なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(309)

         船越通信癸械娃后。横娃隠掲4月16    北村慈郎


・今日はイースターです。皆様の上に主の復活の命が豊かにありますように!


・9日の日曜日は棕櫚の主日で、この日の礼拝は6名の出席でした。久しぶりに10名以下の礼拝出席者で

した。礼拝後いつものようにお茶を飲みながら懇談し、散会しました。この日は2017年度の船越教会定期

教会総会の資料を配布しましたので、欠席の方には郵送いたしました。次週の準備をして、午後2時過ぎ

に船越教会を出て、鶴巻に向かいました。


・この週から農伝の説教演習の授業が始まりましたので、11日(火)は午後1時からの授業に間に合う

ように出かけました。この日は雨の日で、町田からバスに乗り席に着いたら、二宮教会の牧師のYさんが

同じバスに乗って来て、一緒に農伝まで行きました。野津田車庫のバス停を降りて、時間が迫っていまし

たので、急な坂を登る近道を選んで、二人で息をハアハア言わせながら登って、時間前に農伝校舎にたど

り着きました。農伝の里山の木々には若芽が顔を出し始めていました。もうすぐ生命の横溢が感じられる

新緑の季節です。火曜日午後の農伝の授業の中に3時限目に平良愛香さん、4時限目に堀江有里さんの解放

講座がありますので、Yさんはその聴講に来たということでした。私の説教演習はこの日が最初で、今年

は3人が受講することになりました。昨年度は9人が受講しましたので、昨年と同じようにすると、今年

は一人の説教演習の回数が3倍になりますので、最終的な説教に至る過程についても共有する時を持つよ

うにしたいと思っています。


・説教については加藤常昭さんの存在は大きいと思います。その加藤さんが年を取ってある種の遺言のよ

うな形で書いた『説教への道:牧師と信徒のための説教学』を読んでみました。彼がはじめた説教熟に

は、現在250名から300名の教派を超えた牧師たちが集まっていると言われています。昨年度の農伝

の学生の中にも説教熟の合宿に参加した人もいました。昨年出版された上記の本を読んで見て感じたこと

は、一つは、加藤さんの説教学の中には、説教する人間の問題がほとんど取り上げられていないというこ

とです。例えば農伝では現場研修ということで、寿での実習が必須科目になっています。また、いくつか

解放講座が組まれていて、差別の問題を扱っています。そのような講座を神学校の教科の中に組み込むと

いうことは、社会構造の中での自分の立ち位置についての批判的検証の必要を考えているからだろうと思

われます。そういう説教者自身の社会的な自己検証については、加藤さんの説教学には全くないと言って

も過言ではありません。これは、加藤さん自身が万博・東神大問題を一方の当事者の一人として経験した

にも拘わらず、この問題をあたかも何事もなかったかのように受け止めてきたことを意味するのではない

でしょうか。もう一つは、説教者に求められる教会伝統としての教理や信条の学びを強調していることで

す。それは、教会の伝統への無理解から聖書解釈もその人の思いつきによるという極端な在り方への批判

という意味では、分からないわけではありませんが、教会伝統は絶対化することではなく、聖書との取り

組によって常に再構築されていくべきものであるはずです。バルトの本を読んでいますと、バルトは教会

伝統に誠実に向かい合いながら、同時に聖書との取り組みによって、カルヴァンの予定論の批判的継承の

ように教会伝統の再構築をめざしているように思うのです。その点バルトには批判的な主体を感じるので

す。自分自身も批判的に乗り越えてくれていいのだよと、バルトが言っているような自由さです。けれど

も、加藤常昭さんにはそのような自由さは全く感じられません。彼からは権威主義的体質は感じられて

も、批判的な自由さは感じられません。ですから、加藤さんの説教熟からは加藤さんを批判的に乗り越え

る人がでてくるとは、私には思えません。残念なことですが。それほど神学に詳しいわけではありません

が、私は神学ほど批判的な自由さが必要な学問はないと思っています。その意味で、加藤さんの説教学を

きちんと批判しておく必要があるのではないかと思っています。


・13日(木)は午後から出かけて教区事務所にオリエンテーションの年度報告書を届け、午後4時30分

から高座渋谷教会で基地・自衛隊問題小委員会(以下基地小)があり、出席しました。定例の諸報告の他

に、新年度の取り組みについて話し合いました。オリエンテーション委員会では、3年に一回神奈川の基

地問題を扱います。今年度はその年に当たり、9月18日(月・祝)に船越教会を会場にして、非核宣言運

動・ヨコスカの新倉裕史さんに講演をお願いし、午後2回に分けて、船越教会から10分ほどの深浦港に停

泊している平和船団のボートで海上自衛隊と米軍海軍横須賀基地を海から監視する体験を予定していま

す。基地小に共催をお願いしたところ、快く受け入れてくださいました。基地小では、その他に集会を考

えているところです。講師にお願いしたい方の名前はあがりましたが、可能かどうか確認した上で、来月

具体的に考えて行くことになりました。集会後高座渋谷教会牧師のKさんと話があり、30分ほど話しをし

て、その後一人で鶴巻に帰りました。


・14日(金)は受苦日でしたが、午後寿の炊き出しに行き、昼の配食で器洗いのボランティアをしてか

ら、船越に向かいました。船越ではこの日の夜に聖書研究がありました。H・Sさんは現在入院中ですの

で、TさんとH・Tさんと私とで、テモテの第一の手紙2章を学びました。特に2章9節以下には、女性差別

示す記事があり、改めてこのような記事のある聖書という書物は、解釈次第では差別的な書物と烙印を押

されても仕方ないのではと思わされました。《・・・婦人はつつましい身なりをし、髪を編んだり、金や

真珠で高価な着物を身に着けてはなりません。むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人

にふさわしいことです。婦人は静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりす

るのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです》(汽謄皀2:9-12)。このような聖書

の箇所を原理主義的に解釈されては、たまったものではありません。それにしても牧会書簡の教会と現在

の教団中枢の考える教会との類似性を考えさせられています。