはどうあてはめたらよいのか、残念ながら解りかねます。お礼を申し上げるつもり

が、逆になってしまい、ご不快を与えてしまったかも知れません。お許しください。」

・この方が自分に当てはめて私の書いた言葉が解りかねると言われるのは、私がこう書いたことだと思い

ます。私は10年ということで、ちょうど10年前の阪神・淡路大震災とオーム真理教による地下鉄サリン

事件に触れて、このように書いたのでした。「大地震は自然災害ですが、地下鉄サリン事件は人災です。

自然と人間の狂気の前に私たちは全く無力でした。果たしてその脅威に打ち勝つ道は私たちにはないので

しょうか。私は『神と人、人と人とをつなぐ』イエスの福音にはその力があると信じています。このイエ

スの福音の宣教のために、これまで以上に働いて参りたいと願っています。みなさまのお支えをよろしく

願い申し上げます。」

・私はこの方のお手紙から、あなたが私の立場だったら、同じことを書けますか。人間を無力にする脅威

の前で、それでもその脅威に打ち勝つ力がイエスの福音にはあるなどと、本当に言えますか。そういう問

いかけを受けたように思いました。厳しく考えれば、当事者ではないから、そんな勝手なことが言えるの

ではないかと。

・私はかつて紅葉坂教会での説教で、このお手紙を紹介した上で、このように申し上げました。「そうか

も知れませんが、それでも私はイエスの福音には死を命に変えるエネルギーがあるのではないだろうか

と、本気で信じているのです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫び

ながら十字架上で息絶えたイエスと、その後打ちひしがれていた弟子たちに、もう一度ガリラヤからやり

直そうという思いを込めて、弟子たちにガリラヤで会おうと伝えさせた復活のイエス、そしてイエスの顕

現に出会って、立ち直って歩み出した弟子たち、そのようなイエスの十字架と復活の出来事が伝えるメッ

セージに触れますと、死を命に変えるエネルギーがイエスの福音にはあると信じざるを得ないからです。

誰もが解るようにそれを証明することは、私にはできません。が、自分なりにその証言を生きている限り

続ける以外にないと思っています」と。

・さて死を命に変えるイエスの甦りの命とは、どのような命なのでしょうか。

・ 精神科の医者でキリスト者の柏木哲夫さんという方が、『心をいやす55のメッセージ』という著書

で、「生命と命」という題で、ヨハネ福音書の14章6節の「イエスは彼に言われた。『わたしは道であ

り、真理であり、いのちなのです。わたしを通らなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありませ

ん』」のテキストをめぐって書いています。その中で、ある学会で特別講演された方が、その講演で「生

命と命とは違うと思います」と言われたことに言及しているところがあります。

・〈「生命というのは閉じられているという特徴がある。それに対して、命というのは開かれているとい

う特徴がある。生命というのは有限であるけれども、命というのは無限である」。だから二者は違うのだ

というのです。/確かに私たちは「生命」という言葉と「命」という言葉を、どこかで分けて使っている

ように思います。私も「生命」には閉じられた有限さを感じます。「生命保険」の生命もどこかで終わっ

てしまうような印象があります。「生命維持装置」も、それを外せば生命は終わりです。それから、生命

は人間の皮膚の中に閉じ込められているという感じがします。心臓が動き、肺が動き、内臓が動いて、私

たちの生命を保っているわけですけれども、それは体全体を覆っている皮膚の中に閉じ込められた生命で

す。/しかし、「命」という言葉は皮膚を突き破って拡散するというか、広がるというか、そういう性質

をもっているのではないかと思います。たとえば、「この病院の命は全人医療です」という場合、「命」

もずっと続くもの、広がるものという、そんな感じがします〉と。

・私はこの生命と命という言葉の違いからヒントを得て、こんな風に思い巡らすことができました。十字

架上で確かにイエスの生命は死をもたらす権力者の横暴によって絶えたが、イエスの命はその死をもたら

す権力者の横暴によってもその輝きは失っていないと。生前のイエスの活動も、死を越えて輝く神からの

贈り物としての命のために自分の生命を捧げて生きたのではないか。十字架を担って生きるということ

は、そういうことではないかと思うのです。

・そこで改めにて福音書の次のイエスの言葉を思い起こします。

・「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るので

ある」(マタイ10:39)

・生命は自分の皮膚の内側に囲い込まれていますが、命は自分の皮膚の内側に囲い込むことは、そもそも

できないことなのです。それを無理にしようとすれば、かえって私たちは命を失うのです。逆にイエス

ために命を失う者、イエスのために、すなわちイエスと共に様々な痛みや苦しみを負った隣人のことを覚

えて、自分の生命を使う者は、かえって命を得ることになるのだと。

・わたしたちはこの逆説に敏感でありたいと思います。この私たちの皮膚で囲まれて閉じられた生命では

なく、私たちの皮膚を突き破って広がっていく命の共同体を思う時に、「キリストは死者の中から復活

し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言われているように、死者たちを含む命の共同体を思

い描くことが許されるのではないでしょうか。アダムの末裔としてではなく、「キリストによってすべて

の人が生かされる」神の子どもとしての、神の国の住人たちの共同体です。それは、パウロによれば、肉

の体による共同体ではなく、霊の体による共同体です。肉の体から解放されて、霊の体において私たちす

べてが一つになる、そのような共同体です。そういう約束の共同体に加えられる一人一人として、なお一

つとはなり得ない、自分の皮膚の内側に閉じた生命を守るために、他者である隣人を敵対者のようにして

生きている現在を、私たちは生きていきたいと思うのです。キリストの復活の命によって私たちが満たさ

れますように!